芭蕉脇集の続き。
元禄六年
餞別
風流のまことを鳴やほととぎす 凉葉
旅のわらぢに卯の花の雪 芭蕉
元禄六年の四月、芭蕉庵での十吟歌仙興行の脇。餞別の前書きがあり、芭蕉の句も旅の句だが、誰の旅立ちなのかはよくわからない。千川の送別の歌仙は別にあるし、このときには凉葉が参加している。この歌仙が四月九日の出立の前だとしたら、このあと凉葉もどこかへ旅立ったか。許六の帰藩はもう少し後の五月になる。
「風流のまこと」は芭蕉の教えだが、折からの時鳥の季節で時鳥の一声のように貴重な一言です、と世話になった芭蕉への挨拶になる。
これに対し芭蕉は、旅の草鞋に雪のような卯の花を添える。特に寓意はない。
春風や麦の中行水の音 木導
かげろふいさむ花の糸口 芭蕉
春風にそよぐ麦畑に水の流れる音が聞こえるという長閑な農村風景に、陽炎が奮い立ち、桜が咲くのももうすぐだと時候を添える。
木導は許六と同様彦根の人で、『風俗文選』の作者列伝に、
「木導者。江州亀城之武士也。直江氏。自号阿山人蕉門之英才也。師翁称奇異逸物。」
とある。「江州亀城」は近江国彦根城のこと。
芭蕉の元禄六年五月四日付許六宛書簡に、
「木道麦脇付申候。第三可然事無御座候間、貴様静に御案候而御書付可被成候。」
とある。木導が春に詠んだ「春風や」の発句に脇を付けたので、第三を付けるようにということだが、この第三がどうなったのかはよくわからない。このあたりのことは以前に『俳諧問答』を読んだとき(二〇一九年三月十日)に書いた。
三吟
帷子は日々にすさまじ鵙の声 史邦
籾壹舛を稲のこき賃 芭蕉
七月の史邦、芭蕉、岱水による三吟歌仙興行の脇。
一重の帷子では日々寒くなる、そんな頃モズが鳴いている。
これを芭蕉は稲刈りの頃とし、脱穀の作業をした人に籾一升の給与を出すとする。
脱穀は元禄期に千歯こきが発明されたとはいえ、一般にはまだ普及してなかったのだろう。それ以前は竹製の箸のようなものを用いてたため、時間がかかった。脱穀を手伝うと脱穀したばかりの籾を一升分けてもらえたようだ。これが何割くらいなのかはよくわからない。
芭蕉は経済ネタを得意としたが、ここでは脇に持ってきている。
柴栞の陰士、無絃の琴を翫しを
おもふに、菊も輪の大ならん事を
むさぼり、造化もうばふに及ばじ。
今その菊をまなびて、をのづから
なるを愛すといへ共、家に菊ありて
琴なし。かけたるにあらずやとて、
人見竹洞老人、素琴を送られしより、
是を朝にして、あるは聲なきに聴き、
あるは風にしらべあはせて、
自ほこりぬ
漆せぬ琴や作らぬ菊の友 素堂
葱の笛ふく秋風の薗 芭蕉
十月九日、素堂亭で残菊の宴があり、その時の三吟三物の脇。第三は沾圃が付けている。
無弦の琴というと陶淵明のことが浮かぶ。『荘子』斉物論でも、昭文のような後世にまで名を残すような琴の名人の演奏でも、ひとたび音を出してしまえば、演奏されなかった無数の音がそこなわれるとあり、どんな名演奏も無音にはかなわないというわけだ。ジョン=ケージの「四分三十三秒」が思い浮かぶ。
素堂の発句もその心で、菊も大きければいいというものでもなく、琴も漆を塗らない素琴がいいという。閑花素琴という四字熟語がこの頃あったかどうかはわからないが。この場合の琴は七弦琴であろう。膝の上に乗せて演奏する。
ただ、いかにも風流だぞといった気負いのある発句なので、芭蕉は薗では秋風が葱を吹いて、笛のような音を立てているよ、と天地自然の音楽には叶わないと返す。
雪や散る笠の下なる頭巾迄 杉風
刀の柄にこほる手拭 芭蕉
冬の六吟半歌仙の脇。
「雪や散る」は「雪の散るや」の倒置だが、静かに降り積もるのではなく風に吹雪いている状態だろう。雪は笠の下にも吹き込んできて頭巾まで雪だらけになる、という発句に、刀の柄の雪を払おうとすると手拭までが凍るとする。
刀といっても武士とする必要はない、ここでは脇差か旅刀であろう。
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