ようやく晴天が続くようになった。それとともに気温も下がってきた。
今日の月は半月よりわずかに膨らんでいる。
それでは芭蕉脇集。
元禄二年
松島行脚の餞別
月花を両の袂の色香哉 露沾
蛙のからに身を入る声 芭蕉
前に『笈の小文』の旅のときにも餞別をくれた露沾だが、『奥の細道』の旅のときにも餞別句を詠んでいる。
『奥の細道』に「むつまじきかぎりは宵よりつどひて、船に乗て送る。」とあるから、旅立ちの前の晩の杉風採茶庵での吟かもしれない。
芭蕉庵から採茶庵に移る時に「表八句を庵の柱に懸置」とあるから、このとき集まったのは芭蕉を入れて八人だったか。
「色香」は今日では女の色っぽい様子をいうが、ここでは文字通り色と香りの意味であろう。ただ、「月花を両の袂」とは言っても、松島の月を見るのは一つの目的だし、やがて名月の季節も来るのは分かる。だが花(桜)の方は旅立ちのときにはもう散っていたし、来年の花ということもないだろう。それでも、月花を両方持っているかのような芭蕉さんの旅姿です、と褒めはやす。
これに対して芭蕉の脇だが、実は知らなかったが蛙も脱皮をするという。ただ、その皮は薄くてすぐに食べてしまうらしい。
まあ、月花を袂になんて、そんなカッコいいものではなく、蛙の抜け殻をかぶっているだけです、と答える。蛙は古今集仮名序の、
「はなになくうぐひす、みづにすむかはづのこゑをきけば、いきとしいけるものいづれかうたをよまざりける。」
から歌詠みの象徴ともされ、
手をついて歌申しあぐる蛙かな 宗鑑
と俳諧の祖も詠んでいる。その後は俳諧師も歌詠みの一種として蛙に象徴的に表わされるようになった。
延宝四年の句に、
此梅に牛も初音と鳴つべし
ましてや蛙人間の作 信章
とあるのも、蛙を俳諧師の象徴として用いている。
古池の句を記念して作られた『蛙合』も芭蕉の門人達がそれぞれ蛙を詠むことで、大勢の蛙(俳諧師)の集まりをアピールするものとなっている。
だから、自分を蛙に喩えることは、謙虚なようでいて俳諧師としての誇りを感じさせる。ただ、「蛙のから」としたところは、後の元禄六年の歳旦、
年々や猿に着せたる猿の面 芭蕉
に通じるものがある。
この日や田植の日也と、めなれぬ
ことぶきなど有て、まうけせられ
けるに、
旅衣早苗に包食乞ん 曾良
いたかの鞁あやめ折すな 芭蕉
これは『奥の細道』の旅の途中、四月二十四日、須賀川での吟。「包食乞ん」は「つつむめしこわん」と読む。
昔の田植えはお祭で、彭城百川の『田植図』を見ればわかるように、烏帽子をかぶった神主のような人が幣をもって踊り、横では鼓もあれば笛もある。そんな日だから、旅人にもご馳走をふるまったりしたのだろう。
曾良の発句は、旅人だから旅に持ってゆけるように飯を包んでくれというもので、芭蕉は乞食僧の鞁(鼓)を打って廻るのはいいが、アヤメを折るなよ、と返す。
「いたか」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」には、
「 (「板書(いたか)き」の意か) 乞食坊主の一種。供養のために、板の卒塔婆(そとば)に経文、戒名などを書いて川に流したり、経を読んだりして銭をもらって歩くもの。また、堕落した僧侶を卑しめてもいう。」
とある。また、『校本芭蕉全集』第四巻(宮本三郎校注、1964、角川書店)の注には、
「『いたか』は大黒・夷などの神像を祭り、太神楽などをし祝言を述べて歩く一種の乞食芸人。」
とある。
前の越人との両吟がそうだったが、親しい間柄では形式ばった挨拶のやり取りではなく、こうしたちょっと砕けた調子で脇を付けることもある。
おきふしの麻にあらはす小家かな 清風
狗ほえかかるゆふだちの蓑 芭蕉
『奥の細道』の旅で尾花沢の清風のもとを訪ねたときの句。五月十七日から二十七日まで滞在するが、その間の興行した歌仙が二巻残されている。これはその一つ。
発句は麻畑の麻が揺れ動くと、その合い間に小家が見えるというもので、寓意は感じられない。麻は高さが2.5メートルにもなる。人の視点の高さからすれば家くらい隠れてしまう。
これに対し芭蕉も、その小家の情景を軽く付けているのみで、これも寓意は感じられない。
新庄
御尋に我宿せばし破れ蚊や 風流
はじめてかほる風の薫物 芭蕉
『奥の細道』の旅の途中、六月二日、新庄での七吟歌仙興行の発句と脇。
風流は尾花沢での「おきふしの」の巻ではない方の「すずしさを我やどにしてねまる也 芭蕉」を発句とする歌仙に参加している。
風流の発句は、せっかく来ていただいたのに、部屋はこのとおり狭く、蚊帳も破れてしまっている、と謙虚な挨拶になっている。
これに対して芭蕉は、破れた蚊帳の中に吹いて来る外の風が、風薫る季節と相成って、薫物のようです、と答える。
羽黒より被贈
忘るなよ虹に蝉鳴山の雪 會覚
杉の茂りをかへり三ヶ月 芭蕉
六月の中旬から下旬、酒田での吟。以前にこの俳話で、曾良の『旅日記』に、
「十八日 快晴。早朝、橋迄行、鳥海山ノ晴嵐ヲ見ル。飯終テ立。アイ風吹テ山海快。暮ニ及テ、酒田ニ着。」
とある、この時の吟ではないかという推測を述べたことがあった。
会覚の発句は曾良の『旅日記』の、
「十三日 川船ニテ坂田ニ趣。船ノ上七里也。陸五里成ト。出船ノ砌、羽黒ヨリ飛脚、旅行ノ帳面被調、被遣。又、ゆかた二ツ被贈。亦、発句共も被為見。」
の時の発句と思われる。虹に蝉鳴く月山の雪を忘れないでくれ、というもの。
これに対し芭蕉は、かえり見ると三日月を掛けて、あの杉の山の上に見た三日月のことは今でも忘れませんと答える。
0 件のコメント:
コメントを投稿