今日はパクロッシの日だね。まあ当事者やその周囲の人、遺族の人、いろいろな思いがあると思うけど、そうでない人があれこれコメントすると結局政治利用になっちゃうからね。
追悼の仕方というと、日本の御霊信仰、つまり非業の死を遂げた人を神として祀るというのは、やはり長江文明に起源があるんだと思う。中国で屈原を端午の節句に祀るのが、多分同じ起源から来たものなんだと思う。
靖国神社は最初は東京招魂社と言ってたが、「招魂」という言葉は『楚辞』から取っている。元は幕末の志士の霊を祀ったものだった。
虐殺はどこの国でもあとあとまでその国を呪縛することになる。パクロッシがあったから中国は今のように発展した?そんなことはない。今でも中国は呪われている。
まあ、日本にパヨクがたくさんいるのも南京の呪いと言われればそうなんだけど。日本が明治以降静かな独立国として発展していたら、多分違った日本があったと思う。
民主化運動は理念が先行すると失敗する。大事なのは一人一人が日常生活の場で生存の取引を繰り返し、小さいながらも既成事実を積み重ねて行くことだ。こういっちゃなんだが革命よりもなし崩しの方が効果ある。マイノリティの開放にもこれは言えることだ。これが日本的なやり方だ。
何でもかんでも公権力に頼るような習慣をつけてしまうと、独裁を招いてしまうし、いつまでも独裁から抜け出せなくなってしまう。独裁を倒すのは基本的には「自助」だ。
それでは「梟日記」の続き。
5,日田往還
「九日
此日は仲津を旅だち、豐後の日田におもむく。たち野といふ處を過るほど夕だちに逢ふ。空やゝ晴て凉し。羅漢寺の麓に駒とめて、
蟬の音をこぼす梢のあらし哉
山頭によぢのぼりて五百尊を拜す。誠に飛花の春におどろき、落葉の秌をかなしめるならひ、是も無風雅の佛達にはおはさゞらむ。山は萬重にけはしく、嚴は千丈にそばたちて、清淨やゝ人の膚をあらふ。ありがたき佛場也。
葛の葉の秌まちがほや羅漢達
この夜は仲津の寶蓮坊にたよりせられて、岐の西淨寺といふ寺に宿す。さればきのふけふ馬の口に付たる久作とかいへる、おのこのひるゐ喰ふごとに、五郎四郎五郎四郎といふを見れば、我が國の小麥の餅なり。是を尋ね侍るに、筑紫人はすべていひならはせたるよし、この名のうれしければ、今宵是が傳つくりて、なにがしがかたにつかはす。」
中津から天領日田へ行く道は日田往還と呼ばれている。途中の耶馬溪は岩の切り立った山水画のように風景で知られている。その耶馬溪の断崖の上に羅漢寺がある。
たち野はどの辺かよくわからないが、そこで夕立にあい、涼しくなった頃、日田往還から左にそれて、羅漢寺へ向かう。折から蝉がないている。ちょっと『奥の細道』の山寺を思わせる。
蟬の音をこぼす梢のあらし哉 支考
そこから岩山の中の道を登って行くと、岩窟の中に五百羅漢がある。「山は萬重にけはしく、嚴は千丈にそばたちて」、まさに心が洗われるような思いになる。
葛の葉の秌まちがほや羅漢達 支考
日田往還に戻り、川沿いに上って行くと平田というところに今でも西浄寺がある。近くに平田城址がある。
日田往還は主要な街道から外れるため、馬のいる宿場もなく、久作という馬子をチャーターしたのだろう。その久作が食う時に「五郎四郎五郎四郎」と言うから何かと思ったら、小麦で作った餅の名前だった。筑紫地方ではみんな知っているという。
その五郎四郎の伝を作って何某方に使わすとあるが、許六編宝永四年(一七〇七年)刊の『風俗文選』に収録されているから、その方面に送ったか。
「五郎四郎傳
