2019年11月10日日曜日

 今日は青梅に行った。Zepp Tokyoのある青海ではなく、猫町の青梅を見に行った。
 「にゃにゃまがり」という猫の飾りつけのなされた狭い路地やレトロな昔の映画看板、それを猫にしたパロディ看板などが町のあちこちにあり、赤塚不二夫会館、昭和レトロ商品博物館、昭和幻燈館があった。
 住吉神社には猫の夷さんと大黒さんがあった。

 昨日書いた神は量子だというのは、あながち冗談ではないかもしれない。
 ある主張が真実であると同時に偽りであるというのは、価値観の多様性を認めるうえでは欠かせないことだからだ。
 人間の思想である以上、完全なものはないし、人それぞれ異なる資質を以て生まれ、異なる体験をしながら育ち、その中で概念を獲得し思想を形成するのだから、一人一人違ってて当然だし、哲学者の数だけ哲学があるのは厳然たる事実だ。
 すべての思想は正しいと同時に間違っているという重ね合わせの状態にある。
 日本語は大和言葉と漢語と主に西洋の外来語との重ね合わせの上にあり、それぞれを平仮名、漢字、片仮名で区別して表記する。その漢字も、中国由来のものは漢音、印度の仏教由来のものは呉音(稀に唐音)で更に区別してきた。こうして、複数の文化体系を常に頭の中で重ね合わせながら、それぞれの体系を並列処理しながら、最適解を見出してきた。
 料理にしても、日本では和洋中華エスニックという複数の料理体系のなかから、そのつど食べたいものを選択する。
 陰陽不測はそれが重ね合わせ状態にあるため、決定不能である所によるのではないかと思う。
 我々は日々相矛盾する複数の思想体系の中で生きている。それを認め、重ね合わせ、同時に並列処理しながら、日々最適解を求め、意思決定をしている。我々の脳もまた一種の量子コンピュータなのではないかと思う。
 西洋にもアンチノミーという考え方がある。人間の理性は必ず矛盾した二つの主張を可能にするという考え方があり、それが古代ギリシャの民主主義や裁判の基礎となっていた。
 ただ、ソクラテスは古代ギリシャの多神教的世界観を否定して一神教に傾き(その罪で死刑になった)、プラトンのイデアリズムからキリスト教の受容により民主主義は否定され、王権神授の独裁国家になっていった。
 近代に入って民主主義が復活したのは、「万人の万人に対する戦い」という多元主義を容認したことによる。ただ、西洋の民主主義は異なる複数の思想を並列的に思考するのではなく、異なる単一価値観を信じるもの同士の、暴力的な力学的均衡によってのみ成り立つ危うさを残している。
 天皇制は何人たりとも実力で王や最高指導者になることを拒否するもので、すべてにおける最高決定は「公議」つまり臣民による並列処理によって行われる。その決定は陰陽不測であり、真実であるとともに偽りでもある。この曖昧さが対立と分断を防いでいる。分断はまつろわぬ者によって引き起こされている。
 日本のこのシステムは科学的にも先鋭的なシステムではないかと思う。

 君が代は千代に八千代にさざれ石の
     いわおとなりて苔のむすまで

 それは陰陽不測、決定できないもの、複数の思考の重ね合わせ状態を「君」として、永遠に存続させることをことほぐものではないかと思う。

 まあ、長くなってしまったので、今日は芭蕉脇集のほうは一休み。

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