テレビでピーターラビットの映画をやってたようだが見なかった。日本ではあまり評判が良くないようで、これも文化的な背景の違いなんだろうな。
西洋だとマイノリティーが暴力的な手段で相手の弱点を突くような形で反乱を起こすのは、「あるある」まではいかなくても「さもありなん」なのだろう。
アニメの「日本沈没」もヨーロッパで賞を取ったようだが、日本ではシュールすぎて笑えるとまで言われていた。確かに権力に空白ができて無法状態になれば麻薬のコロニーができるということは、欧米人の感覚では「さもありなん」なんだろう。ただ、そこまでドラッグカルチャーが浸透してない我々から見ると、「どこの国の話だよ」になる。
是枝監督の『万引き家族』も、欧米人の感覚では「さもありなん」なんだろうな。『パラサイト』もどっちかというと「あれが韓国人だ」みたいな見方をされていた。
西洋の「さもありなん」が日本では通用しない。これは喜ぶべきことなのか悲しむべきことなのか。「アーヤと魔女」も一回日本で放送されたらしいが、多分これもグローバルスタンダードを狙いすぎたんだろうな。
今回はちょっと「西華集」の方は一休みして、支考の「葛の松原」の前半部分の、支考俳論の原点を探ってみようと思う。
葛の松原
野盤子支考述
潜淵庵不玉撰
「〇冬の雪の寒からむ事をしれる人もあらかじめ水無月のきぬを重むとにあらねど網にかかる鳥のたかく飛ざるをうらみ鉤をふくむ魚のうゑをしのびざる事をかなしむ。そのまどひふかくおもはざるの源ちかし世の風雅に志をよする人も万分が一もなかるべからず。是故に支考が随聞をしるして東の人の記念にはつたへ侍る。」
冬になって雪が降れば寒いということは誰でも知っているが、だからと言って水無月から厚着をするわけではない。とはいえ、網にかかった鳥はもっと高く飛べばよかったと思うし、釣り針に食いついた魚は空腹を我慢できなかったのを公開する。
風雅の道を志す人も、無駄な備えは必要ないが、後で後悔することのないように、ここに俳諧の心得を記すことにする、という前置きであろう。
「〇芭蕉庵の叟一日嗒焉トシてうれふ。曰ク風雅の世に行はれたるたとへば片雲の風に臨めるがごとし。一回は皂狗となりて一回は白衣となつて共にとどまれる處をしらず。かならず中間の一理あるべしとて春を武江の北に閉給へば雨静にして鳩の聲ふかく風やはらかにして花の落る事おそし。弥生も名残おしき比にやありけむ。蛙の水に落る音しばしばならねば言外の風情この筋にうかびて蛙飛こむ水の音といへる七五は得給へりけり。晋子が傍に侍りて山吹といふ五文字をかふむらしめむかとをよづけ侍るに唯古池とはさだまりぬ。しばらく之ヲ論ルニ山吹といふ五文字ハ風流にしてはなやかなれど古池といふ五文字は質素にして實也。實は古今の貫道なればならじ。されど華實のふたつはその時にのぞめる物ならじ。柿本人丸のひとりかもねむと読る歌ハかばかりにてやみなむもつたなし。定家の卿もこの筋にあそび給ふとは聞侍しや。しかるを山吹のうれしき五文字を捨てて唯古池となし給へる心こそあさからね。頓阿法師は風月の情に過たりとて兼好浄弁のいさめ給へるとかや。誠に殊勝の友なり。」
嗒焉は嗒然と同じで、コトバンクの「精選版 日本国語大辞典「嗒然」の解説」に、
「〘形動タリ〙 思いを忘れるさま。われを忘れてうっとりとするさま。嗒焉(とうえん)。
※艸山集(1674)一七・山居「相遇相忘寂寞浜、嗒然無レ主亦無レ賓」
とある。
この話は天和二年の春で、芭蕉庵は第一次芭蕉庵であろう。
延宝八年の冬、芭蕉は深川に隠棲し、翌延宝九年の春に李下から芭蕉一株を贈られる。
七月には其角、揚水、才丸と二百五十韻興行を行い、『俳諧次韻』を刊行して蕉風の確立を世に知らしめることになる。
さらにこの秋に、
茅舎ノ感
芭蕉野分して盥に雨を聞く夜哉 芭蕉
の句を詠み、翌天和二年三月に刊行された千春編『武蔵曲』で芭蕉翁桃青と表記され、芭蕉翁の名を広めることになる。
