西洋以外で、文化も伝統も大きく異なるにもかかわらず、日本はいち早く近代化に成功し、民主主義も根付くことができた
しかもキリスト教のような一神教の文化を取り入れるでもなく、多神教の風土のまま近代化できたというのは、やはり奇跡なのかもしれない。
かつての新興国も、中国を筆頭にロシア、トルコ、韓国といった国が時代に逆行するようなことをする中、日本が違っていたのは、かつて和、漢、印度の文化を並存させてきたその延長で西洋の文化もうまく並存させることができたからかもしれない。
これは多言語環境に育った人が新しい外国語を容易に付け加えることができるのに似ているかもしれない。多文化環境を作るというのが、これからの世界の一つの課題になるだろう。
多文化を並存させるには、矛盾を気にしないということが大事だ。人間は矛盾した生き物で、人生に矛盾は付き物と、それくらいに考え、あまり統一ということにこだわらない方がいい。
混沌は万物の母。混沌を恐れるな。
それでは芭蕉脇集の続き。
元禄四年
芽出しより二葉に茂る柿ノ実 史邦
畠の塵にかかる卯の花 芭蕉
『嵯峨日記』の中に見られる句。
四月二十五日、落柿舎にやってきた史邦が披露した発句に、翌二十六日、この句に芭蕉が脇を付け、去来が第三、丈草が四句目、乙州が五句目を付けている。
発句の「柿ノ実」は「かきのさね」と読む。果実の中心にある枝のことで、やがて果実が実るであろう新芽の枝と思われる。
柿の芽は対生で分厚く幅の広い葉が二枚向かい合って生え、その付け根の所に蕾ができ、やがて花が咲き、実となる。落柿舎だけにちゃんと実って欲しいものだ。
これに対し、芭蕉の脇は「卯の花の塵の畠にかかる」の複雑な倒置で、柿の若葉の緑に卯の花の白を添える。
蠅ならぶはや初秋の日数かな 去来
葛も裏ふくかたびらの皺 芭蕉
七月中旬、京での五吟歌仙興行。メンバーは去来、芭蕉、路通、丈草、惟然。「牛部屋に」の巻と同じ頃のもの。ここでも路通は芭蕉の次に来ていて、去来とは当たらないようにしている。
夏の五月蝿い蠅も初秋も何日か過ぎるとおとなしく並んで留まっている。別に蠅が誰というわけではないし、特に寓意はない。
芭蕉の脇は、葛の葉が秋風に裏返るように、帷子にも皺が寄ると付ける。初秋から秋風を連想するが、風と言わずして風を表現している。
芭蕉翁行脚の時、予が草戸を扣き
て、作りなす庭に時雨を吟じ、洗
ひ揚たる冬葱の寒さを見侍る折か
らに
木嵐に手をあてて見む一重壁 規外
四日五日の時雨霜月 芭蕉
元禄四年九月二十八日、芭蕉は長い上方滞在を終え、再び江戸に向べく木曽塚無名庵を出る。そして十月三日前後、美濃垂井の規外亭に滞在する。その時の句。
発句の「木嵐」は「こがらし」と読む。薄い壁に手を当てれば、木枯らしに揺れているのが分かる、そんな粗末な家ですという謙虚な句に、芭蕉は特に寓意を返さずに、四日五日時雨が続きましたね、と単なる気候の挨拶にする。
奥庭もなくて冬木の梢かな 露川
小春に首の動くみのむし 芭蕉
十月には名古屋の露川と対面し、露川は入門する。
土芳の『三冊子』に、
「この脇、あたたかなる日のみの虫なり。あるじの貌に客悦のいろを見せたるはたらきを付たる句也。」
とあるように、葉が落ちた木の向こうには透けて見える結構な庭があるわけでもない、と小さな庭を謙遜して詠んだ発句に対し、小春の暖かな日差しに蓑虫も思わず首を出して、冬木の景色を見回しているよ、と応じる。
芭蕉が自分自身を蓑虫に喩え、「客」である芭蕉が「悦のいろを見せ」ている。初対面の挨拶ではこうした寓意のやり取りも生きている。
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