芭蕉脇集を元禄七年で終ろうとしたが、『校本芭蕉全集』第五巻(小宮豊隆監修、中村俊定校注)にはそのあと「年代未詳之部」があって、そこからもう一句追加しなくてはならない。
年代未詳
風羅坊の師、旅を好本性にて、
奥羽越後の月雪にさすらへ、
またうごきなき石山の庵とおも
ひしも幻住となして、都の納涼
の風に吹れなど、流石におもひ
定て、おもひ定めぬは風雅の情
ならん。臍の緒に啼を憐て、玉
玉ことしは東武にこころとどま
りぬ。五十の波立越、老をいた
はり、烏頭巾を送るとて、其志
の短を継そへていふ。
菅蓑の毛なみや氷る庵の暮 粛山
まれに頭巾を貰ふ木兎 芭蕉
奥の細道の旅を終えてしばらく上方に滞在した後、江戸に戻り滞在した時の冬の句だとすれば、元禄四年十一月から元禄七年五月までの間の冬、つまり元禄四年、元禄五年、元禄六年のいずれかということになる。
「五十の波立越」とあり、五十歳の時だとすれば元禄六年ということになる。
振売りの雁あはれなり恵比寿講 芭蕉
の句はこの年の十月で、ちょうど『炭俵』の風が固まった頃だ。
粛山は其角門で松山藩の家老だという。其角撰『いつを昔』(元禄三年刊)に、
亀の背に漂ふ鳰の浮巣哉 粛山
涼しさや海すこしある戎堂 同
左迁に鯖備へける文月哉 同
といった句がある。
粛山の発句は、菅蓑だけでは髪の毛も凍ってしまうでしょう、この庵で年の暮れを過ごすには、というもので、それで烏頭巾を贈ったわけだ。
烏頭巾がどのような頭巾かよくわからないが、ミミズクのように見えるとしたら角頭巾の黒いものか。
芭蕉の脇は頭巾を貰ったこととそれを被った姿がミミズクに似ていることから、「頭巾を貰ふ木兎」となる。
なお、其角撰『いつを昔』に、
けうがる我が旅すがた
木兎の独わらひや秋の暮 其角
の句がある。同じ其角の句に、
みゝつくの頭巾は人にぬはせけり 其角(五元集)
の句もある。
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