天和二年の春は、その意味で宗房でも桃青でもなく「芭蕉」という名前生まれた瞬間でもある。そして三十九歳の芭蕉は既に「翁」と呼ばれるようになっていた。支考の文にも「芭蕉庵の叟」とある。叟も「おきな」と読む。
隠棲し世俗の仕事から解放され、ゆとりもできた。そこに『俳諧次韻』の成功、そして千春編の『武蔵曲』でも、俳諧での自らの地位を不動のものとした。こうした充足感こそが「嗒焉」と呼ぶにふさわしいものだったのだろう。
談林の流行によって、俳諧は単なる連歌入門のための補助的なものではなく、庶民の生き生きとした生活を表現する独立したジャンルにのし上がっていった。ただ、その熱狂も既に陰りが見られるようになってきた。
寺社での聴衆を集めての百韻興行というスタイルそのものに、大衆を引き付ける力がなくなってきた。それはおそらく歌舞伎や人形芝居などの新しい舞台芸術の勃興によるものだろう。これに対し俳諧を書物で読む面白さをアピールしたのが『俳諧次韻』だった。そこにはこれまでの俳書にない様々なテキストの遊びが盛り込まれていた。
そして芭蕉は常にその次を見据えていた。一つの成功体験を終生引きずるようなことは、芭蕉に限っては全くなかったといえよう。
俳諧の将来を思うとそれは「片雲の風」のように思えた。この言葉は後の一所不住の旅に出ることを暗示させる。まあ、支考がこれを書いたときは既に結果を知っていたわけだが。
「一回は皂狗となりて一回は白衣」の「皂狗」は字義の通りだと黒い犬だが、何を意味するかはよくわからない。「白衣」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「白衣」の解説」に、
「〘名〙 (「びゃく」「え」は、それぞれ「白」「衣」の呉音)
① 白い色の衣服。はくい。はくえ。
※日本往生極楽記(983‐987頃)春素「其使禅僧一人。童子一人。共着二白衣一」
② 白小袖に指貫(さしぬき)または袴などだけを着て、直衣、素襖(すおう)、直垂(ひたたれ)、肩衣(かたぎぬ)などの上着を着けない下着姿。
※源平盛衰記(14C前)一三「大口許に白衣(ビャクエ)にて、長押に尻懸」
③ 法師が墨染の衣を着なかったり、武士が袴を着けずにいたりするなど非礼な服装。転じて、無礼・非礼をいう俗語。
※発心集(1216頃か)一「白衣(ビャクヱ)にてあしださしはきをりけるままに、衣なんどだにきず」
④ (インドでは俗人は多く白の衣を着ていたところから) 仏語。俗人のこと。僧侶が黒衣(墨染の衣)を着けるのに対していう。はくえ。
※法華義疏(7C前)四「能忍二白衣諸難一」 〔維摩経‐上〕」
とある。ここでは単に黒衣の僧にもなろうとしたこともあったが、全くの俗人になろうとしたこともあった、という意味かもしれない。
そして結局僧にも俗にもなれず、というところだろう。これは『猿蓑』所収の「幻住庵記」の、
「ある時は仕官懸命の地をうらやみ、一たびは佛籬祖室の扉に入らむとせしも、たどりなき風雲に身をせめ」
から取ったのだと思う。支考のみならず、門人は皆周知のことだ。
このどちらでもない生き方を模索していた時、「春を武江の北に閉給へば雨静にして鳩の聲ふかく風やはらかにして花の落る音しばしばならねば言外の風情この筋にうかびて蛙飛こむ水の音といへる七五は得給へりけり。」ということになった。
後に近代の正岡子規はこの文脈を貞門の駄洒落、談林の滑稽を離れる道を探したというふうに読み替えているが、これはあくまで子規の解釈にすぎない。強いて言えば俳諧の笑いや泪の軟弱さを捨て、西洋流の戦うための文学を作ろうとしていた子規自身の問題意識を、芭蕉に仮託したと言っていいだろう。
支考はあくまでここは聖と俗との間を取り持つ俳諧という文脈で語っている。
「蛙飛こむ水の音」の七五を得て、上五が座らない。そこで晋子(其角)が「山吹や」の五文字を冠す。
ここで重要なのは、この『葛の松原』が芭蕉の存命中の元禄五年に刊行されたということだ。つまり芭蕉がこれを読んでなかったはずはなかろう。
