2019年12月6日金曜日

 今日も『新撰都曲』から、目に留まった句を。
 まずは、

 気違の狂ひ勝たる鹿驚哉     助叟

から。今の放送コードだとやばい句だが、この場合の「気違(きちがひ)」は精神障害者ではなく風狂のことであろう。
 当然ながら当時は精神病の概念はないし、今日で言うような精神障害者はこの時代もいただろうけど、それを判定する医師がいたわけではなかった。だから「気違」の中に精神障害者も含まれていただろうけど、気違=精神障害者ではなかった。
 とはいえ、この時代に「気違」の言葉は珍しく、「物狂い」の方がよく用いられている。
 物狂いというと、謡曲『三井寺』の息子を探しに三井寺にやってきた母の月夜に浮かれて鐘を撞く場面が印象的だ。
 俳諧だと、以前読んだ「蓮の実に」の巻の十五句目に、

   官女の具足すすむ萩原
 房枕秋の寝覚の物狂ひ      西鶴

というのがあった。
 風狂といえば、芭蕉の『笈の小文』の冒頭部分もそれを演出している。

 「百骸九竅(ひゃくがいきゅうきゅう)の中に物有り。かりに名付て風羅坊(ふうらぼう)といふ。誠にうすもののかぜに破れやすからん事をいふにやあらむ。
 かれ狂句を好むこと久し。終(つい)に生涯のはかりごとととなす。ある時は倦(うん)で放擲(ほうてき)せん事をおもひ、ある時はすすんで人にかたむ事をほこり、是非胸中にたたかふて、是が為に身安からず。しばらく身を立てむ事をねがへども、これが為にさへられ、暫ク学んで愚を暁(さとら)ン事をおもへども、是が為に破られ、つゐに無能無芸にして只此の一筋に繋(つなが)る。」

 これを読むとぼろぼろの服をまとった風狂の徒の姿が浮かんでくる。もちろん実際はそうではなかっただろうけど。
 その『笈の小文』の伊勢参宮の時の詠んだ句に、

 裸にはまだ衣更着の嵐哉     芭蕉

の句がある。
 これは『撰集抄』の増賀上人の話で、天台山根本中堂に千夜こもって祈りを捧げたけども悟りを得られなかったが、あるとき、伊勢神宮を詣でて祈っていると、夢に「道心おこさむとおもはば、此身を身とな思ひそ」という示現を得て、それならとばかりに着ているものを皆脱いで乞食に与え、裸で物乞いをしながら帰ったという話を思い浮かべ、自分はそこまではできないという句だった。これなども風狂の物語といえよう。
 『去来抄』の、

 岩鼻やここにもひとり月の客   去来

の句に対し、

 「先師曰、ここにもひとり月の客ト、己と名乗出たらんこそ、幾ばくの風流ならん。ただ自称の句となすべし。‥略‥ 先師の意を以て見れバ、少狂者の感も有にや。退て考ふるに、自称の句となして見れバ、狂者の様もうかみて、はじめの句の趣向にまされる事十倍せり。誠に作者そのこころをしらざりけり。」

というのも実際にやったわけではないが、こういう風狂というのが好まれていたことが分かる。
 そういう風狂の徒であるなら、現実はどうかは別としても鹿驚(かかし)よりもぼろぼろの服を着ていてもおかしくない。
 鹿驚(かかし)の服については、同じ『新撰都曲』に、

 絹着たる鹿驚ひとつもなかりけり 木因

の句もある。こちらは蕉門の美濃の木因の句だ。
 人間の社会の生存競争は多数派工作の戦いで、有限な大地に無限の人口を養うことができない以上、何らかの形で集団から排除され、淘汰される人間というのが出てくる。人口増加の圧力がある限り、それは必然となる。
 ただ、複数の集団が対立している場面では、他所の集団が排除した人々を取り込むことができれば、より大きな集団を作り他所を凌駕できる。そういうわけで、多様性への寛容は強い集団を作るには欠かせない要素になる。
 古代において日本は朝鮮半島で新羅によって排除された百済や高句麗の遺民を帰化人として受け入れ、その技術によって大きな進歩を遂げたし、文禄・慶長の役(壬辰倭乱・丁酉倭乱)の時に朝鮮半島からやってきた職人達も特に焼物の分野で日本の文化を大きく発展させるのに貢献してきた。
 狂に関しても、あるいは衆道に関しても、寛容さは日本の文化の発展に欠かせなかった。これから日本が更なる発展をしていくためにも、このことは忘れてはいけない。

 摂待に先あはれなる座頭哉    水流

 「摂待(せったい)」はコトバンクの「大辞林 第三版の解説」に、

 「( 名 ) スル
 ① 客をもてなすこと。 「湯茶の-」 「取引先の社長を-する」
 ② 陰暦七月、寺巡りの人々や往来の人々に仏家の門前に湯茶を用意してふるまうこと。門茶かどちや。 [季] 秋。 《 -の寺賑はしや松の奥 /虚子 》」

とある。この場合は②の意味。
 お寺で摂待をすると、真っ先にやってくる座頭がいてあわれだ、というのが句の意味と思われる。

 摂待や卒塔婆の中の一煙     都雪

はそんな摂待の風景を詠んだ句だ。
 座頭は平曲を演奏する琵琶法師で、「平家物語」や「浄瑠璃十二段草子」などを琵琶を引きながら謡い語った。
 目の不自由な人の耳が良いことと記憶力に優れていることとで、こういう職業が与えられ保護されてきた。ウィキペディアによると、江戸時代に入るとこれに地歌三味線、箏曲、胡弓等の演奏家、作曲家としてや、鍼灸、按摩などの職業も加わっていった。
 障害者との共存には、その障害にあった役割を与え居場所を保障する事が不可欠になる。それをせずに形だけ平等の権利を与えても、居場所がなければどうにもならない。今後の様々なマイノリティーのことを考えてゆくにしても、こうした過去の知恵は参考にしてゆく必要がある。

 継母に槿のはなをしへけり    民也
 魂祭子の㒵みたる継母かな    万玉

 継母というと継子いじめがどうしても連想されがちだが、江戸時代には幼児虐待は死罪で、継子いじめもご法度だった。
 子供は無邪気に継母(ままはは)に槿(アサガオ)の花が咲いていることを教えてあげる。
 お盆には亡き母の魂を祭る子の姿を、継母(けいぼ)がそっと見守る。
 やはり人倫とはこうありたいものだ。

 左義長や代々の三物焼てみん   尚白

 尚白は近江蕉門。「左義長」はドンド焼きとも呼ばれる正月の行事で、正月の松飾りや注連縄などを焼く。
 俳諧師が毎年配る歳旦三物帳もこのとき一緒に焼いてしまったようだ。どうりで残ってないはずだ。

 人数に夢をくばりし火燵哉    萩水

 火燵に入ると眠くなる。みんなそれぞれ夢の中で、そういうことで、おやすみなさい。

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