今読んでいるラノベは小林湖底さんの『ひきこまり吸血姫の悶々』で、一気に三巻読んで、今四巻目に入っている。何も考えずに読めるし、これだけ暴力シーンがあってもちゃんと平和を愛することの大切さを説いている辺り、世界観設定がいいのと絶妙なシリアス破壊のおかげだろう。日本のエンターテイメントの底力だ。筆者も引きこもり生活が始まって半年になる。
今期のアニメではやはり『シャドーハウス』が良かったかな。結局人格というのはある程度は親や周囲の人を見ながら形成されるものだから、誰もがシャドーの部分がある。
それでは「西華集」の続き。
倉敷
箒にも蠅ははかれぬ在郷かな 除風
田植の戻る門の簑笠 漏角
売ものに聖の笈をのぞかせて 支考
秋の節句のどこもあま風 我々
川むかひ相撲の聲も宵月夜 幸舌
今年わびたる庵の菊萩 尚雪
質置て旅に出るも風雅也 雲鈴
こちの名所は阿知潟の海 青楮
第一 流行の草也家あるじの食もりにかからんとてまつ
座敷掃時の蠅なるべし趣向いひなしていとよし
第二 時分也今朝は五月雨の降もふらず昼食の雨間に照
わたされて蠅どものむらだちたるその家のさま見
るやう也
第三 其人の一転也下司をんなのはしたなくて帷子の裏
襟は望なけれど祭帯は一筋ほししなど笈のうしろ
にのびあがりのぞき合たるかならず買むとにはあ
らず門のひじりを見つけたればならじ
発句、
箒にも蠅ははかれぬ在郷かな 除風
の句も、本来は挨拶の意味があったのだろう。蠅が五月蠅い所ですが、蠅は箒で掃くこともできません、こんな辺鄙な田舎で失礼します、というへりくだった挨拶句であろう。
「在郷」は「ざいご」と読む。コトバンクの「精選版 日本国語大辞典「在郷」の解説」に、
「① (━する) 郷里にいること。田舎に住みつくこと。
※神宮雑書‐建久三年(1192)八月日・伊勢大神宮神領注文「倶以勅免神領、在郷名号各別之地也」
② 都会から離れた地方。田舎。ざい。〔文明本節用集(室町中)〕
※浄瑠璃・信州川中島合戦(1721)三「在郷に引込み、鋤鍬取て自(みづから)だがやし」
[語誌]近世期の類義語に「在所」があるが、「在郷」は、複合語も含めて、上方での使用がそれほど一般的でないのに対し、「在所」は上方で使用される傾向が強い。」
とある。
「流行の草也」というのは、特に古典の趣向を借りているわけではなく、夏のコオロギが櫛をはじく音に似ているというような発見があるわけでもなく、その場のおもてなしの興で述べただけの句なので、書の楷書・行書・草書になぞられて、草書のような句とする。その場の興で手早く作る句というニュアンスであろう。
田舎へ行く程一昔前の挨拶句の習慣が残っているということか。
除風は元禄十六年『番橙(ざぼん)集』を編纂刊行している。
脇。
箒にも蠅ははかれぬ在郷かな
田植の戻る門の簑笠 漏角
「時分也」とあるように田植の頃と季節を付ける。
田植は神事なので簑笠を着る。楽などを奏でながら、一種のお祭りになる。
漏角は『西華集』坤巻に、
稲の穂や心ばかりの鮩膾 漏角
人心四月あたらし薮の垣 同
の句がある。
第三。
田植の戻る門の簑笠
売ものに聖の笈をのぞかせて 支考
前句の門をお寺のこととして「聖の笈」を付ける。
「其人の一転也」というのは、前句の田植から戻る人を一転して、田植の人の中を戻る笈を背負った聖僧に転じたからであろう。集まってきた早乙女たちに笈の中身をのぞかせ、実際に何かを売るわけではないけど、いかにもお店を開いたみたいにはたから見るとそう見える。
四句目。
売ものに聖の笈をのぞかせて
秋の節句のどこもあま風 我々
時候と天気を付ける。あま風は雨に降りそうな湿った風のこと。秋の節句は七夕か重陽か。
我々は『西華集』坤巻に、
烏帽子着て見やれば古し杜若 我々
の句がある。
五句目。
秋の節句のどこもあま風
川むかひ相撲の聲も宵月夜 幸舌
前句が秋に転じたので、定座を繰り上げて月を出す。節句に相撲を付ける。
幸舌は『西華集』坤巻に、
ふり袖や田植とちがふ木綿とり 幸舌
の句がある。
六句目。
川むかひ相撲の聲も宵月夜
今年わびたる庵の菊萩 尚雪
川向の相撲に川のこちら側の侘びたる庵を付け、菊と萩を添える。
