今日は横浜オクトーバーフェストに行き、九月の台風で落ちた梨を使ったという和梨のヴァイツェンを飲んだ。
そのほかにも横浜よさこい祭りを見たり、山手の洋館を見たりして、楽しい一日だった。
それでは「あれあれて」の巻の続き。挙句まで。
二裏。
三十一句目。
暫く岸に休む筏士
衣着て旅する心静也 芭蕉
「衣(ころも)」はweblio古語辞典の「学研全訳古語辞典」に、
「①衣服。
出典万葉集 二八
「春過ぎて夏来たるらし白栲(しろたへ)のころも干(ほ)したり天(あま)の香具山(かぐやま)」
[訳] ⇒はるすぎてなつきたるらし…。
②僧の着る衣服。僧衣。
参考平安時代以後、①は歌語としてだけ用いられ、衣服一般には「きぬ(衣)」、その尊敬語には「おんぞ(御衣)」を使った。物語の地の文などで「ころも」と読むのは、もっぱら②の意味である。」
とある。
ただ、「ころもがえ」や「たびごろも」「なつごろも」という時は別に僧衣ではないし、和歌の言葉は俳諧にも引き継がれているから、僧衣でなくても「ころも」を使うのは珍しくない。
ただ、芭蕉が『奥の細道』の旅で詠んだ『奥の細道』未収録の、
種(いろ)の浜
衣着て小貝拾はんいろの月 芭蕉『荊口句帳』
のように単独で用いられると、何の衣かと言ったときには多分僧衣なのだろう。
汐そむるますほの小貝拾ふとて
色の浜とはいふにやあるらむ
西行法師
の歌に因んだものとなれば、西行法師のように僧衣を着てというふうに取れる。
まあ、旅をする時には僧形になる場合も多いから旅衣も僧衣の場合が多い。芭蕉も『野ざらし紀行』の伊勢の所で、
「腰間(ようかん)に寸鐵(すんてつ)をおびず。襟に一嚢(いちのう)をかけて、手に十八の珠を携ふ。僧に似て塵有(ちりあり)。俗ににて髪なし。我僧にあらずといへども、浮屠(ふと)の属にたぐへて、神前に入事(いること)をゆるさず。」
とあるし、『奥の細道』でも曾良を紹介する時、
「このたび松しま・象潟(きさかた)の眺(ながめ)共にせん事を悦び、且つは羈旅(きりょ)の難をいたはらんと、旅立暁(たびだつあかつき)髪を剃りて墨染にさまをかえ、惣五を改めて宗悟とす。」
とある。
この場合も、僧形で旅する心静也という意味でいいのだろう。仕事で急ぐ人と違い僧形の気ままな旅なら、筏がなかなか出なくてもいらいらしない、というところか。
三十二句目。
衣着て旅する心静也
加太へはいる関のわかれど 土芳
『芭蕉門古人真蹟』では最初上五が「伊賀路に」とあり、消して右に「加太へ」と書いてある。
江戸時代の東海道は関宿を出ると鈴鹿川を北上し、鈴鹿峠を越えて甲賀へと抜ける。ここを加太川(かぶとがわ)に沿ってゆくと伊賀へ抜ける。芭蕉にとっても伊賀の連衆にとってもお馴染みの道に違いない。
前句の旅人を芭蕉さんとして東海道を普通に行かずに伊賀に立ち寄るとしたのだろう。楽屋落ちとも言える。
ただ、「伊賀路」だとその作意が露骨なので、途中の地名の「加太」にしたのではないかと思う。
三十三句目。
加太へはいる関のわかれど
耳すねをそがるる様に横しぶき 猿雖
「耳すね」は『校本芭蕉全集 第五巻』の注に「耳のずい」とある。これでもよくわからない。耳たぶのことのようだが断定できないということか。
「横しぶき」はコトバンクの「大辞林 第三版の解説」に、
「横なぐりに降る雨のしぶき。」
とある。山中での悪天候に難儀する旅人を付ける。
苦しくも降り来る雨か神(みわ)が崎
狭野(さの)の渡りに家もあらなくに
長忌寸奥麿(万葉集)
の歌を髣髴させる。この歌は、
駒とめて袖打ち払ふ陰もなし