筑紫に五郎四郎といふものあり。その性は小麥の餅なり。明暮是に馴たる人はたゞ五郎四ともいふ也。此もの野畠の間に生じて、肌おろそかにいろくろし。しかれども菓工の手にわたりて百錬千鍛すれば、あるいは饅頭の肌やはらかに、かすてらの味ありて、ほとんど僧を落さむとす。むかし志賀寺法師のかたちこそ瘦たれ、こゝろは花の都人を戀そめて、玉の緒の歌はよみ給へり。ましてその名も三輪の山本に住て、かづらきの神の晝のかたちにもはづる事なし。さればこゝろくだり姿いやしきだに、色はすつまじき世なりけり。五郎四何にかわびしからんよ。あるつらの人は衣食のあたひをむさぼらず、酒肆媱房の眼高しと、世の人にもてはやされて、こゝろのほかに見ぐるしうやつれ、座上にありて虱をひねる。さばかりすてはてたる世ならば、石上樹下の住ゐこそあるべけれ。しのぶ山の關路も越る人のあればこそあれ。戀せじ酒のまじとは、誰にかかためたるぞや。先師曰、色を思ふ事溫飩のことくせよと、汝をよろこぶもの日夜に愛せず。汝をにくむもの絕てきらふ事なし。しらかば物のほどをいへるなるべし。汝が本性はいやしからねど、おほくは賤の女の杓子にかゝりて、ありがたき生涯をあやまる。されど世をてらひ人にこびて、身をかざらんとする人には、をのづからまさりもすべし。このさかひは汝五郎四がしる處にもあるまじ。何晏がおしろいせぬ顔も、一世のねがひにはあらず。兵部卿の宮のかりのにほひもまたあだなりとしるべし。世はたゞ世にしたがひて、眼前のたのしびをたのしむべき事なり。
夕かほに鏡見せばや五郎四郎」
五郎四郎餅は今では廃れてしまったか、詳しいことはわからない。和歌山ではサルトリイバラの葉で包んだ餅を五郎四郎餅と言うようだが、餅自体は普通に米で作っていて柏餅に近い。九州で作られていたなら、長崎からパンやカステラの技術を取り入れたものだったのかもしれない。
酒が禁じられている僧には、スイーツは僧殺しといってもいい。
志賀寺法師は太平記巻第三十七の「身子声聞、一角仙人、志賀寺上人事」に記された法師のことで、その部分をWIKISOURCEから引用しておこう。
「又我朝には志賀寺の上人とて、行学勲修の聖才をはしけり。速に彼三界の火宅を出て、永く九品の浄刹に生んと願しかば、富貴の人を見ても、夢中の快楽と笑ひ、容色の妙なるに合ても、迷の前の著相を哀む。雲を隣の柴の庵、旦しばかりと住程に、手づから栽し庭の松も、秋風高く成にけり。或時上人草庵の中を立出て、手に一尋の杖を支へ、眉に八字の霜を垂れつゝ、湖水波閑なるに向て、水想観を成て、心を澄して只一人立給たる処に、京極の御息所、志賀の花園の春の気色を御覧じて、御帰ありけるが、御車の物見をあけられたるに、此上人御目を見合せ進せて、不覚心迷て魂うかれにけり。遥に御車の跡を見送て立たれ共、我思ひはや遣方も無りければ、柴の庵に立帰て、本尊に向奉りたれ共、観念の床の上には、妄想の化のみ立副て、称名の声の中には、たへかねたる大息のみぞつかれける。さても若慰むやと暮山の雲を詠ればいとど心もうき迷ひ、閑窓の月に嘯けば、忘ぬ思猶深し。今生の妄念遂に不離は、後生の障と成ぬべければ、我思の深き色を御息所に一端申て、心安く臨終をもせばやと思て、上人狐裘に鳩の杖をつき、泣々京極の御息所の御所へ参て、鞠のつぼの懸の本に、一日一夜ぞ立たりける。余の人は皆いかなる修行者乞食人やらんと、怪む事もなかりけるに、御息所御簾の内より遥に御覧ぜられて、是は如何様志賀の花見の帰るさに、目を見合せたりし聖にてやをはすらん。我故に迷はば、後世の罪誰が身の上にか可留。よそながら露許の言の葉に情をかけば、慰む心もこそあれと思召て、「上人是へ。」と被召ければ、はなはなとふるひて、中門の御簾の前に跪て、申出たる事もなく、さめざめとぞ泣給ひける。御息所は偽りならぬ気色の程、哀にも又恐ろしくも思食ければ、雪の如くなる御手を、御簾の内より少し指出させ給ひたるに、上人御手に取付て、初春の初ねの今日の玉箒手に取からにゆらぐ玉の緒と読れければ、軈て御息所取あへず、極楽の玉の台の蓮葉に我をいざなへゆらぐ玉の緒とあそばされて、聖の心をぞ慰め給ひける。かゝる道心堅固の聖人、久修練業の尊宿だにも、遂がたき発心修行の道なるに、家富若き人の浮世の紲を離れて、永く隠遁の身と成にける、左衛門佐入道の心の程こそ難有けれ。」
堅物が急に恋すると、いきなりストーカーになったりする。玉の緒の歌は、
