2021年6月11日金曜日

 今日はお散歩の方は休み。
 パレスチナは休戦したのにイスラエルの特殊工作部隊によってパレスチナ人が殺害されている。嫌な世の中だ。バイデンのワクチンはパレスチナに届くのだろうか。
 マスコミがオリンピックのネガキャンを続けるのは炎上商法と一緒で、いくらやっても自分たちがスポンサーを下りない限りオリンピックが開催されることを確信しているからだろう。むしろ毎日オリンピックのことをスポーツニュースだけでなく総合ニュースで流すことで、否が応でもオリンピックムードは盛り上がる。
 一年延期されたユーロ2020は観客四分の一で開催されるようだ。コパ・アメリカはもめてるようだが。

 それでは「梟日記」の続き。

 「素行曰、八九軒空で雨降柳哉 といふ句は、そのよそほひはしりぬ。落所たしかならず。西華坊曰、この句に物語あり。去来曰、我も有。坊曰、吾まづあり。木曾塚の舊草にありて、ある人此句をとふ。曰、見難し。この柳は白壁の土蔵の間か、檜皮ぶきのそりより片枝うたれてさし出たるが、八九軒もそらにひろごりて、春雨の降ふらぬけしきならんと申たれば、翁は障子のあなたよりこなたを見おこして、さりや大佛のあたりにて、かゝる柳を見をきたると申されしが、續猿蓑に、春の鳥の畠ほる聲 といふ脇にて、春雨の降ふらぬけしきとは、ましてさだめたる也。去來曰、我はその秌の事なるべし。我別墅におはして、此青柳の句みつあり、いづれかましたらんとありしを、八九軒の柳、さる風情はいづこにか見侍しかと申たれば、そよ大佛のあたりならずや、げにと申、翁もそこなりとてわらひ給へり。」

 これは元禄七年春の興行で、芭蕉、沾圃、馬莧、里圃による四吟歌仙は『続猿蓑』に収録された。沾圃編でそこ原稿を伊賀で支考も見ていたがその後の消息が分からず、この元禄十一年に刊行されてこの旅の途中椎田で支考も目にすることになった。
 支考がこの発句を知ったのも、元禄七年の伊賀でのことだろう。その後支考は芭蕉に付き従い、閏五月十六日に大津へ向かう。この時は乙州亭、曲水亭などあちこち泊まり歩いていて、膳所の無名庵に戻ったかどうかは定かではない。五月二十二日には京に上り落柿舎に行き、「柳小折」の歌仙を巻くことになる。この時のメンバーは芭蕉、洒堂、去来、支考、丈草、惟然の六人だった。
 再び大津へ行くのは六月十五日で、この後しばらく無名庵に滞在する。支考がここでする話もこの時のものであろう。

 八九間空で雨降る柳かな     芭蕉

 この句を卯七は「よそほひ」はわかるが「落所」がわからないという。まあ、言っている意味は分かるが、なにが面白いのかよくわからない、ということか。それでこの句に何か裏話があるのか、と尋ねる。すると去来も支考もあると答える。
 まず支考の話だが、無名庵に滞在した時に、或人が「この柳は白壁の土蔵の間か、檜皮ぶきのそりより片枝うたれてさし出たるが、八九軒もそらにひろごりて、春雨の降ふらぬけしきならん」という。句だけで出てくるイメージではなく、あたかもこの柳を見たことがあるかのような感じで言う。
という脇があったからだろう。これだと畑の中にぽつんと立つ巨大な柳の木だ。
 おそらく関西方面の門人には八九軒の柳と聞いてすぐに思い浮かぶ共通認識があったのだろう。それは奈良東大寺の近くにある柳で、おそらく壁の間から街道にせり出した柳だったのだろう。
 この門人の疑問に答えるかのように、芭蕉は隣の部屋から「さりや大佛のあたりにて、かゝる柳を見をきたる」と言う。あの大仏の辺りにある柳を見たんだろう、と芭蕉もこの柳は知っていた。
 おそらく問題はこの句に、