佐野のわたりの雪の夕暮れ
藤原定家朝臣(新古今集)
の本歌ということで、本歌取りの例として受験勉強で覚えさせられた人も多いことだろう。佐野は和歌山県新宮市の熊野路の佐野で、栃木県の佐野ではない。
三十四句目。
耳すねをそがるる様に横しぶき
行儀のわるき雇ひ六尺 望翠
「六尺」はコトバンクの「百科事典マイペディアの解説」には、
「陸尺とも記。江戸時代,武家における駕籠(かご)かき,掃除夫,賄(まかない)方などの雑用に従う人夫をいった。江戸城における六尺は奥六尺・表六尺・御膳所六尺・御風呂屋六尺など数百人に及び,彼らに支給するため天領から徴集した米を六尺給米といった。頭を除いてはいずれも御目見以下,二半場(にはんば),白衣勤,15俵1人扶持高であった。」
とある。ここでは武家のお抱えの駕籠かきのことか。
「行儀」はweblio古語辞典の「学研全訳古語辞典」に、
「①なすべきこと。手本とすべき規範。
②立ち居振る舞い。また、その作法。」
とある。今日の「行儀が悪い」よりはやや広い意味で用いられていたか。
多分、風雨が強いのにいきなり駕籠の引き戸を開けたりしたのだろう。そんなことしたら雨が吹き込んでびしょぬれになる。
三十五句目。
行儀のわるき雇ひ六尺
大ぶりな蛸引あぐる花の陰 配刀
『芭蕉門古人真蹟』では、この句は最初、
行儀のわるき雇ひ六尺
花盛湯の呑度をこらへかね
だった。「呑度」は「のむたび」か。お湯を飲んでばかりいるということか。前句の「行儀のわるき」をそのまま付けたのだろう。打越も六尺の無調法なので、展開に乏しい。芭蕉としてはここは普段無調法の六尺も花の席で手柄を立てたというほうに持ってきたかったのだろう。
行儀のわるい人が急に行儀良くしても面白くないから、ここはそういう人だけ突拍子もないことをする、という方に持ってゆく。
場所は明石だろうか。花見の席で蛸壺を引き上げると、大ぶりな蛸がそこに。これは目出度い。「六尺」には「賄(まかない)方」の意味もあったから、これをその場で捌いてご馳走してくれたのだろう。
挙句。
大ぶりな蛸引あぐる花の陰
米の調子のたるむ二月 木白
『芭蕉門古人真蹟』では、この句は最初、
大ぶりな蛸引あぐる花の陰
戸を押明けてはいる朧夜
だった。「夜」の右に「の暮」と書いてあるが、「朧の暮」「春の暮」にしようとしたか。いずれにせよ字数が合わない。結局全部消して「米の調子」の句に治定する。
二月は米の相場も薄商いなのか。年貢米も集まり田植もまだという所で、相場があまり動かなかったのだろう。田植が始まればにわかに先物相場が活気付きそうだが。
八月九日付けの去来宛書簡に「しぶしぶの俳諧、散々の句のみ出候」とあるところからすると、最後の付けなおした二句は実質的に芭蕉の句だったのだろう。大タコも米相場もなかなか凡人の発想では出てこない。
ここでも木白が挙句を詠んでいるところを見ると、木白は主筆だったのだろう。そう見るとやはり十八句目の初案は半歌仙の挙句だったか。
そうなると十二句目の、
頃日は扇子の要仕習ひし
湖水の面月を見渡す 木白
の句は、みんなが付けあぐねている時に芭蕉が木白にも振ってみて、この句ができたら「これだ」と思って治定したか。
多分木白は普通に景を付けただけだったのだろう。ただ芭蕉はすぐに近江の国の高島扇骨のことが閃いたか。
十七句目の花の定座の時が特にそうだが、土芳も芭蕉の新しい風についていけずに苦戦していた感じが伝わってくる。
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