そして元禄七年には支考は伊賀から大阪での終焉まで、ずっと芭蕉の旅に寄り添い、最後は介護までして芭蕉に寄り添っている。もしここに書かれていたことが嘘だったら、当然芭蕉本人から咎められることになっていただろう。だが、そのようなこともなかった。
おそらく天和の頃に既に下七五があって、其角が「山吹や」の案を示したことは、当時の門人の間である程度共有されてた事実ではなかったかと思う。
たとえば「八九間空で雨降る柳かな 芭蕉」の句が、実は奈良の東大寺の近くのあの柳を詠んだということを去来も支考も知っていたことが、支考の『梟日記』に記されているように、芭蕉が門人に語って聞かせた裏話の一つだったのではないかと思う。
支考はこの聖と俗の問題を聖の実と俗の花という二元論に持っていって、山吹は花やかだが俗で、古池は質素だが実にして聖ということになる。ここではまだ虚実の論は現れてない。
柿本人麻呂の、
あしびきの山鳥の尾のしだり尾の
ながながし夜をひとりかも寝む
柿本人麻呂(拾遺集)
の歌だが、これは『万葉集』巻十一(二八〇二)の、
足日木乃山鳥之尾乃四垂尾乃長永夜乎一鴨将宿
の歌を元にしている。「あしびきの山鳥の尾のしだり尾のながながし夜をひとりかも」まではほぼそのまま読める。最後の「将宿」も残り二文字という意味では「ねむ」と読むのが順当な所だろう。
「ひとりかもねむ」は「ひとりねむかも」の倒置になる。「かも」は「けやも」で今日の名古屋弁の「きゃーも」にその名残をとどめている。「哉」や関西弁の「がな」と一緒で治定の詞だ。
この歌が藤原定家の『小倉百人一首』に選ばれたということでも、定家がいかにこの歌を高く評価していたかが分かる。花には乏しいが最後の「ひとりかも寝む」に実が具わっている。
しかし一方で、定家はこの歌を本歌として、
ひとりぬる山鳥の尾のしだり尾に
霜置きまよふ床の月影
藤原定家(新古今集)
の歌を詠んでいる。上五七五を実として「霜置きまよふ床の月影」の花に遊んでいる。
これが其角の「山吹や」の上五に通じるということなのだろう。
兼好法師というと『徒然草』第137段の「花は盛りに、月は隈なきをのみ、見るものかは」の段は有名だが、恋に関しても、
「逢はで止みにし憂さを思ひ、あだなる契りをかこち、長き夜を独り明し、遠き雲井を思ひやり、浅茅が宿に昔を偲ぶこそ、色好むとは言はめ。」
とある。まあ、今でもむしろ失恋ソングこそがラブソングの王道だが。
「頓阿法師は風月の情に過たりとて兼好浄辨のいさめ給へる」というのは、どこかに出典があるのか。頓阿、兼好、浄辨、慶運は和歌四天王と呼ばれていた。コトバンクの「日本大百科全書(ニッポニカ)「和歌四天王」の解説」に、
「各時代、各門派の和歌に優れた4人を称するが、和歌史では、鎌倉末期から南北朝時代の歌壇で活躍した二条為世(ためよ)門の4人の法体歌人をさすのが普通。『今川了俊(りょうしゅん)歌学書』によると、浄弁(じょうべん)、頓阿(とんあ)、兼好、能与(のうよ)をあげているが、『正徹(しょうてつ)物語』では早く世を去った能与にかわり、浄弁の子慶運(きょううん)が入る。彼らは為世、為定らの率る二条派歌壇に重きをなした。後世、各人の秀歌により「沢田の頓阿」「芦の葉の浄弁」「手枕(たまくら)の兼好」「裾野(すその)の慶運」とよばれた。また、江戸時代では澄月(ちょうげつ)、慈延(じえん)、小沢蘆庵(ろあん)、伴蒿蹊(ばんこうけい)を和歌四天王と称する。[稲田利徳]」
とある。
花を見ても散るのを悲しみ、あるいは荒れた家にあだに咲くのを惜しむのは風流の王道だし、月も涙に曇るのは人の心だ。月花の外見の美しさに留まらず、その本意本情はあくまで人の心にある。それが風雅の誠というものだ。
支考が「山吹」に花を見、「古池」に実を見たのも、大事なのはその心だというところにあった。ここに後に『続五論』や『俳諧十論』で展開される支考の俳論の原点があったのだろう。
