2021年6月15日火曜日

 国の大規模接種が64歳以下でも受けられるようになるというが、住んでる自治体が接種券を出さない限り受けられない。接種券はあくまで自治体の小規模接種スケジュールに合わせて順次発行されるから、当分の間こちらには回ってこないわけで、何の意味もない。これじゃしばらく大規模接種会場は閑古鳥だ。憂き我をさびしがらせよ。
 最初から自治体のスケジュールでしか接種が進まないようにできているところに国はわり込めない。自治体が接種券を渋れば国は何もできない。
 昨日の新聞にAIが作った和歌というのが載っていた。

 み吉野の山ほととぎす長き夜の
     山の都の春をまつかな

 はっきり言って季節感が出鱈目だ。吉野の時鳥はともかくとして、長き夜は秋で、山の都って南北朝時代か。それで春を待つだと、今度は冬になる。雅語を適当につなぎ合わせて作って定型にしただけで、今のAIのレベルはまだこの程度なのか。季語をちゃんと学習させた方が良い。
 もう一首の方の、

 明けてゆく峰の木の葉の梢より
     遥かに続くさ牡鹿の声

 この方が一応和歌っぽくなっている。「梢より続く」が何の比喩なのかわかりにくい。「木の葉の梢」は首切れな感じで「峰の梢の木の葉より」の方が良い。

 明けてゆく峰の梢の木の葉より
     遥か聞くらむさ牡鹿の声

なら、そこそこ形になるのではないか。
 まあ、「中国語の部屋」でここまで作ったのなら上出来といえよう。

 それでは「梟日記」の続き。

35,ふたたび黒崎へ

「廿五日
 此日駕籠にたすけられて、ふたゝび黒崎に歸る。是は水颯・沙明など枕がみになげき申されし、はじめの心ざしをつぐはんとなり。
 駕籠の戸に山まづうれし鵙の聲
   沙明亭
 生て世に菜汁菊の香目に月よ
   水颯亭
 脇息に木兎一羽秌さむし
   一保庵
 何とやら心も髭に老の秌
   右三句は
     病後の吟也。
   帆柱亭
 ひだるさを兒の言の夜さむかな」

 前来た時は病気で寝込んでしまって何もできなかったということで、一度黒崎に戻る。病み上がりで無理をせず、駕籠に乗ったようだ。

 駕籠の戸に山まづうれし鵙の聲  支考

 駕籠に乗ったとはいえ外に出れたのがうれしかったのだろう。黒崎では三十日までのゆっくりとした滞在になる。

   沙明亭
 生て世に菜汁菊の香目に月よ   支考

 とりあえず生きてて良かった。まだ病み上がりで朝飯は菜汁しか食えないが、菊の香に有明の月も見ることができる。

   水颯亭
 脇息に木兎一羽秌さむし     支考

 脇息(けふそく)は肘を置いて寄りかかるための台で、まだ本調子ではないか。庭に一羽のミミズクがやってくる。梟の支考にミミズクが。

   一保庵
 何とやら心も髭に老の秌     支考

 寝込んでる間に無精髭が伸び放題になっていたか。体だけでなく心にも髭が生えたみたいに老いを感じる。支考は寛文五年(一六六五年)生まれで、四十三。当時はとっくに初老と呼ばれる年だった。
 この三句は病後というから、次の一句は前回来た時の病中の吟か。

   帆柱亭
 ひだるさを兒の言の夜さむかな  支考

 「ひだるさ」は空腹のこと。言は「ことは」と読む。

 『西華集』の黒崎での表八句は以下の通り。

   黒崎
 松虫の啼夜は松のにほひ哉    沙明
   何やら稲の白き月影     琴吹
 此秋を良暹法師こまられて    支考
   机の上に状の書さし     雲鈴
 風さはぐ日和あがりの小鳥ども  帆柱
   夜着見せかけるはたご屋の春 水颯
 石部ほど兀た所も華盛り     一保
   どちらむきても青麦の中   柳生


36,ふたたび小倉へ

「三十日
 この日黒崎をわかれて、小倉におもむく。人のわかれ・世の名残は行脚のおどろくべきにはあらねど、今の別のかなしきは、病後のたづきなきこゝろにや侍らん。
 菊𦵒にいつ習ひてや袖の露」

 旅はその場所その場所で別れがあるが、黒崎は長く病に伏せり、小倉の医者も紹介してもらい、その間多くの人が見舞いに来て世話をしてくれた。それだけに別れも辛いものがある。

