2021年6月12日土曜日

 今日は仲町台の方まで歩いた。帰りの早淵川には亀がたくさんいた。子連れのカルガモが段差を越える所はちょっとしたドラマだ。
 「梟日記」の大橋の所でわからなかった菊の高浜は、「企救の長浜」だとわかった。訂正したい。

 「菊の高濱」は「企救の長浜」で、コトバンクの「精選版 日本国語大辞典「企救浜」の解説」に、

 「豊前国企救郡長浜浦(福岡県北九州市小倉北区長浜)の海岸。現在は埋め立てられて、昔の面影はない。高浜。聞浜。」

とある。企救の長浜とも企救の高浜ともいう。このあたりに企救の長坂もあったのだろう。確かに小倉駅の東側に長浜町という地名がある。
 「あまの河によみたる菊の高濱」は、

 これよりや天の川瀬に続くらむ
     星かと見ゆる菊の高浜
              法印公誉(夫木抄)

の歌であろう。

 それでは「梟日記」の続き。

23,精霊流し

「十五日
   一介亭
 仲麿は誰が家にきて玉まつり
 今宵は法性院の欄干に月を賞す。この流にさしむかへる山は、この地の墓所とかや。松の木の間にかけわたしたる燈籠百千の數をしらず。世にあはれなるものゝおもしろきは、去ものは日々にうとしと、いへる人ごゝろなるべし。
 咲みだす山路の菊をとうろかな」

 一介は元禄十二年刊朱拙編の『けふの昔』に、

 はえ糸の篗も裸に冬至かな    一介
 蜀黍にゆり立られてかかしかな  同

の句がある。「篗(わく)」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「わく」の解説」に、

 「① (籰・) 綛糸(かせいと)を巻きかえす道具。二本または四本の木を対にして、横木にうちつけ、中央部に軸を設けて回転するようにしたもの。〔新撰字鏡(898‐901頃)〕」

とある。「蜀黍」はコウリャン。
 まずは一句。

 仲麿は誰が家にきて玉まつり   支考

 仲麿は阿倍仲麻呂のことだろう。唐に渡った阿倍仲麻呂は一体誰の家でお盆を迎え、先祖の玉を祀ったのだろうか。
 盂蘭盆会は中国から来た習慣で、ウィキペディアには、

 「盂蘭盆の行事は中国の民俗信仰と祖先祭祀を背景に仏教的な追福の思想が加わって成立した儀礼・習俗である。旧暦7月15日は、仏教では安居が開ける日である「解夏」にあたり、道教では三元の中元にあたる。仏教僧の夏安居の終わる旧暦7月15日に僧侶を癒すために施食を行うとともに、父母や七世の父母の供養を行うことで延命長寿や餓鬼の苦しみから逃れるといった功徳が得られると説く。一方、道教の中元節とは、宇宙を主るとされる天地水の三官のうち、地官を祀って、遊魂などの魂を救済し災厄を除くというもので、仏教の盂蘭盆とほぼ同時期に中元節の原型が形作られた。」

とある。そして日本では、

 「日本では、この「盂蘭盆会」を「盆会」「お盆」「精霊会」(しょうりょうえ)「魂祭」(たままつり)「歓喜会」などとよんで、今日も広く行なわれている。この時に祖霊に供物を捧げる習俗が、いわゆる現代に伝わる「お中元」である。
 古くは推古天皇14年(606年)4月に、毎年4月8日と7月15日に斎を設けるとあるが、これが盂蘭盆会を指すものかは確証がない。
 斉明天皇3年(657年)には、須弥山の像を飛鳥寺の西につくって盂蘭盆会を設けたと記され、同5年7月15日(659年8月8日)には京内諸寺で『盂蘭盆経』を講じ七世の父母を報謝させたと記録されている。後に聖武天皇の天平5年(733年)7月には、大膳職に盂蘭盆供養させ、それ以後は宮中の恒例の仏事となって毎年7月14日に開催し、盂蘭盆供養、盂蘭盆供とよんだ。」

とある。阿倍仲麻呂は中国で本場の盂蘭盆会を見ていたのだろう。
 支考もこの遠い長崎の地でお盆を迎え、美濃や伊勢とは違う、多分に中国の影響の強い行事を見て、阿倍仲麻呂のことに思いを馳せたのだろう。
 法性院はどこにあるのかよくわからない。このお寺の欄干で月を見るのだから、浦上川の西側になるのか。川の向こう側に「墓所とかや」というから墓所かどうかはわからないが、松の木に数えきれないほどの燈籠が掛けられているのが見える。
 支考の故郷の方では各家で切子灯籠や折掛け灯籠を立てていたから、この光景はひときわ目を引くものだっただろう。

 咲みだす山路の菊をとうろかな  支考

 山路の菊のように燈籠が咲き乱れている。

「十六日
 今宵又なにがし鞍風にいざなはれて、いざよひのかげに小船を浮たれば、かの數千の燈籠、そのひかり水面につらなる。
 いさり火にかよひて峯のとうろかな
   影照院
 蕎麥に又そめかはりけん山畠」

 鞍風は元禄十二年刊朱拙編の『けふの昔』に、

 松蔭もさらえあけたり冬の月   くら風

の句がある。『西華集』でも二番目の表八句の発句、

 燈籠や此松はよき釣所      鞍風

を詠んでいる。前日にあるように、燈籠は松の木の間に掛け渡す。
 この日はその数千の燈籠を小船に浮かべて流す、いわゆる精霊流しが行われ、その光が水面に連なる。

 いさり火にかよひて峯のとうろかな 支考

 昨日の峯の燈籠が、今日は漁火のようだ。

   影照院
 蕎麥に又そめかはりけん山畠    支考

 影照院というと大音字に旧影照院アーチ門があるが、かつてここに影照院があったのか。山には蕎麦畑があるが、まだ収穫期ではない。そのうち蕎麦に染替るのだろうか、と詠む。