「〇そもそも風雅はなにの為にするといふ事ぞや。孔子の三百篇ハ草木鳥獣のいぶかしき物をしらじ。倭には三十一字をつらねて上下の情にいたらしむ。その詩歌にもらしぬる草木鳥獣の名をさして高下を形容せむものハいまの風雅これなるべし。しかるに俳諧といふ文字ハ史には不根の持論といへりければ、諧ノ言ハ吾しらじ。この比その名をあらためむ事を阿叟に申侍れバ古今集ハ已に俳諧の名を立たり。いまの者これをせむ事よからず。是故に韓子が昼寝も魯論ハけづらず。華厳の丈瑠璃もその奥にしるしたり。俳諧ハ世の変相にして風雅は志の行ところなりと吾がともがら是なからむや。」
孔子の三百篇は言わずと知れた『詩経』のことで、全305篇から成る。ウィキペディアには、
「『史記』孔子世家には、もともと三千以上存在した詩から、孔子が善きものを選び取って現行の三百五篇に編纂したとする説があり、これを「孔子刪定説」と呼ぶ。」
とある。かつては多くの人に信じられていた。
その『詩経』の影響を受けて日本でも三十一文字の和歌を集めた『古今和歌集』が編纂された。この古典の風雅から漏れた草木鳥獣を題材として、今の風雅が成り立っている。この辺りで支考がそれほど人事の新味というものに注意を払ってなかったのではないかと思う。江戸時代特有の社会の変化、新しい風俗、それもまた俳諧の新味の重要な要素だったはずだ。
風雅は『詩経』も『古今和歌集』も等しいのであれば、何で俳諧の「諧」の文字があるのかということになる。『史記』には滑稽列伝はあるが、そこに俳諧の文字はないから、「諧の言は吾しらじ」なのだろう。芭蕉に聞くと『古今和歌集』に既に「俳諧歌」があるという。
「俳諧は世の變相にして風雅は志の行ところなり」は『詩経』大序の、
「詩者志之所之也。在心為志、發言為詩。」((詩は志すところのものである。心にあるにを志しといい、言葉にして発すれば詩になる。」
「至于王道衰、礼儀廃、政教失、国異政、家殊俗、而変風変雅作矣。」(周の王道が衰え、礼儀が廃れ、政教も失われ、国ごとに異なる政治が行なわれ、家ごとに風俗が異なるようになって、変風変雅の作が生じた。)
を踏まえたものだろう。
「韓子が昼寝」はよくわからない。『韓非子』に「昔者、韓昭侯、酔而寝。」というのがあるが、法の厳格な適用を説いたもので、俳諧に関係があるとは思えない。『論語』の「宰予昼寝す」は昼寝してひどく怒られた話だが、関連がよくわからない。
「華厳の丈瑠璃」は西方浄土に対し東方にあるものを「東方浄瑠璃浄土」といい、「浄瑠璃世界」と呼ばれていることと関係があるのだろうか。
支考の俳諧の基本にあったのは『詩経』大序の、
「上以風化下、下以風刺上、主文而譎諫。言之者無罪、聞之者足以戒。故曰風。(為政者は詩でもって民衆を風化し、民衆は詩でもって為政者を風刺する。あくまで文によって遠回しに諌める。これを言うものには罪はなく、これを聞くものを戒めることもない。それゆえ風という。)
「至于王道衰、礼儀廃、政教失、国異政、家殊俗、而変風変雅作矣。(周の王道が衰え、礼儀が廃れ、政教も失われ、国ごとに異なる政治が行なわれ、家ごとに風俗が異なるようになって、変風変雅の作が生じた。)
の風刺の精神があったのは確かだろう。これが今後の支考俳論の形成によって花実とどう結びついてゆくのかというと、王道の誠が変風変雅の中で、詩経・古今集の古い体を不易とし、これに流行を対比し、不易の実、流行の花という形で分けて行くことになるのだろう。
「〇いにしへの俳諧ハ如来禅のごとくその理一貫して線のごとし。いまの風雅は祖師禅のごとく捺(ナツ)着すれば即轉ズ。かならずしも理智にかかはらねば寸心かけづといへるたぐひなるべし。」
この言葉は『去来抄』に、
「支考曰、昔の俳諧は如来禅の如し。今の俳諧は祖師禅の如し。捺着すれば則転ず。」 (岩波文庫『去来抄・三冊子・旅寝論』p.66)
と、「支考曰」として転載されているから、芭蕉が言ったのではなく支考の考えであろう。
如来禅はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「如来禅」の解説」に、
「〘名〙 仏語。如来の教えに従い、自心は本来清浄であることを悟る禅法。もとは楞伽経(りょうがきょう)に説くが、祖師禅が起こってからは、それよりも低次のものとされた。