   八九間空で雨降る柳かな
 春のからすの畠ほる声      沾圃

と脇が付いていたからだろう。
 発句だけ見れば、その奈良の大仏殿の近くの柳で、この柳の下を通り過ぎる八九軒(約十五メートル)の間は雨が降っている柳の糸が雨なのかどっちともつかない「降ふらぬけしき」の句だと、というふうに解する。
 ところが脇が付くと、カラスが畑を掘って鳴いている様子から、実は雨は降ってないというのがはっきりして、八九軒の巨大な柳の枝の糸があたかも雨が降っているかのように見える、という句になる。
 沾圃は江戸の人なので、奈良の柳のことは全く思い浮かばなくて、この脇を付けたのだろう。そして次の撰集が全国で発売されるなら、関西人だけの共通認識ではなく、奈良の柳を知らない全国の人に向けたものでなくてはならないから、芭蕉もこの脇で良しとしたのだろう。そして発句はこの脇のせいで雨はあくまで比喩ということに治定されることになった。
 卯七は長崎の人だから沾圃同様この柳のことは知らない。ただ、都から来る人がこの柳の句のことを話すのを聞いて、何か違和感を感じていたのだろう。
 去来の話は秋というから、このあとまた七月五日に京へ上った時のことだろう。「我別墅」というから場所は落柿舎で、芭蕉は去来に柳の句三句を見せどれが一番良いかと聞く。これは芭蕉が弟子に対してよくやる事で、弟子の力量を試しているとも取れるし、自分の句を他人が見た場合どう映るかを知りたいというのもあったのだろう。
 その中の一つにこの「八九軒」の句があり、去来が、これってどこかで見たことのあるような景色で、奈良の大仏の辺りだったか、というと芭蕉は「そこなり」と言って笑ったという。
 俳諧は「あるある」で、多くの人の共通認識に訴えるともに、その共通認識を生み出し、そこに一定の情を与えることで人々の相互理解を助けるものではある。ただ、その共通認識も地域差があり、「八九軒」の柳で通じる人と通じない人がいるのはやむをえないことだ。芭蕉は通じない人の感性を理解することも大事だとわかっていた。
 俤付けというのも同じで、従来の本説付けではその元ネタを知っている人しか意味が分からない。それを出典を知らなくても意味が通るように、元ネタからある程度独立させて付けることで、元ネタを知らなくてもそれなりにわかるが、知っていればもっと面白いという句になる。
 「八九軒」の句も、大仏の柳を知らなくても面白く、知っていればもっと面白い、という所で落ち着くことになった。それがこの句の「落所」といえよう。
 俳諧は内輪だけで分かり合えればそれでいいというものではない。もっと大きな世界を見なくてはいけない。それを教えてくれる句でもある。

 「されば人の俳諧を見る事、その人の胸中を草鞋はきて二三べんもかけめぐりたらんに、などか見あやまり侍らん。名家高達の人といへど、よきはよくあしきはあしからん。人を見てその人にまどふ事は、世に尻馬にのる人と云べし。西華坊かつて尾城にありし時、そこの人々の物うたがひありて〽金くるゝ小町が手より花の春 〽蓬萊にきかばや伊勢のはつだより 此歳旦ふたつ出して、句ぬししらぬ先の評をきかむといふ。西華坊曰、花の春の句は、二十年骨をりて俳諧をまぎらかしたる句也。初便の句の好惡はいふべからず。蓬萊の五もじ、よのつねならずといふに、人々なをあざむきて、歳旦に蓬萊といふ五文字何かかたからん。西華坊曰人は元日とをくべし。蓬萊にあらざればこの句に形容なしとおもへる。是非との及まじき工夫なり。かゝる風情と風姿をしらんに、俳諧にわたくしなき事さる事なるべし。」

 人の俳諧を見る時は、その句がどうやってできたか胸中を探る必要があるが、えてして人は権威に騙されて、名のある人の句は全部良い句で、その良さがわからないのは自分の至らなさだと思い、さらには作者の思いもよらないような名解釈を思いついたりもする。
 権威のある人の無謬性を信じ、そういう人にも良い句もあれば悪い句もあるのを見ようとしない、そういうのを今でも世間は「尻馬に乗る」という。偉い人が何か言うたびに「そーおーでーすーよー」なんて言っている輩、あなたの身の回りにもいるんじゃないかな。
 そういうわけで、支考がかつて尾張にいた頃、つまり伊勢に来る前ということか、自分の力量を試そうとしてか、