初春の初ねの今日の玉箒
手に取からにゆらぐ玉の緒
大伴家持
の歌だった。五郎四郎はこれほどまでに僧を虜にするに違いない。ここで言う僧はもちろん支考自身のことだろう。
この左衛門佐入道は斯波氏頼のことだという。ウィキペディアに、
「足利一門の御曹司として、早くから左近将監、左衛門佐と官職に就き、若狭守護に任じられるなど重用され、幕府の実力者である佐々木道誉の婿にもなった。長兄家長は早くに戦死し、次兄氏経も九州探題に任命されたが九州攻略に失敗して失脚していたため、後に室町幕府執事(管領)が空席となった際、周囲よりその座に推されるなど斯波氏の後継者として目されていたようであるが、父高経は氏頼の弟である義将や義種を偏愛して氏頼を疎んじていたためこれを退けた。こうした父の仕打ちに世を儚んだ氏頼はまもなく出家し、近江に遁世したとされる。」
とある。
五郎四郎はお菓子の名とは思えない立派な名前なので、「三輪の山本に住て、葛城の神の昼のかたちにも恥づる事なし。」時代は下り、姿卑しくても堂々と恋のできる時代となって、五郎四郎が大衆を虜にしても胸を張っていられる。恋せず酒飲まずなんて時代でもない。
先師も「色を思ふ事溫飩のことくせよ」と言った。人間の三大欲求は自然のもので、色を求めるのは食い物を求めるようなものだ。饂飩は美味しいが、寝ても覚めてもそればかりを思うようなものでもないし、だからと言って頑なに断たねばならないようなものでもない。ほどほどが一番良い。
四郎五郎の名は卑しいものではないが、女中のしゃもじでよそわれて食べられてしまう。それでも人に媚びたり見栄を張ったりする者よりは立派ではないか。
魏の何晏は曹操の養子で、ウィキペディアに、
「相当なナルシストであったとされる。顔には常に白粉を粉飾し(本当に真っ白な肌だったとも)、手鏡を携帯し、自分の顔を見る度にそれに「うっとり」としていたという。歩く際にも、己の影の形を気にしつつ歩んだと伝えられている。また、夏侯玄や司馬師と親しくし、優れた評価を与える一方で、自分自身のことは神に等しい存在だと準えていたという(『魏氏春秋』)
とある。その何晏に白粉をしない顔を願うのでもなく、『源氏物語』の藤壺の兄で紫の上の父でもある兵部卿の宮の美貌も源氏の君にとっては無駄なもので、見栄を張らず、自分らしく、分相応に楽しむのがいい。
夕かほに鏡見せばや五郎四郎 支考
『源氏物語』の夕顔も分相応の恋をしていれば、六条御息所の呪いを受けることもなかっただろう。自然体が一番だということを教えてくれるのが五郎四郎だ。
「十日
此日西浄寺を出るに、此道八里ばかり、七瀬の川をやせわたるとかやいへる、ものうき山間のみちすがらなりしが、夏山の鶯の今も盛のやうに鳴たるが、慰むかたもありて、
夏山や鶯啼て小六ふし」
平田の西浄寺を出ると道は山の中をうねうねと進み、日田まで八里。一里行くのに一時間として一日がかりということだ。「七瀬の川」はたくさんの渓流を渡りということか。
鶯は夏の山の中でも盛んに鳴く。
夏山や鶯啼て小六ふし 支考
小六節はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「小六節」の解説」に、
「江戸初期に流行した小唄の曲名。慶長(一五九六‐一六一五)ごろの馬追いで小唄の名人だった関東小六の持っていた竹の杖を歌ったもの。踊り歌などに用いられた。歌詞と楽譜が「糸竹初心集」にある。
※糸竹初心集(1664)中「ころくぶし。ころくついたる竹のおをつゑころく。もとは尺八、なかはああ笛ころく」
とある。『ひさご』所収の「いろいろの」の巻十句目に、
うつり香の羽織を首にひきまきて
小六うたひし市のかへるさ 珍碩
の句がある。歌詞と楽譜が出版されていて家で練習できるため、元禄期には田舎の方で広く唄われていたのだろう。
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