尚雪は『西華集』坤巻に、
暮合を見たし蛍の水ばなれ 尚雪
冬枯の柳や雪にその姿 同
の句がある。
七句目。
今年わびたる庵の菊萩
質置て旅に出るも風雅也 雲鈴
侘びた庵の住人が旅に出ようと思い立つ、「質置て」が取り囃しになる。
雲鈴はコトバンクの「デジタル版 日本人名大辞典+Plus「雲鈴(1)」の解説」に、
「?-1717 江戸時代前期-中期の俳人。
陸奥(むつ)盛岡藩士だったが,僧となり,俳諧(はいかい)を森川許六(きょりく),各務(かがみ)支考にまなぶ。元禄(げんろく)13年大坂から北上して,佐渡に滞在,のち南下して京都にいたるまでの紀行「入日記(いりにっき)」を16年に刊行した。享保(きょうほう)2年2月2日死去。別号に摩詰庵(まきつあん)。」
とある。正徳五年(一七一五年)に『笈のわか葉』を刊行する。信州・越後などの旅が記されている。
八句目。
質置て旅に出るも風雅也
こちの名所は阿知潟の海 青楮
旅立ちということで地元の名所、阿知潟を付ける。コトバンクの「世界大百科事典内の阿知潟の言及」に、
「…古くは島であった児島半島と本土との間は,多数の島が散在し吉備の穴海(あなうみ)と呼ばれ,ここが瀬戸内海航路の主要ルートであった。高梁(たかはし)川,笹ヶ瀬川,旭川,吉井川の堆積作用で近世初頭には児島が陸繫され,西側は阿知潟,東側は児島湾となった。湾は北岸から干拓が進められたが,大規模なものとして17世紀の沖新田,19世紀の興除新田,明治期の藤田組による藤田開墾(藤田農場),第2次大戦後の六区および七区がある。…」
とある。今は干拓され児島湾もわずかな児島湖を残すのみで見る影もないが、かつては児島半島は島で、本土との間は巨大な干潟だった。
源平合戦の藤戸の戦いはこの干潟を渡っての戦いで、源氏方の佐々木盛綱が漁夫に浅瀬の場所を教えてもらって勝利するものの、その時他の者にも教えるのではないかと疑い、先陣を取りたいがためにその漁夫を切り殺したことが謡曲『藤戸』の物語となっている。
江戸時代には半島は陸続きになり、かつて干潟を渡った藤戸も田んぼになっていた。
青楮は元禄十六年刊除風編の『番橙(ざぼん)集』に、
傘の空にふかぬかとらが雨 青楮
の句がある。「虎が雨」はコトバンクの「ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典「虎が雨」の解説に、
「曾我の雨,虎が涙ともいう。旧暦5月 28日に降る雨をいう。この日は曾我兄弟の仇討ち決行の日で,曾我十郎祐成に愛された大磯の遊女虎御前が,十郎の死を悲しんで流す涙が雨となって降るというもの。もともと5月 28日の前後は,田の神を送るさなぶりの祝いのためにも雨が待たれ,たとえ数滴であれ,この日には雨が降ると伝えられた。しかし,この雨が虎御前と結びつけられたいわれは明らかでない。おそらく仇討ちの日が大雨であったとされること,また曾我狂言における虎御前の貞女ぶりが涙雨のイメージを呼んだことなどによると思われる。」
とある。
仝
白妙や名も凉しげに風車 露堂
木末の蝉の高き石壇 素秋
旅人も一歩か銭に草臥て 支考
囲炉裏のはたに灰焼を見る 稚志
葺かへの手柄になりしけふの雨 枳邑
伯母のむかひの駕籠戻しけり 如草
息災で酒のむ月のめでたさよ 簑里
早稲のにほひの広き新田 和水
第一 不易の行也夏の花の白きものあまたならんに名も
凉しとおもひよせたるそのかたちはさら也
第二 其場也ただ石壇のたかき也木末の蝉とはをきあは
せたり高の字よくはたらきて風車の風情はるか也
第三 其人也一句のさま古めきたれど高き石壇をこなた
より見あげたるに旅人の草臥の外又あるまじきに
や中の七もしをかへたらんには草臥の二字石壇に
あたりてよからず此時さらに新趣をもとむまじき
か
発句は、
白妙や名も凉しげに風車 露堂
風車は植物の名前で、ウィキペディアに、
「カザグルマ (風車、学名:Clematis patens C.Morren et Decne.) は、キンポウゲ科センニンソウ属 の落葉性つる性多年草。本州、四国、九州北部、東アジアに分布し、おもに林縁に生える。鑑賞用にも植えられている。」