 金くるゝ小町が手より花の春
 蓬萊にきかばや伊勢のはつだより

の歳旦二句を作者名を伏せて評せよという。
 「金くるる」の句は何となく雰囲気でわかるが、歳旦の厳かな感じがなく、金だとか小町だとか世俗の好きそうなきらびやかなものが並んでいる。
 だが、もしこれが芭蕉の句だと言われたら、ここに何か深遠な意味を見出そうと頑張るのではないかと思う。たとえば「金くるる」は「鐘暮る」で入相の鐘に日が暮れて、小町は謡曲『卒塔婆小町』の年老いた小町で、既に死の淵に立った往年の美女に、夕暮れの鐘のわびしさのなか、今年もかろうじて新しい一年を頂ける、そんな目出度さをこの句は言おうとしている、と。こういうのを「故事付け」という。
 まあ、支考は普通に「二十年骨をりて俳諧をまぎらかしたる句」と評する。これはまず素人の句ではない。かなり熟練している。小町が遊女かなんかとすれば、遊郭に入り浸っていて、遊女からも点賃をもらってそうな粋人ということか。
 ネット上の中森康之さん、永田英理さんの「美濃派道統系の『俳諧十論』注釈書・『俳諧十論弁秘抄』〈翻刻と解題〉(一)」には其角の句とある。
 これに対し「蓬莱に」の句はまず、頭の「蓬莱」からして尋常ではない。この言葉を持って来れるだけで凄い、と絶賛する。
 尾張の人は歳旦に蓬莱って普通じゃないと何とか騙そうとするが、試しに「元日にきかばや伊勢のはつだより」と置いてみればわかるという。つまり普通に正月の目出度いものをここに置いても「伊勢」が生きてこない。伊勢の二見ヶ浦の初日は富士山の方から上り、富士山が東の海上にある伝説の神仙郷、蓬莱山に見立てられていたということを考えれば、ここでいう「蓬莱」が単なる蓬莱飾りのことではないというのがわかる。
 たとえ家の蓬莱飾りを見ながら伊勢の初便りを読んだとはいっても、こころは遥か神仙郷に飛んで行く。句の頭からこれほど強いインパクトのある言葉で、しかも伊勢と来れば、もうこれ以外の言葉は考えられない言葉を持ってくる。この作者はただものではない。というかこれができるのは一人しかいないと確信したのだろう。
 もちろんこれは元禄七年の芭蕉の歳旦だ。

 「去來曰、春もなをむかしなるが、先師湖南におはして〽行春を近江の人とおしみける、といおふを、大津の白が評に、行年をあふみの人といはんも、行春を丹波の人といはむも、おなじ事に侍れば、一句くりたるとおぼえ侍と申き。去來、汝はいかにと仰られしを、曰、尚白が言よからず。近江の人とおしみ給ふは、湖水朦朧たるをりふしのすみかなればならし。暮春もし丹波におはさば、本よりこの趣向うかぶまじ。歳暮又近江におはさば、此感なかるべし。風流はをのづからその場にあるものをと申たれば、去來汝は共に風雅をかたるもの也と、殊に感賞にあへりけるが、その場といふ事をしるべき事なり。」

 この話は『去来抄』先師評にもある。ただ、出版されたのは『梟日記』の方が先。
 この話は徳山の所での支考が言っていたことにも通じる。吉野で河豚汁では何でわざわざ吉野へになってしまうように、その土地のイメージというものがある。もちろん吉野で何で河豚汁かというところに、なにか面白い物語とか謂れとかあればいいのだが、それがないならただ読者は首をひねるだけで終わる。
 近江の春というと、『平家物語』の平忠度の場面でも有名な、

 さざなみや志賀の都はあれにしを
     昔ながらの山桜かな
              よみ人しらず(千載集)

の歌もある。

 「問曰、門下の俳諧に下手の名ありや。答曰、なきにしもあらず。先師死後五年にしてはじめてしるべし。そのほどは、そのにほひ殘りて、好悪の名を定がたからん。さしもよき人は見給らめど、吾ともがらはしらず。
 卯七曰、さいふ人の俳諧はいかに。曰、難し。不易有流行あり。不易にくはしきものは、流行に手をはなつ事あやうく、流行にとりひろげたるものは、不易のたへなり處をしらず。誰は流行をしり、彼は不易をしる。おほくはかたつかたつなり。その役者あつまりて、しかして俳諧一芝居といふべし。しからば我が翁の風雅にをける、ふたつのものをつばさにして、天下に獨歩せる人ならんか。吾ともがらいかにしてこの夜光を失へるやと、又かなしみ、又かなしみて夜あけぬ。」

