2019年12月21日土曜日

 文学、芸術、およそ創作物から受ける感動の正体はそう簡単につかめるものではない。
 芭蕉が古池の句を詠めたのは、おそらく偶然だっただろう。ちょうど談林調、天和調を経て、古典回帰を進めてきた時期だっただけに、芭蕉は古典の情を新味ある題材で詠んだ所に成功の原因を求め、『奥の細道』の旅での曾良との会話からおそらく最初の不易流行説は生まれたのだろう。
 去来の『去来抄』や土芳の『三冊子』が伝える不易流行論はこの元禄二年冬からの猿蓑調の時代のもので、その後芭蕉はこの考えを変えていった。
 不易流行説では古典の本意本情と俗情を区別した。この区別にはおそらく李退渓の四端七情の説が影響していたと思われる。李退渓は藤原惺窩や林羅山の朱子学に大きな影響を与えていたから、それが朱子学系の神道を学んだ曾良を通して芭蕉に伝わったとしてもおかしくはない。
 気から来る既発のその場限りの情を流行とし、その背後に求めたのが理から来る未発の四端を不易の本意本情だった。この本意本情は時代を超えて普遍であるため、古典から学習できると考えた。
 ただ、実際に句が与える感動は、必ずしも古典に通じるものではない。むしろ出典に寄りかかった句は古臭く、元禄時代の人々の生活に必ずしもフィットするものではなかった。そこから芭蕉はあえて古典の出典をはずしていこうとした。
 ちょうど上方から江戸に下った時期、芭蕉は「軽み」という形でそれを試し、新たな理論を模索したのだろう。
 許六にはもはや不易流行を説くことはなかった。むしろこれまでの常識を破るような「底を抜く」句を求めた。
 そして再び上方に上り、支考と『続猿蓑』の編纂を進めていく中で虚実の論が作られていった。「実」はもはや古典に添ってはいない。ただ、それがはっきりと形を現す前に芭蕉はこの世を去った。
 だが、今それを推測するなら、それは各自の体験の中の本当に深いかけがえのない感動であり、それを引き出す虚だけが必要だったのではなかったかと思う。

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