「茎は褐色で木質化する。葉は長さ3-10 cmの小葉3-5枚からなる羽状複葉、5-6月に短い若枝の先に白色または淡紫色の花を単生する。」
とある。支考の注にあるように、夏の白い花のたくさんある中で、名前が涼しげだという所に心を留める。夏の涼しさというテーマに白い花や風の連想は不易だが、カザグルマという花があまり詠まれることのない花なので、楷書・行書・草書でいえば行書に当たる。
露堂は享保二年刊露川・燕説編『西国曲』に、
魚に餌をあたえてあそべ春の暮 露堂
の句がある。
脇。
白妙や名も凉しげに風車
木末の蝉の高き石壇 素秋
「其場也」とあるように、カザグルマの花の咲く場所を付ける。石壇は石で作られた祭壇。それを取り囲むようなさらに高い木があってそこで蝉がしきりに鳴いているなかで、カザグルマが涼し気に咲いている。
カザグルマは蔓性なので「高き石壇」を出すことで、それよりも上の高い所に咲いているという連想を誘う。
素秋は元禄十六年『番橙集』に、
よの中はかくのごとしや水海月 素秋
九輪迄笠まくらるる野分哉 同
の句がある。
第三。
木末の蝉の高き石壇
旅人も一歩か銭に草臥て 支考
高き石壇を見上げている人物を登場させるので「其人也」になる。高き石壇や梢を見上げる旅人は、草臥れて一息つく旅人になる。
一歩(いちぶ)の銭を節約するために馬にも乗らずに歩いたということか。ただ草臥れた旅人で終わらせずに、ネタを一つ折り込み取り囃す。
四句目。
旅人も一歩か銭に草臥て
囲炉裏のはたに灰焼を見る 稚志
「灰焼」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「灰焼」の解説」に、
「① (「焼灰」とも書く) 大嘗祭の白酒(しろき)、黒酒(くろき)にまぜる灰をつくる役。一一月上旬に造酒司の酒部に率いられて山にはいり、山神をまつって薬灰一石をつくった。
※儀式(872)三「使造酒司酒部一人率二焼灰并夫五人一向二卜食山一」
② 山などで木を焼いて染色に用いる紺屋灰(こんやばい)をつくること。」
とある。大嘗祭ではないだろう。
「紺屋灰」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「紺屋灰」の解説」に、
「〘名〙 染料として使用する藍の発酵建に使う灰。燃焼した薪炭の木灰に、タバコの茎を焼いて作った灰またはタバコの茎を水に浸して得た赤褐色の液を加えたもの、あるいは、木灰にタバコ灰、炭酸ソーダ、苛性ソーダなどの溶液を混ぜたもの。こうやばい。」
とある。少量だったら囲炉裏の脇を使って作ることもあったのか。
草臥れた旅人の民家に泊めてもらったときの情景であろう。
稚志は元禄十六年『番橙集』に、
鳥の巣を吹ちる松のうねり哉 稚志
小半の我も出さずや虎が雨 同
の句がある。
五句目。
囲炉裏のはたに灰焼を見る
葺かへの手柄になりしけふの雨 枳邑
屋根の葺き替えが終わったところで雨が降り、早く葺き替えておいて良かった。雨のなので家の中で灰焼をする。
枳邑は元禄十五年刊惟然編の『二葉集』に、
あたまからないて見せけり猫の恋 枳邑
蜘の子の雨をいやがる住居かな 同
の句がある。
六句目。
葺かへの手柄になりしけふの雨
伯母のむかひの駕籠戻しけり 如草
雨なので伯母を迎えに行く予定を中止し、駕籠を戻す。
七句目。
伯母のむかひの駕籠戻しけり
息災で酒のむ月のめでたさよ 簑里
伯母が病気か何かで駕籠を呼んだが、元気になったので駕籠を戻す。
とりあえず無事を祝って月見の酒を飲む。
簑里は享保二年刊露川・燕説編『西国曲』に、
馬の屁の首途さびしき冬の月 簑里
烏帽子着ぬ時の寒さや蕗の塔 同
の句がある。
八句目。
息災で酒のむ月のめでたさよ
早稲のにほひの広き新田 和水
前句の目出度さを、広い新田の早稲の豊作の目出度さとする。
和水は元禄十六年『番橙集』に、
吾ままに鳥のはいるや花の庵 和水
入梅晴や腰をのしたる草の庵 同
の句がある。
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