今日もいい天気だった。
香港ではついに人民解放軍が出動し、障害物の撤去作業を行ったという。香港の自由のために国際社会は何もできず、暴力によって殺され傷つく民衆をただ見ているしかないのだろうか。
安倍政権にもそのことを追求して欲しい所だが、野党には例の中国系議員もいることだし、桜が見にくる会の追求で忙しいようだ。
それでは芭蕉脇集の続き。
夕㒵や蔓に場をとる夏座敷 為有
西日をふせぐ藪の下刈 芭蕉
閏五月廿二日から六月十五日までの間の落柿舎滞在中の興行と思われる。
二十四句目までは為有、芭蕉、惟然、野明の四吟で、それ以降は去来、之道、野明の三吟になっている。十七句目に花が来ていて、二十四句目が特に挙句のようになってないので、未完で終わったようだ。後日三人で継ぎ足して完成させたものであろう。
また、これには元禄十一年刊の松星・夾始編『記念題』に、二十三句目から露川、如行、松星、夾始の四吟となっている別バージョンが存在する。二十二句目の「尻もむすばぬ恋ぞほぐるる 野明」が「尻もむすばぬ言をほぐるる 野明」になっていて、二十三句目の芭蕉の句と二十四句目の惟然の句がない。
夕顔は蔓性で干瓢を取るために夕顔棚を作るから、藤棚同様それなりのスペースは必要になる。落柿舎に夕顔棚があったのだろう。
発句は夕顔に場所をとられて狭いところですが、という挨拶になる。それに対し、夕顔棚は西日を防いでくれるとその徳を述べる。
久隅守景の『夕顔棚納涼図屏風』のように、夕顔棚は貧しい家の納涼風景を連想させるものだった。
菜種ほすむしろの端や夕涼み 曲翠
蛍逃行あぢさゐの花 芭蕉
六月十五日に落柿舎から膳所の義仲寺無名庵に移り、そのころの吟と思われる。曲翠は膳所藩士。
土芳の『三冊子』に、
「此脇、発句の位を見しめて事もなく付る句也。同前栽其あたりの似合敷物を寄。」とある。
以下、十月二十四日の俳話と重複するが、菜種は菜の花が咲いたあと二ヶ月から三ヶ月で種になり収穫し、乾燥させる。その頃には暑くなり、菜種を乾燥させている筵の隅っこに座って夕涼みすることはよくあったのだろう。
発句の寓意を受けずにさらっと流すのは、芭蕉の晩年に時折見られる脇の付け方だったようだ。蕉風確立期なら「蛍の止まる」とでもしそうだ。意図的にその古いパターンをはずした風にも見える。
元禄七七月廿八日夜猿雖亭
あれあれて末は海行野分哉 猿雖
鶴の頭を上る粟の穂 芭蕉
前書きにある通り、七月二十八日、伊賀の猿雖亭での興行。一度半歌仙で終ろうとして、そのあと挙句を入れ替えて歌仙にしたと思われる。六吟歌仙興行だったが、主筆と思われる木白も参加して七吟になっている。
元禄七年の七月に、伊賀の方を襲う台風があったのだろう。台風も去ってどこかの海へ出て行ったようだという発句に対し、鶴も粟畑で頭を上げていると嵐の後の平穏な風景を付ける。
土芳の『三冊子』には、「鶴の句は、野分冷じくあれ、漸おさまりて後をいふ句なり。静なる体を脇とす。」とある。
また芭蕉の元禄七年八月九日付向井去来宛書簡に、「鶴は常体之気しきに落可」とある。
この場合の鶴は季節から言ってコウノトリのことであろう。特に鶴にお目出度いという寓意はなく、粟は穂を垂れ、それと対称的に鶴は頭を上げるという嵐の去った後の景色でさらっと流している。
歌仙
残る蚊に袷着て寄る夜寒哉 雪芝
餌畚ながらに見するさび鮎 芭蕉
これも「あれあれて」の巻と同じ頃の興行と思われる。前書きに「歌仙」とあるが三十句で終っている。
すっかり夜寒になり、こうして袷を着て集まっているのは興行の時の様子であろう。寒くなったのにまだ蚊がいて、秋の蚊はしつこくて嫌ですね、といったところか。
「餌畚」は鷹匠の持ち歩く餌袋のことだが、釣の時の餌を入れる竹籠にも使う。「さび鮎」は秋の産卵期の鮎で「落ち鮎」ともいう。この時期の鮎は友釣りもできず、餌釣りも食いが悪いという。だからこの「さび鮎」は貴重なものだともいえよう。
「寒いのに蚊がいるところですいません」「いえ、この時期の鮎は貴重です」といったところか。
折々や雨戸にさはる荻の声 雪芝
放す所におらぬ松虫 芭蕉
これも同じ頃の句。
芭蕉の元禄七年八月九日付向井去来宛書簡にある句で、「いまかるみに移り兼、しぶしぶの俳諧、散々の句のみ出候」という時の句。
土芳の『三冊子』に、「この脇、発句の位を思ひしめて、匂よろしく事もなく付たる句也。」とある。
発句の雨戸に萩の枝が触れるような田舎の小さな家から、そこに住む人の位で付けたということか。松虫を捕まえたものの、可哀相になって放してあげる、そういう心やさしい住人ということなのだろう。
松茸に交る木の葉も匂ひかな 鷗白
栗のいがふむ谷の飛こえ 芭蕉
これも芭蕉の伊賀滞在中で八月中旬とされている。
発句は芭蕉の元禄四年秋の、
松茸やしらぬ木の葉のへばりつき 芭蕉
を踏まえたものだろう。もらった松茸を見ると、何だかわからない葉っぱがへばりついていることってあるよね、といったいわゆる「あるあるネタ」の句だったが、ここでは芭蕉を松茸にたとえ、伊賀の門人の名もなき木の葉にも香りを移しているという挨拶句に作りなおす。
これに対し芭蕉は、栗のイガを踏んだりしながら谷を飛び越えて参りました、と返す。イガはやはり「伊賀」に掛けているのか。ならば「栗のイガを踏んだりしながらも、伊賀の地を踏むために」となる。
八月二十三日には、
松茸や都に近き山の形(なり) 惟然
を発句とする興行もあり、九月四日には伊賀を訪れた支考と文代(斗従)を迎えての「松茸やしらぬ木の葉のへばりつき」を発句とする歌仙興行があった。さながらこの年の伊賀は松茸祭といったところか。
なお、「しらぬ木の葉」の句を支考にくっ付いてきた文代(斗従)のことだとする解釈がネット上に流布しているのは、この句を当座の興で詠んだとの誤解によるものと思われる。
猿蓑にもれたる霜の松露哉 沾圃
日は寒けれど静なる岡 芭蕉
これは九月の初め頃、前年に詠まれた沾圃の発句を元に行われた、芭蕉、支考、惟然による三吟歌仙興行の脇。この発句が『続猿蓑』のタイトルの由来ともなり、『続猿蓑』に収録されている。
発句は、美味な食材としての松露ではなく、むしろ食材を越えた純粋な冬の景物として哀れでかつ美しく、それが『猿蓑』で詠まれなかったのは残念だ、という句だ。
蓑笠を失った公界の猿の叫びも哀れだが、類稀なる才を持つ松露が霜に朽ちてゆくのもまた断腸の叫びを思わせる。
これに対し芭蕉は「日は寒けれど」という気候と「静なる岡」という背景を添えるだけの謙虚なものだ。発句を引き立てようという意図で、自己主張を抑えた感じがする。ある意味これは脇句の見本と言ってもいい、芭蕉にとっての完成された脇の形ではないかと思う。
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