24,諏訪神社参拝

「十七日
 明日はわかれむといふ今宵、人々につれだちて諏訪の神にまうづ。此みやしろは山の翠徴におはして、石欄三段にして百歩ばかり、宵闇の月かげほのわたりて、宮前の吟望いふばかりなし。
 一は闇二は月かけの華表かな    支考
 山の端を替て月見ん諏訪の馬場   卯七
 山の端を門にうつすや諏訪の月   素行
 木曾ならば蕎麥切ころやすわの月  雲鈴
 たふとさを京でかたるもすわの月  去来」

 長崎の諏訪神社は鎮西大社諏訪神社とも呼ばれている。ウィキペディアに「正保4年(1641年)に幕府より現在地に社地を寄進され、慶安4年(1651年)に遷座した。」とあるから、支考が来た時は既に現在の位置にあった。
 長崎でともに過ごした人たちとみんなで最後にここを訪れ、参拝した。
 日が沈み、宵闇になり、やがて月が登る。十七夜は立待月ともいうが、みんなで月明かりが射すのを立って待ってたのだろうか。
 名残を惜しみつつ、それぞれ一句。

 一は闇二は月かけの華表かな    支考

 華表は「とりゐ(鳥居)」と読む。

 それはそのまんまで、日が沈んで先ずは闇、次にやや欠けた月が鳥居の方から登る、と詠む。支考ら一行がいた場所は長い石壇の上の大門の前だったのだろう。下に見おろす鳥居の向こうから月が登る。

 山の端を替て月見ん諏訪の馬場   卯七

 諏訪の馬場に場所を変えてもう一度月を見よう。長い石壇を下りて馬場に行けば、もう一度月の昇るのが見える。

 山の端を門にうつすや諏訪の月   素行

 これは門の上の方から徐々に月の光が射し、上からゆっくりと宵闇の中に門が浮かび上がってくるということだろう。

 木曾ならば蕎麥切ころやすわの月  雲鈴

 旅人の雲鈴だから、信州の諏訪大社だったら新蕎麦の頃だろうな、と思いを馳せる。

 たふとさを京でかたるもすわの月  去来

 今日のこの月を見たことは京でも語ることにしよう。去来もまた支考とは別ルートで京へ帰ることになる。


25,柳川

「十八日
   筑後国
     柳川」

 これだけの記述しかないが、陸路で長崎街道を行ったとすると大村、嬉野、武雄を通って佐賀へ抜けるので柳川は通らない。おそらく海路を使ったのだろう。薩摩街道も瀬高から羽犬塚へと柳川からは一里ほど東側を通る。柳川に門人がいたなら、道をそれて訪ねてくることもあるが、ここには門人を尋ねたことも記されてない。


26,久留米

「廿日
   久留米
 此日西与亭にいたる。亭のまへに川あり。さるは古歌にも詠じたる一夜川にて侍るよし、あるじのかたり申されしを、
 名月はふたつこそあれ一よ川」

 柳川から久留米までは柳川街道だろう。田中道とも呼ばれる。今の西鉄の線路はこの道に沿って走っている。
 西与は元禄十二年刊朱拙編の『けふの昔』に、

 湖に行水すつる月夜哉       西與

の句がある。また元禄九年刊路通編の『桃舐集』に、

 海の上にはるばる来ぬる胡蝶哉   西与

の句がある。
 亭の前の川は筑後川か。

 そのままに後の世もしらず一夜川
     渡るや何の夢路なるらむ
               藤原家良(夫木抄)
 たのましななれし名残の一夜川
     枕にさわく湊ありとも
               藤原基家(夫木抄)

など古くは「ひとよ川」の名で歌に詠まれている。
 そこで一句。

 名月はふたつこそあれ一よ川    支考

 まだ名月には早い文月の二十日だが、今夜の一夜川には二十日の月が照らしている。「一夜」というけど名月は八月の十五夜と九月の十三夜の二つあってほしい。
 久留米には二泊する。その意味でも一夜川が二夜になった。


27,大宰府

「廿二日
   筑前国
 この日宰府にいたる。久留米にありし時、日田の里仙きたる。是も此地にいざなひ、この天満宮に詣しこの時の風雅のまことをぞいのり奉りける。かくて連歌堂に宿してわがこゝろ猶あかず。曉の月に又詣し侍りて、俳諧の腸をかたむけ侍るに、機感たゞ胸にあつまりて、終に奉納の句なし。」

 日田の里仙が久留米にやってきて、その案内で大宰府まで行く。里仙というと、里仙亭の南に香爐庵があり、香爐庵記を書いたのは、六月十二日のことだった。
 薩摩街道で山家(やまえ)宿に出て、日田街道で大宰府へというルートであろう。山家宿は長崎から門司へゆく長崎街道も通っている。
 大宰府に詣で連歌堂に宿す。大宰府も今は受験生の来るところだが、かつては連歌師にとっても俳諧師にとっても聖地で、そのため宿泊のできる連歌堂があったのだろう。当時は本地垂迹で安楽寺が大宰府天満宮に併設されていた。
 古くは宗祇が『筑紫道記』の旅でここを訪れているし、宗因も寛文三年(一六六四年)にここを訪れている。
 芭蕉も訪れることのできなかったこの聖地に立てたことに感極まったのか、奉納の句は終にできなかった。

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