今日は台風で仕事も休み。とは言っても店も休みだし、一日家で台風をやり過ごした。我が家には特に被害はなかったが、明日になったらいろいろ被害情報が出てくるんだろうな。
それでは「松風に」の巻、挙句まで。
四十五句目。
月見にいつも造作せらるる
駕もゆらゆらとする秋のかぜ 望翠
「駕」は「のりもの」と読む。
月見の季節は台風の強い風が吹くことも多い。駕籠もあおられる。月見の宴とはいっても、行くのがおっくうになる。
四十六句目。
駕もゆらゆらとする秋のかぜ
浜の小家を過る霧雨 惟然
浜辺は海風が強く吹く。
駕籠に乗る身分の者と浜辺の小家に住む身分の者とを対比させて、駕籠に乗るのも大変だが、霧雨の吹きつけてくる小家はもっと不安だろうなとなる。
四十七句目。
浜の小家を過る霧雨
懐に取出して置くとどけ状 卓袋
江戸時代は飛脚が発達していたが、僻地ともなると飛脚問屋も遠く、誰か通りがかる人に託したのだろう。何の手紙なのか。
四十八句目。
懐に取出して置くとどけ状
いそぎの薺に白豆腐にる 支考
「薺」は「斎(とぎ)」のこと。法要など仏事のさいの食事で、コトバンクの「お斎」の所には「ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説」に、
「時,斎食 (さいじき) ,時食ともいう。斎とは,もともと不過中食,すなわち正午以前の正しい時間に,食べ過ぎないように食事をとること。以後の時間は非時といって食事をとらないことが戒律で定められている。現在でも南方仏教の比丘たちはこれをきびしく守っている。後世には,この意味が転化して肉食をしないことを斎というようになり,さらには仏事における食事を一般にさすようになった。」
とある。
前句を死亡を知らせる手紙とし、葬式の準備とした。
「白豆腐」というから白くない豆腐もあったのだろうか、高野豆腐に対しての言葉なのか。
四十九句目。
いそぎの薺に白豆腐にる
雪隠の窓よりのぞく花の枝 猿雖
「雪隠(せっちん)」はトイレのことだが、その語源についてコトバンクの「百科事典マイペディアの解説」に、
「〈せついん〉の促音。厠(かわや),便所のこと,義堂周信の《空華集》によれば,唐の雪竇(せっちょう)禅師が霊隠寺の厠をつかさどったところから由来したとも,同じく唐の禅師雪峰義存が厠を掃除して大悟した故事に由来するともいう。地方名せんちん,せちん,せんち。」
とある。今でも素手でトイレ掃除をすると運が開けるだとか出世するだとかいうのは、このあたりから来ているのか。
前句のお斎を僧院での食事とし、その縁で厠ではなく仏教に縁のある雪隠という言葉を出し、花の枝に雪隠で悟りを開いた古人を思うといったところか。
挙句。
雪隠の窓よりのぞく花の枝
根笹づたひに鶯の啼 雪芝
根笹はアズマネザサなどのどこにでもある雑草の笹で、高さは三メートルから四メートルにもなる。雪隠の桜に、あまり風流ともいえない根笹と鶯を取り合わせる。雅俗入り混じりお目出度くこの五十韻も終了する。
あとはこの雪芝さんの作った新酒で乾杯といったところか。
江戸で炭俵調を確立して上方へ登った芭蕉さんだったが、どこか猿蓑調の残る故郷の門人達と、とにかく出典をはずして軽くすることで新しいものを生み出そうと工夫した跡は残っている。
「うつかりと」「ごそごそとそる」「のらなんだ」「せりせりと」「しみなり」「しつぱりと」「ゆらゆらとする」といった言葉の使用は後の惟然風にも繋がるものだろう。
朝夕の茶湯ばかりを尼の業
飼ば次第に牛の艶つく 雪芝
飼ば次第に牛の艶つく
枯もせずふとるともなき楠の枝 卓袋
は物付けといえば物付けだが、古典だけでなく伝承の類に俤付けを拡大させたとも言える。
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