日本の現代美術も衰退が著しいせいか、最近ではほとんど炎上商法に成り下がっている。確かに右翼が騒げばマスコミも取り上げ、話題になるには違いない。ただ、結局今の日本の現代美術はその程度のものかということにもなりかねない。程々にしておいたほうが良いと思う。
風刺ネタはあくまで人を嘲笑する勝ち誇った笑いで、あるあるネタのような共感でもって人と人とを繋ぐ笑いとは質を異にする。
あと、あいちトリカエナハーレ、パヨクの猿真似じゃないか。芭蕉は「像(かたち)花にあらざる時は夷狄にひとし。」と言ったが、あれのどこに花があるのかな。
まあ、それはともかく芭蕉脇集、元禄二年の続き。
翁を一夜とどめて
寝る迄の名残也けり秋の蚊帳 小春
あたら月夜の庇さし切 芭蕉
『奥の細道』の旅で七月十六日から二十四日まで金沢の宮竹や喜左衛門方で過ごす。『校本芭蕉全集』第四巻(宮本三郎校注、1964、角川書店)の注によると、喜左衛門は旅宿業で小春はその子だという。
「一夜とどめて」とあるから、七月十七日の吟か。曾良の『旅日記』よると、この日芭蕉は源意庵へ遊び、曾良は病気で留守番だったようだ。このときの病気が八月五日の山中温泉での別れにつながるのか。
発句は前日の夜を思い出しての句であろう。蚊帳を吊った中で芭蕉、曾良、北枝らと遅くまで話し込んで、遅くなってから寝たのだろう。その寝るまでの楽しかったことを思い出して、秋の蚊帳がその名残を留めている。
これに対して芭蕉は月夜なのに庇を閉ざしてしまったのが悔やまれる、とする。事実をそのまま付けたのであろう。
このあと、曾良が第三を詠み、北枝が四句目を詠んでいる。
ばせを、いせの国におもむけるを
舟にて送り、長嶋といふ江によせ
て立わかれし時、荻ふして見送り
遠き別哉 木因。同時船中の興に
秋の暮行さきざきの苫屋哉 木因
萩に寝ようか荻にねようか 芭蕉
八月二十一日、芭蕉は途中で迎えにきた路通とともに大垣に着き、九月四日には病気で先に帰った曾良とも合流することになる。
そして九月六日には伊勢へと向う船に乗る。これはその時の船の中での吟。
この句は土芳の『三冊子』にも、「此脇、発句の心の末を直に付たる句なり。」とある。
行く先々に萩や荻が付き、苫屋に寝るが付く。萩と荻は字が似ていて紛らわしいし、苫屋に泊るというところには謡曲『松風』の在原行平の俤も感じられる。
草箒かばかり老の家の雪 智月
火桶をつつむ墨染のきぬ 芭蕉
『奥の細道』の旅も伊勢で終わり、芭蕉は一度故郷の伊賀に戻る。このときあの「初しぐれ猿も小蓑をほしげなり 芭蕉」の句が生まれる。そしてそのあと芭蕉は奈良から京都へ行き、十二月には大津の智月宅を訪ねる。
そこでまず芭蕉の方から、
少将のあまの咄や志賀の雪 芭蕉
と挨拶する。少将の尼は藻壁門院少将(そうへきもんいんのしょうしょう)のことで、藤原信実の娘。鎌倉時代の人。
関白左大臣家百首歌よみ侍りけるに
おのがねにつらき別れはありとだに
思ひもしらで鳥や鳴くらむ
藻壁門院少将(新勅撰集)
の歌が代表作といえよう。この歌を以てして「おのがねの少将」と呼ばれている。芭蕉も智月に「おのがねの少将」のような恋物語を期待したのだろうか。智月は、
少将のあまの咄や志賀の雪
あなたは真砂爰はこがらし 智月
と返す。
真砂というと、
君が代の年の数をば白妙の
浜の真砂と誰かしきけむ
紀貫之(新古今集)
の賀歌のように、砂の数を歳の数に喩え、長寿をことほぐのに用いられる。芭蕉は寛永二十一年(一六四四)生まれで、智月は寛永十年(一六三三)頃の生まれとされている。年齢からすると智月の方が一回り以上上になる。
智月の脇はその年齢差のことをネタにして、あなたはまだこれから長生きするでしょう。でも私は木枯らしで先がない。まあ、少将の尼に喩えてくれるのは嬉しいけど歳が違いすぎますよ、という返しだったのだろう。
もっとも、芭蕉はこの五年後に亡くなるのに対し、智月の方は 享保三年(一七一八年)、八十五歳まで長生きしている。
このあと、智月は、
草箒かばかり老の家の雪 智月
と発句を詠む。草箒しかないような殺風景な雪の積もる家です。という謙虚な句に対し、芭蕉は、
草箒かばかり老の家の雪
火桶をつつむ墨染のきぬ 芭蕉
いえ、その墨染めの衣は火桶を隠し持ってますね。暖かいですね。ここで芭蕉はこの火桶の火に恋の炎を期待していたのかもしれない。まあ、あくまで想像だが。
これは筆者が芭蕉はホモではなく、熟女趣味だったと思う根拠の一つでもある。
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