※元亨釈書(1322)一六「我有二心法一。曰二如来禅一」
とあり、祖師禅はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「祖師禅」の解説」に、
「〘名〙 祖師達磨によって伝えられた禅。経典等の教義によらないで、以心伝心で悟るもの。如来禅。
※大燈国師語録(1426)上「進云。如来禅与二祖師禅一。相去多少」
※俳諧・去来抄(1702‐04)修行「今の俳諧は祖師禅の如し」
とある。漸悟説と頓悟説にも似ている。きちんと勉強して修行も積んだうえで悟るか、何もせずに突然ひらめいて悟るかのちがいで、儒教でも朱子学は格物窮理によって誠に至り、陽明学は何もしなくても誠に至るとする。
科学と精神論の差で、日本では結構精神論の好きな人が多く、支考の俳論にはまる人は精神論の好きな人なのかもしれない。
悟りというのは、西洋哲学的に言えば、現象学的なエポケー(判断中止)によるもので、これによって、既存の発想から自由になり、じかに現象を直観することによって真理に至ろうという方法ではあるが、ただ、その真理は実は自由であることそのもののうちにしかない。マルチン・ハイデッガーは「真理の本質は自由である。」と言う。
神秘主義というのは、この空白に付け込んで、実証性のないドグマを信じ込ませるところに生じるもので、せっかく日常の様々な先入見から開放されたものの、すぐに他のもっと有害な先入見で覆ってしまうのである。悟りというのは、ただ沈黙である限りにおいて悟りであり、いつでもそのつど自由であるということ以上の意味はない。この沈黙をジャック・デリダは太陽に向かって飛び立ったイカロスに喩えた。
自由を見出すには、日常の先入見を排除すべく、必要な修行をしなくてはならない。禅はあくまでその一つにすぎない。
俳諧もまた基本的には俳諧の自由が重要であり、前句の意味や情に捉われずに、絶えず発想の転換が要求される。
古い俳諧は連歌の時代から研究されてきた上句と下句を整合させるための「てには」の使い方や、物付け、心付け、違え付け、相対付けなどの付け筋が様々に研究されてきた。
それに対し、芭蕉が『奥の細道』を終え、伊賀に帰省したあたりから、従来になかった「匂い付け」を試みるようになった。こうした新しい付け筋を模索していた頃に支考も芭蕉に入門し、多分過去の付け筋に囚われずに自由に付けるように指導されたのであろう。
こうした新しい付け筋を芭蕉と一緒に作って行くことになった支考は従来の付け筋を「如来禅」に例え、匂い付けを「祖師禅」に喩えたのであろう。
「捺(ナツ)着すれば即轉ズ」は仏道ではなく書の言葉で、止めるべきところは止めてからしっかりとはねるという呼吸をいう。この呼吸は俳諧でも重要だという意味。
ただ、芭蕉は貞門や談林の時代の技術を一通り身に着けた上で軽みを提唱したが、支考の世代はその過程を経ていない。ここに支考の限界があったのかもしれない。芭蕉自身も古い技法の蓄積のない人たちにいきなり初期衝動だけで句を作るように指導したことも、結果的には無謀だったのかもしれない。
結局支考の俳諧は、古い付け筋も後期蕉門の匂い付けも引き継げずに、其場、其人、時節、天相、曲といった付け筋に単純化されていった。自由と言われてもどうしていいかわからず、結局自らルールを作って行くしかなかったのだろう。
余談だが、カール・ポパーは帰納法の限界を指摘し、クルト・ゲーデルは絶対無矛盾の体系の不可能を証明した。それに加えてハイデッガーは現象学的な真理が「自由」であり、何ら命題に至らないことを示したことで、二十世紀の中ごろに絶対的な哲学的真理が不可能だということで、いわゆる「哲学の終わり」となった。
我々にあるのは科学という仮説検証の繰り返しによる真理の近似値だけで、絶対的な真理はない。哲学の終わりの時代を生きている。
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