2021年6月16日水曜日

 今日は一日雨。梅雨らしい一日だった。
 東京の新規感染者数は久しぶりに五百人を越えた。減ってくるとどうしたって気の緩みが出てくる。再び増えればまた引き締める。その繰り返しになっている。
 第二波のあとは一週間で千人超という所で長く安定した。第三波のあとは千九百人くらいの所で底になった。今回はそれより高い所で着地点になる可能性はある。
 今から二週間前というとちょうど自分の散歩を再開した時に重なる。みんな同じこと考えてたんだろうな。また引き締めなくてはならないかな。
 それでは「梟日記」の続き。今日で最終回。

37,下関

「七日
 此日下の關にわたる。流枝亭に會して、おのおの病床つゝがなき事を賀せらる。
 しなでこそ都のあきも山づゞき
   泊船津
 船頭も米つく磯のもみぢかな
   壇浦
 此浦は平家の古戰場にして、歌人詩僧もむなしく過べからず。さればやよひの花ちりぢりに、金帶玉冠もいたづらに、千尋の底にしづめられしむかしのありさま、今なを見るばかり、あはれふかし。
 鳥邊野はのがれずやこの浦の秌
 世につたふ、この浦の蟹は、平家の人々の魂魄なりと。誠にその面人にことならず。をのをの甲冑を帶して、あるいは眉尻さかしく髭生ひのぼりていかれる姿、さらに修羅のくるしみをはなるゝ時なし。
 秌の野の花ともさかで平家蟹
 阿彌陀寺といふ寺は、天皇・二位どのゝ御影より一門の畵像をかきつらねて、次の一間は西海漂泊のありさま、入水の名殘に筆をとゞめたりと、この寺の僧の繪とき申されしが、折ふし秌の夕の物がなしきに、人はづかしき泪も落ぬべき也。
 屏風にも見しか此繪は秌のくれ
 この寺の庭に老木の松ありて、薄墨の名を得たる事は、文字が關を此松の木間より見わたしたるゆへなりと、柳江・流江などかたり申されしに、
 薄墨のやつれや松の秌時雨
   重陽
 簑笠にそむきもはてず今日の菊」

 七日に関門海峡を渡り下関に戻る。五月の終わりには「まして此ところ古戰場にして、秌のあはれをこそ見るべけれとて」と後回しにした所を見て回ることになる。
 流枝亭は行きにも泊っている。支考編『西華集』には、

 身を捨る薮もなければ秋の暮   流枝
 大雪は松に音なき寝覚哉     同

の句がある。
 支考の病気の噂は下関にも届いていた。行けば回復祝いになる。

 しなでこそ都のあきも山づゞき  支考

 九州は海を隔てていたが、下関に来た今は畿内とも陸続きになる。
 船津はどこだかよくわからない。あるいは舟島(巌流島)のことか。船頭が米を搗くのにこの場所を使っていたようだ。
 宮本武蔵と佐々木小次郎の巌流島の決闘が有名になったのは近代の吉川英治の小説によってだし、この決闘の出典となった『武公伝』や『二天記』も支考の時代よりも後に書かれたものなので、当時の人の話題にはなってなかったと思う。
 武蔵というと、延宝の頃の「時節嘸」の巻三十一句目に

   うけて流いた太刀風の末
 吉岡の松にかかれる雲晴て

という吉岡憲法と宮本武蔵との果し合を詠んだと思われる句がある。

   泊船津
 船頭も米つく磯のもみぢかな   支考

 壇の浦の戦いは当然ながら『平家物語』であまりにも有名な話で、「歌人詩僧もむなしく過べからず」と、ここに来たなら必ず見ていかなくてはならない。
 壇の浦の戦いが行われたのは関門海峡から三韓征伐でも知られた干珠満珠の島までの間の海域をいう。支考もこの辺りを船で見て回り、その途中で船津に泊まったのだろう。
 沢山の人や宝が沈んだことに思いを馳せ、

 鳥邊野はのがれずやこの浦の秌  支考

 鳥邊野は京の東側、清水寺の方にあった葬送の地だが、ここでは死は逃れられないという意味で引き合いに出されている。ここで生き残って無事に京に帰った人も、早かれ遅かれ鳥野辺に葬られることになる。死んでも生き残っても結局最後は悲しい浦の秋だ。
 支考も病気になって、無事に京に帰ったとしてもいつかはやはり死ぬんだという、そんなこの世の無常を感じていたのだろう。
 平家蟹はその甲羅の模様が人の怒った顔ににているというので、海に沈んだ平家の亡霊が乗り移ったと言われてきた。

 秌の野の花ともさかで平家蟹   支考

 前の鳥野辺の句のイメージと連続していて、無事都に帰って鳥野辺の野の花となって花野を飾ることのできなかった平氏の霊が、ここで平家蟹となったのは無念のことだ、とする。
 阿弥陀寺は今の赤間神宮で、元は安徳天皇を祀ったお寺だったが、明治の廃仏毀釈によって神社になった。赤間神宮のホームページの宝物殿の所には、重要文化財土佐光信筆『安徳天皇縁起絵図八幅』、重要美術品『平家一門肖像画十幅』が記されている。東京大学史料編纂所のホームページには、

