昨日の韓国のデモは新聞でもテレビでもまったく報道されていない。あれは幻だったか。
まあ、それはともかく「松風に」の巻の続き。
二表。
二十三句目。
陽気をうけてつよき椽げた
幸と猟の始の雉うちて 雪芝
前句を易の地天泰の卦に見立てたか。
地天泰は下三本が陽、上三本が陰で、下から陽気が上昇し、上から陰気が降下し、互いに交わる天地和合を意味する。天地が引き裂かれてゆく天地否と真逆になる。
屋根を支える桁(けた)を陽、その上に左右に渡す椽(たるき)を陰に見立てれば、地天泰の卦になる。
天地否が七月で秋の初めのように、地天泰は正月、春の初めになる。それで一年の猟の初めに雉を撃つ。
「いる」のではなく「うつ」とあるから火縄銃で撃ったのだろう。ウィキペディアの「銃規制」の項に、
「徳川綱吉の時代、貞享4年(1687年)の諸国鉄砲改めにより、全国規模の銃規制がかけられた。武士以外の身分の鉄砲は、猟師鉄砲、威し鉄砲(農作物を荒らす鳥獣を追い払うための鉄砲)、用心鉄砲(特に許された護身用鉄砲)に限り、所持者以外に使わせないという条件で認められ、残りは没収された。この政策は綱吉による一連の生類憐れみの令の一環という意味も持ち、当初は鳥獣を追い払うために実弾を用いてはならないとするものだった。それでは追い払う効果が得られず、元禄2年(1689年)6月には実弾発射が許された。」
とある。猟師は鉄砲の使用を許されていた。
二十四句目。
幸と猟の始の雉うちて
内儀の留守に子供あばるる 支考
「内義(ないぎ)」は町人の妻の敬称。子供からすれば母になる。
そのうるさい母親が留守なのをこれ幸いと、子供達は狩猟ごっこで大暴れする。
二十五句目。
内儀の留守に子供あばるる
道場の門のさし入だだくさに 猿雖
「だだくさ」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」に、
「〘名〙 (形動) 雑然として整理のいきとどかないこと。また、そのさま。粗雑。疎略。ぞんざい。
※俳諧・新続犬筑波集(1660)一一「そろへぬはこれぞだだくさなづなかな〈重定〉」
とある。
「さし入(いり)」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」に、
「① 中へはいること。また、はいってすぐの所。
※曾我物語(南北朝頃)七「まづ見たまふやうにとて、さしいりの障子の際にぞをきたりける」
② はいってすぐの時。その季節やその月にはいってすぐの頃。
※浮世草子・懐硯(1687)三「持病に顛癇(てんかん)といふものありて、年毎の小寒の末大寒のさし入にかならず発(おこ)りて」
③ (「さしいりに」の形で) まずはじめに。
※身のかたみ(室町中頃)「御はなは、顔のうちのぐに、とりわきさしいりにめにたつものにて候」
とある。今日でいう「さし入れ」ではなく、道場の門を入ったあたりがちらかっていてという意味で、どうしたのかと思ったらお内儀さんが留守で子供が暴れまわってるからだ、となる。
二十六句目。
道場の門のさし入だだくさに
一里の渡し腹のすきたる 望翠
一里の渡しは浜名湖の今切(いまぎれ)の渡しのことか。ただ、この頃はまだ宝永地震の津波の前なので、一里ではなく二十七町だった。(一里は三十六町)
前句との関係がよくわからない。道場は元は釈迦が悟りを開いた場所のことで、それが転じてお寺の意味もあるが。
二十七句目。
一里の渡し腹のすきたる
山はみな蜜柑の色の黄になりて 芭蕉
腹がすいている時は山の黄葉も蜜柑に見える。
二十八句目。
山はみな蜜柑の色の黄になりて
日なれてかかる畑の朝霜 支考
「なれる」は輪郭を失うこと。朧月ならぬ朧太陽といったところか。朝霧のせいでそうなる。日の光が乱反射して、山は蜜柑色に染まる。
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