2019年11月23日土曜日

 今日は雨を遁れて三保の松原、掛川花鳥園、浜松城に行った。
 三保の松原から見た朝の富士山は、昨日の雨のせいか綺麗に線を引いたように下半分が融けてパッツン髪のような富士山になっていた。
 掛川花鳥園は三年前にも行っているが、ヘビクイワシ(Secretary Bird)の蛇のおもちゃをを蹴りつけるショーが新たに加わっていた。これでもかと親の敵のように踏みつけていた。ひょっとして慎重勇者?
 浜松では一応餃子を食べた。楽しい一日だった。
 それと韓国さんお帰りなさい。てっきりあっちの世界に行っちゃったと思っていた。
 それでは「鳶の羽も」の巻の続き。

 十三句目。

   芙蓉のはなのはらはらとちる
 吸物は先出来されしすいぜんじ   芭蕉

 江戸後期の古注には水前寺海苔のことだとする説が多いが、ウィキペディアには、

 「宝暦13年(1763年)遠藤幸左衛門が筑前の領地の川(現朝倉市屋永)に生育している藻に気づき「川苔」と名付け、この頃から食用とされるようになった。1781年 - 1789年頃には、遠藤喜三衛門が乾燥して板状にする加工法を開発した。寛政5年(1792年)に商品化され、弾力があり珍味として喜ばれ「水前寺苔」、「寿泉苔」、「紫金苔」、「川茸」などの名前で、地方特産の珍味として将軍家への献上品とされていた。現在も比較的高級な日本料理の材料として使用される。」

この記述どおりだとすると、芭蕉の時代にはまだ水前寺海苔はなかったことになる。
 ただ、『連歌俳諧集』(日本古典文学全集32、一九七四、小学館)の注に、

 苔の名の月先涼し水前寺      支考

の句が元禄十五年刊の『東西夜話』にあることを指摘している。この「苔」が海苔のことならば、このころ既に水前寺海苔があったことになる。
 コトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」の水前寺海苔ところには、西鶴の元禄二年の『一目玉鉾』の「熊本の城主 細川越中守殿 名物うねもめん すいせんしのり」を引用しているから、遠藤金川堂によって商品化される前から食べられていたことは間違いないだろう。
 多分保存が利くようにして全国に普及させたのが遠藤喜三衛門であって、地元ではかなり古くから食べていたのではないかと思う。
 支考は元禄十一年に九州行脚しているから、実際に現地でたべたのだろう。西鶴の場合は『日本永代蔵』で豊後、筑前、長崎の商人の物語を書いているし、その方面の商人からいろいろな話を聞いていたと思われる。芭蕉も九州に行ってないが、水前寺海苔のことは噂には聞いていたのだろう。
 前句の芙蓉(蓮)の散るところから、お寺を連想して水前寺に結びつけたのだろう。ただ、水前寺というお寺はない。ウィキペディアによれば平安末期に焼失したという。一般に水前寺といわれるのは熊本藩細川氏の細川忠利が一六三六年(寛永十三年)頃から築いた「水前寺御茶屋」のことで、細川綱利の時に庭園として整備された。今日では水前寺成趣園と呼ばれている。
 水前寺という寺はないが、茶屋はあるから御吸物を出し、そこには水前寺海苔がもちいられ、いやあ出来(でか)した、となる。
 十四句目。

   吸物は先出来されしすいぜんじ
 三里あまりの道かかえける     去来

 「出来(でか)す」はweblio辞書の「三省堂 大辞林 第三版」に、

 「①出て来させる。作り上げる。こしらえる。また,よくない事態を招く。 「おめえが-・したことだから斯議論をつめられちやあ/西洋道中膝栗毛 魯文」 「今日中に-・す約束で誂へてござるほどに/狂言・麻生」
  ②見事に成し遂げる。うまくやる。 「是は大事の物だと思つて尻輪へひつ付けたが,-・したではないか/雑兵物語」

とある。ここでは①の意味に取り成す。
 吸い物に誘われてはみたものの、水前寺まで行かされる。それも三里の道を歩いていかなくてはならない。
 『俳諧古集之弁』(遅日庵杜哉、寛政四年刊)には、

 「隙をとりてめいわくなるの意に転ず。先の字をとがめていへり。」とある。
 『秘註俳諧七部集』(伝暁台註・政二補、天保十四年成立)にも、

 「饗応却テ迷惑ノ形チヲ先ト言字ヨリ見出シテ、道カカヱケルトハ言リ。」

とある。
 十五句目。

   三里あまりの道かかえける
 この春も盧同が男居なりにて    史邦

 盧同は盧仝のことで、ウィキペディアには、

 「盧仝(ろどう、795? - 835年)は、中国・唐代末期の詩人。字は不明。号は、玉のような綺麗な川から水を汲み上げ茶を沸かすことから、玉川子(ぎょくせんし)とした。
 『七椀茶歌』「走筆、謝孟諌講寄新茶」(筆を走らせて孟諌講が新茶を寄せたるを謝す)では、政治的批判と、盧 仝の茶への好事家の一面が読み取れる。」

とある。
 「居なり」はコトバンクの「大辞林 第三版の解説」に、

「① そのまま動かずに居ること。
 ②
  ㋐ 江戸時代、奉公人や遊女が年季を過ぎてもそのまま続けて奉公すること。重年ちようねん。
  ㋑ 江戸時代、役者が契約切れになっても引き続いて同じ劇場に出演すること。 〔当時は一年契約であった〕
 ③ 「居抜き」に同じ。 「この家を-に買うてくれぬか/浄瑠璃・近頃河原達引」

とある。
 ここでは特に何らかの盧仝のエピソードによる本説というわけではなく、あくまで盧仝のような茶人という意味で、それに仕える男が今年もそのまま仕えさせられて、「三里あまりの道かかえける」となる。
 十六句目。

   この春も盧同が男居なりにて
 さし木つきたる月の朧夜      凡兆

 古注には、この男が庭木を好んで挿し木をするというものが多いが、ここは比喩としておきたい。
 この男は盧仝の茶の道を受け継ぐ挿し木のようなもので、一年たってしっかりと根付いたな、と朧月の夜に喜ぶ。
 十七句目。

   さし木つきたる月の朧夜
 苔ながら花に並ぶる手水鉢     芭蕉

 苔むした手水鉢に挿しておいた木がしっかり根付く様は、桜の木にも劣らないだけの価値がある。二つ並べればさながら花に月だ。
 十八句目。

   苔ながら花に並ぶる手水鉢
 ひとり直し今朝の腹だち      去来

 花の脇にある苔むした手水鉢はなかなか風情があり、自分も花のある人を羨むのをやめて、この手水鉢のようにあるがままに生きればいいんだと納得する。

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