 「江戸時代には、床下に五輪塔がある天皇殿に安徳天皇・平家一門の影が安置され、その隣室の襖絵として『安徳天皇縁起絵』があったようである。阿弥陀寺は明治の廃仏毀釈に際して廃寺となり、御影堂は解体されて安徳天皇陵・安徳天皇社となって、のちに赤間宮(あかまのみや)、さらに赤間神宮となった。御影堂・御陵の位置は、画中の阿弥陀寺境内でいうと、向って左手の樹木が描かれている辺りに相当しようか。御影堂の解体時に、障子絵は現在の掛幅装に改められたといい、第二次世界大戦の戦火を免れて今日まで伝わっている。」

とある。

 屏風にも見しか此繪は秌のくれ  支考

 支考が見たのはおそらく、今日掛幅装で残っている『安徳天皇縁起絵』ではないかと思う。
 寺の庭にあった「薄墨の松」は「日本全国名所巡りの旅」というサイトによると、昭和二十年に戦災で焼失し、今は二代目の松があるという。文和五年(一三五六年)足利尊氏が安徳天皇御廟に参拝し、

 いづくより名をあらはさむ薄墨の
     松もる月の門司の夕暮

と詠んだと言われている。支考の時代は特に足利尊氏には結びつけられていなかったようだ。
 薄墨の松の名の由来が門司関をこの松の木間より見渡したからだと教えてくれた人の名の中に、柳江の名前がある。行きに広島に来た時に尋ねたが会えなかった柳江に、ここに来てやっと会えたようだ。

 薄墨のやつれや松の秌時雨    支考

 松が薄墨のようにかすれているのを秋の時雨のためだとする。
 下関での『西華集』の表八句は以下の通り。流枝が発句で、柳江が脇を付けている。

   下関
 新敷笠は案山子の参宮哉     流枝
   松に日のさす磯の朝月    柳江
 此秋の名残を下の關に居て    支考
   抱て通れば余所の子を見る  蘆畦
 そよめかす菖蒲の風の一しきり  龍水
   畳かへにてさつと吸物    嘯雲
 うつすりと鷹場の雲に成にけり  琴口
   遠寺の鐘に帰る市人     捨砂

 壇の浦を一通り見て回り、少なくとも九月九日の重陽までは下関に滞在していた。

   重陽
 簑笠にそむきもはてず今日の菊

 簑笠を着て俗世の習慣にそむいてはみても、重陽の節句は世俗の人と同様に祝う。
 芭蕉も最後の重陽は奈良で迎え、重陽に背くかのようにその日大阪へと旅立ったが、それが最後の旅になった。その時の句が日田で獨有に語った、

 菊に出て奈良と難波は宵月夜   芭蕉

の句だった。そんなことも思い出したのであろう。


38,結び
 
 「世情の物に逢て物に感ずる事は、いにしへ猶今にたがふ事なし。我かつ都を出し日より、世の好悪にすゝめられて、その是非にある事二百余日ならん。さるは誰がためにしたしく、誰がためにうとましきや、是を抖擻の鏡とおもはゞ、あだに破草鞋の名はとるまじきに、褒貶一情といふところには、いかで我ちからを得侍らん。菊の隱逸に對して、この心をなげくばかり也。吁此時の風雅のまことあれや。この時の風雅のまことあらざらんや
   元祿戊寅之秋九月九日」

 世間の人が物に対して感じ取ることというのは昔も今も変わりはしない。まあ、これは今の時代でもいえることだが、どんなに時代が変わろうとも世界中どこへ行こうとも、人間は結局人間なんだということだ。
 笑ったり泣いたり繰り返しながら、みんな一生懸命厳しい生存競争の中を生きていて、そこに意味を感じる時もあれば空しさを覚える時もある。
 そして、その苦しみを和らげ、遊ぶことに喜びを見出す。結局人の心は「不易」だということだ。
 人類の進化の過程でも、クロマニヨン人とネアンデルタール人の違いはクロマニヨン人の方がほんの少し後頭葉の退化が見られ、脳の容積が小さいというところにあったという。これによってクロマニヨン人は警戒心が緩み、遊ぶことで仲間との結束を高め、ネアンデルタール人に勝利したという説もある。
 ほんの少し真剣に生きることをやめて遊びを覚えたことで、今の人類は飛躍的な進歩を遂げた。同じような後頭葉の退化はリビアヤマネコが家猫に進化するときのも起きているという。
 如月の初めに今回の旅を思い立ってから七か月、二百余日の間旅を続けてきていろいろな人のお世話になってきた。この旅の記に記されているのは概ね良い人ばかりだが、実際は嫌な目にあうことも多々あったのだろう。
 「さるは誰がためにしたしく、誰がためにうとましきや」と問うに、それは「抖擻(とそう)」、つまり雑念を払うための鏡であり、雑念を払えば親しきも疎きも結局自分の心次第なんだ。
 無駄に草鞋を何足も潰してきたわけではない。毀誉褒貶も結局は同じ人の情から生まれてくるものだ。
 菊の花は「隠逸の花」とも呼ばれる。コトバンクの「精選版 日本国語大辞典「隠逸の花」の解説」に、

 「菊の花。他の草花がしぼんだ頃に咲くさまが、俗世を離れて隠れ住む人のさまに似ているところからいう。
  [補注]「周敦頤‐愛蓮説」に「予謂、菊、花之隠逸者也、牡丹、花之富貴者也、蓮、花之君子者也」とある。」

とある。
 自分が隠逸をせずに旅を続けているのは、旅をすることで様々な人間の感情に触れることで、結局その根底にある情は一つ、風雅の眞(まこと)あるのみだと知ることができるからだ。
 そして最後に読者に問いかける。この『梟日記』に風雅の眞はあっただろうか、風雅の眞はなかったのだろうか。

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