2019年10月22日火曜日

 今日の即位の礼はあいにくの雨の中を行われた。大正・昭和・平成と即位の礼は大嘗祭の直前の十一月十日(平成は十二日)に行われて来たのに、どうして今回は神様のいない月になってしまったのか疑問だ。恵比寿様に祝福されたかったのか。(旧暦ではまだ長月だが、それだと新暦の大嘗祭は神無月になる。)
 十月は関東では秋の長雨の続くことが多く、台風のシーズンでもある。雨は予想できただろうに。まあ虹が見えたというツイットもあったようだから、それはそれで目出度い。虹は凶兆だという説もあるが、天地は陰陽不測で、吉凶を判断するのは結局人間だ。
 テレビで高御座(たかみくら)が紹介されていたが、花山天皇のことが思い出される。実質的な統治を行わない天皇の最大の仕事はお世継ぎを作ることだったから、昔はこういう話もタブーではなく、むしろ色好みを賛美する土壌があって、そこから『源氏物語』も生まれたのだろう。
 安定した皇位継承者の数を確保するには、昔みたいに一夫多妻を認めるというのも一つの選択肢かもしれない。
 女帝を認めるなら、もう一度宇佐八幡宮の神託を得る必要があるのではないか。

 「あれあれて」の巻で苦戦していた土芳だが、のちに『三冊子』を書いたときに、この巻の芭蕉の脇にも触れている。
 今回は『三冊子』に記された芭蕉の脇の付け方を見てゆくことにしよう。

  「あれあれて末は海行野分かな
  鶴のかしらをあぐる粟の穂
   鳶の羽もかいつくろハぬ初しぐれ
  一吹風の木の葉しづまる
 此脇二は、前後付一体の句也。鶴の句は、野分冷じくあれ、漸おさまりて後をいふ句なり。静なる体を脇とす。
 木の葉の句は、ほ句の前をいふ句也。脇に一あらし落葉を乱し、納りて後の鳶のけしきと見込て、発句の前の事をいふ也。ともにけしき句也。」(岩波文庫『去来抄・三冊子・旅寝論』p.123)

 「前後付一体の句」は江戸中期以降の注釈だと「二句一章」ということになるのだろうけど、一首の和歌のように緊密に付いているということか。
 脇は発句の挨拶の寓意に対し、それを迎える主人の挨拶の寓意を込めることが多いが、この句はそうした寓意はなく、軽く景色を付けて流している。
 たとえば『奥の細道』の頃だと、

   風流の初めやおくの田植歌
 覆盆子を折て我まうけ草     等躬

のように、風流(俳諧興行)を田植歌の興で始めましょうという挨拶に対し、それならイチゴを用意しましょうという風に同じく挨拶で受ける。

   馬かりて燕追行別かな
 花野みだるる山のまがりめ    曾良

にしても、行ってしまう芭蕉と曾良に対する北枝の別れの挨拶で、いくら馬でも燕には追いつけませんという寓意のある発句に対し、花の咲き乱れる野原で山の曲がり目だから、別れにふさわしい場所ですと会話するように付けている。
 芭蕉の最後の興行になった「白菊の」の巻でも、

   白菊の眼に立て見る塵もなし
 紅葉に水を流すあさ月      その女

のように、芭蕉がその女を白菊に喩えたのに対し、朝早く流し場に立つ普通の女ですと寓意を込めた句で返している。
 これからすると、「鶴のかしらをあぐる粟の穂」は寓意に乏しく、嵐の去った後の景色でさらっと流している。
 「一吹風の木の葉しづまる」の句も発句の鳶の羽をかいつくろうというところから、風も収まったからだとする。
 特別寓意に満ちた会話はないけど、「台風が去ったね」「鶴も首を挙げているよ」、「鳶が羽をつくろってるね」「風も収まったからね」というふうに会話になっている。

  「寒菊の隣もありやいけ大根
  冬さし籠る北窓の煤
 此脇、同じ家の事を直に付たる也。内と外の様子也。煤の字有て句とす。」(岩波文庫『去来抄・三冊子・旅寝論』p.123)

 これは『校本芭蕉全集 第五巻』(小宮豐隆監修、中村俊定注、一九六八、角川書店)に、表三句が掲載されている。

   深川の草庵をとぶらひて
 寒菊の隣もありやいけ大根    許六
  冬さし籠る北窓の煤     翁
 月もなき宵から馬をつれて来て  嵐蘭

 許六の「寒菊の」の句は『俳諧問答』にも登場し、「翁の論じて云ク、世間俳諧するもの、此場所ニ到て案ずるものなしと称し給ふ。」とある。
 いけ大根は土に埋めて保存する大根で、寒菊の隣には大根も埋まっている。冬の花の孤独に咲く姿は寓意もあり、春を待つ冬大根もその寓意に寄り添う。
 これに対しての芭蕉の脇は、寒菊といけ大根の外の景色に対し、さし籠る部屋の北窓には火を焚いた煤がこびりついてゆく、と受ける。「さし籠る」は「鎖し籠る」で引き籠るに同じ。
 「煤の字有て句とす」というのは、ここに春までの時間の経過が感じられ、いけ大根の春を待つ情に応じているからだろう。
 寓意を弱くして、発句の情を受けながらも、前と後、内と外と景を違えて付けるのが、芭蕉の晩年の脇の風だったのだろう。

  「しるべして見せばやみのの田植うた
  笠あらためん不破の五月雨
 此脇、名所を以て付たる句也。心は不破を越る風流を句としたる也。」(岩波文庫『去来抄・三冊子・旅寝論』p.123~124)

 これは貞享五年夏の句。『校本芭蕉全集 第四巻』(小宮豐隆監修、宮本三郎校注、一九六四、角川書店)にはこうある。

    ところどころ見めぐりて、洛に暫く旅ねせしほど、
    みのの国よりたびたび消息有て、桑門己百のぬ
    しみちしるべせむとて、とぶらひ来侍りて、
 しるべして見せばやみのの田植歌 己百
  笠あらためむ不破のさみだれ  ばせを

 「美濃の田植歌へとご案内しましょうか」という発句に対し、「それじゃあ不破の関の五月雨に備えて笠を新しくしましょう」と答える。
 晩年の軽く景を付けて流す風ではなく、美濃への旅を思い描く中から、不破の関という途中の名所を付けている。

  「秋の暮行先々の苫屋かな
  荻にねようか萩にねようか
 此脇、発句の心の末を直に付たる句なり。」(岩波文庫『去来抄・三冊子・旅寝論』p.124)

 これは元禄二年秋、『奥の細道』の旅の最後に伊勢へ向うときの句で、『校本芭蕉全集 第四巻』(小宮豐隆監修、宮本三郎校注、一九六四、角川書店)には四句が収められている。

    ばせを、いせの国におもむけるを舟にて送り、
    長嶋といふ江によせて立わかれし時、荻ふし
    て見送り遠き別哉 木因。同時船中の興に
  秋の暮行さきざきの苫屋哉   木因
   萩に寝ようか荻に寝ようか  ばせを
  玉虫の顔かくされぬ月更て   路通
   柄杓ながらの水のうまさよ  曾良

 行く先々に苫屋があるという発句に、そのままそこで寝ようかと付けている。「萩」と「荻」の字が似ていて間違えやすいというところをネタにして、「萩に寝ようか荻に寝ようか」となる。
 謡曲『松風』の在原行平の3Pを匂わせているのかもしれない。

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