 菊𦵒にいつ習ひてや袖の露    支考

 「𦵒」は「萩」に同じ。

「九月朔日
 有觜亭にいたる。この亭はみな月のはじめならん、一夜のかりねにわかれ侍しが、行めぐりたる九國のさまもおもひやられて、
 琵琶形にあるきて秌も九月哉
 此家の後に閑居あり。一枝とかいへる額をうちて、こなたには棚つり、へつゐもふたつばかりありて、窻外に山を見わたせば、松の嵐もつとふばかり、中々おかしき住ゐなりしが、病後なを藥をやめがたく、雲鈴にこの所帶をわたして、餅もやき茶も煮つべし。
 藥鍋相手にとるやきりぎりす   雲鈴
 元翠・柳浦など水颯・沙明も又つどひ來て、夜をせめ日をつくす。このあそび三四日ばかりなるべし。
 虎もゐぬ和田酒盛やあきのくれ
   唐辛といふ
     題にあたりて
 鑓持の秌や更行唐がらし」

 有觜亭は六月一日、九州に入った日に一泊し、翌日には大橋(行橋)の元翠亭に向かっている。
 支考の九州での軌跡は、小倉から中津街道で南下し、日田や阿蘇の通って熊本へ至る。ここまでが楽器の琵琶のボディの下の部分で、そこから佐敷までが琵琶のネックの部分になる。そこから長崎は琵琶のマシンヘッドの部分の直角に折れ曲がった部分で、そこから海路で熊本に近い柳川に戻り、北へ行って博多・福岡に出て最後に唐津街道で小倉に戻ってきたから、おおむね楽器の琵琶の形になる。

 琵琶形にあるきて秌も九月哉   支考

 六月一日に始まった旅は九月一日、三か月かけて出発点に戻ってきた。
 有觜亭の裏に閑居のための離れがあって「一枝」という額が掛かっている。ここには棚と厨房用の竈が二つあり、そこの窓から山も見えれば松の嵐の音も聞こえてくる。
 まだ薬を飲み続けていた支考は、雲鈴をそちらに詰めさせて薬だけでなく餅も焼き、唐茶も煮出してもらった。

 藥鍋相手にとるやきりぎりす   雲鈴

 薬を煎じていると、コオロギの声がする。
 大橋からは元翠・柳浦が、黒崎からは水颯・沙明もやってきて、九州での最後の日々を楽しむことになる。

 虎もゐぬ和田酒盛やあきのくれ  支考

 「和田酒盛」はコトバンクの「世界大百科事典 第2版「和田酒盛」の解説」に、

 「幸若舞曲の曲名。作者・成立未詳。上演記録の初見は《言継卿記》天文15年(1546)の条。和田義盛は,相模国山下宿河原(現,神奈川県平塚市山下付近)の長者のもとで,3昼夜に及ぶ酒宴を張った。曾我十郎祐成を想う遊君虎御前は,義盛の再三の招きにも応じない。祐成の諫言もあり,しぶしぶ宴席に出た虎御前は,義盛に招かれて座に連なっていた祐成に思差し(おもいざし)(特に相手をきめて,盃のやりとりをすること)をし,義盛の不興を買い,その場が険悪になった。」

とある。虎御前もいず、秋の暮のようにどこか寂し気な宴ではあるが、精いっぱい楽しもうということか。

   唐辛といふ
     題にあたりて
 鑓持の秌や更行唐がらし     支考

 黒田節にも謡われた日本号という名槍を思い起こしてのものだろう。この時代黒田節があったかどうかはわからないが、貝原益軒の『黒田家臣伝』の逸話が元になっているので、この時代にも広く知られていたと思われる。
 唐辛子の実る姿は天に向かって槍を振り上げる姿にも似ていて天井守(てんじょうまもり)とも呼ばれている。
 酒宴も盛り上がったようだが、表八句もここで巻かれている。

   小倉
 松笠や背中にひとつ菊の花    有觜
   ススキに月のそよぐ雪隠   松深
 野屋敷に米つく秋の夜は更て   支考
   金で寐られぬ僧の下帯    雲鈴
 洗濯に淀の男のいにたがり    不繋
   蕗にかりきをうりありく朝  玉龍
 卯の花にほの字もきかす郭公   松深
   いつもさびしき猿丸のかほ  有觜

「五日
 玄全亭にいたる。是は西鷗老人の高弟になむおはしけるが、師老をまねぎて我病後をも賀せんとなるべし。鷗老人かねて送行の詩を給りしを、此日藥園百詠の感をのべて、かつはこの度の恩をむくひ奉るとや。
 藥園の花にかりねや秌の蝶」

 五日には長いことお世話になった命の恩人でもある西鷗にお礼をということで、高弟の玄全の亭に行く。ここに西鷗をまねくと、西鷗から送行の詩を頂くことになる。十八日に貰った藥園百詠の感想を述べ、支考もまた一句、

 藥園の花にかりねや秌の蝶    支考

 藥園の花は様々な花が咲き乱れる花野で、楽園をも連想させる。そこに仮寝して、これでお別れします。それは初老の秋の蝶のようなものです。

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