 蕉門に下手な奴はいるかといえば、それはいなくもない。蕉門も裾野が広がれば末端の劣化はしょうがないことだが、今は芭蕉の看板があり、それで何とか持っているが、死後五年、つまりそろそろ芭蕉の威光も薄れて、世間も、こいつ蕉門なんて言ってるけどたいしたことなくないって感じになってくる。
 そういう人の俳諧はどうなるのかというと、支考は不易と流行に二極化すると予測していたようだ。両方合わせて「俳諧一芝居」というが、芭蕉のようにこの両方を兼ね備る人があられないのは厳しい。支考、去来、卯七といった面々もなかなか希望の持てぬまま夜が明けてったようだ。
 許六は去来の不易と流行に分離した俳諧を批判して、もう一度俳諧の流行を取り戻そうとしたが、それほどの広がりもなく、優れた作者も現れなかった。結局俳諧全体が時代遅れになってしまうと、芭蕉の風体の「保存」に走って、不易に偏らざるを得なかったのだ灯。
 惟然は独特な超軽みとでもいう風体で、一度は備前や近江の人たちを巻き込んだが、長くは続かなかった。
 不易化した蕉門の末裔に対し、点取り俳諧の方からの一つのアプローチが川柳点だった。ここに今日まで続く俳句と川柳との分離が確定していった。
 蕪村に関しても、本人は蕉風回帰のつもりだったのかもしれないが、実際は談林から蕉門に至る俳諧の最盛期への回帰といった方が良く、蕪村の句はむしろ大阪談林の方に近かったのではないかと思う。だから子規が蕪村に接近しながら近代俳句を確立していったときに、蕉風はむしろ否定されることとなった。
 ただ、おそらく本当に根本的な問題は、歌舞伎や文楽、様々な草紙本、それに江戸中期になると浮世絵も大衆に人気を博し、娯楽が多様化した中で、才能ある人間が他のジャンルに取られてしまったということではなかったかと思う。
 それは今でも同じだ。俳句や短歌が振るわないのは漫画やアニメやラノベ、漫才、コント、それにゲームやユーチューブなど楽しいことがたくさんあるのに、なんで俳句?になってしまっているわけだ。ある意味、そういう流行についていけないのがマイナーな文芸に流れてしまっているから、俳諧は復活しないわけだ。
 今勢いのある芸人たちが本気で俳諧に取り組んだなら、芭蕉の時代のような俳諧を再現できるかもしれないが、まあ、誰もそれを望んではいないだろうし、その必要もあるまい。今の日本の大衆文化全体が間違いなく芭蕉が切り開いた笑いの世界の上に成り立っているからだ。
 五七五だけが俳諧ではない、俳諧は生き方だというのであれば、今の日本の文化はどれもこれも俳諧なので、筆者は現状に不満はない。ただ、その原点を思い出してほしいだけだ。もし将来日本が消滅し、その文化がことごとく弾圧され葬り去れれることがあった時のために、タイムカプセルだけでも残すことができたらと思う。


22,去来の後賦

  「後賦
    西華坊が禿賦に續て是を後賦と題す。ともに素行が家
    の記念にはのこし侍る。前後赤壁の賦に習うふと也
 十日・八日はたふときちかひありて、ちかき山寺に佛おがまむとて、こゝの遊女どもの月まうでする也。もろこしぶねも入つどふみなとなれば、浦人のけしきさへうちさはぎて、秌風のおりにふれては、葛のはのうらみがほに、いそべの鴈の大ぞらに吹はなされて、そゞろに人をおもひおどろくならん。それがなかにもはかなき世をちぎりわびて、もろともに苔の下になどゝいのりおもへるらん人も有べしと、あらぬこゝろさへ取そへられてかなし。見渡したる人々のをのが國ひゐきに物くらべしあそばんにも、なにはの浦のあしざまにはいかでいひ落し侍らん。ひたすらにあまの子のあさましとのみおもひあなづりて、上がたの商人の手袋ひきたるためしもおほしとかや。かゝる事などはいひわたるべき年のほどにはあらぬを、西華坊にこのながめの賦つくりたりとほのめかされて、終に後の賦のぬしとはなり侍りけり。
 いなづまやどの傾城とかりまくら」

 これは十日の清水寺へ行った時の文章をそのまま「禿賦」とし、それと対になるものとして書かれたもので、蘇東坡の『前赤壁賦』『後赤壁賦』に倣ったものとする。後に許六編『風俗文選』に、「前麿山賦」「後麿山賦」というタイトルで収録されている。「麿山」は「丸山」に同じ。
 「前麿山賦」の方は出だしの部分の「久米のなにがし素行にいざなはれて」が「七月十日」になっただけで、あとはほぼ同じ。「後麿山賦」の方も出だしが「十月八日は」になっている。
 支考の「前麿山賦」と比べて、去来の「後麿山賦」にはいかにも今見てきたというようなリアルな描写がなく、噂話を元に無難にまとめたという感じがする。

 いなづまやどの傾城とかりまくら 去来

の句も、「傾城と仮枕」というテーマから何か取り合わせになるものを探って、「いなづま」と妻を掛ける所からこの季語が選ばれたという感じだ。いなづまは『阿羅野』に、

 いなずまやきのふは東けふは西  其角

の句があり、旅人の昨日は東今日は西の連想を誘う。「興を催し景をさぐる」という去来の得意パターンだ。

  「望江亭
 朝寐にはよしあさがほの北座敷
   北溟亭 病後
 燈籠にならでめでたし生身魂」

 望江・北溟はともに去来の長崎の門人と思われるが、去来・卯七編寶永元年刊『渡鳥集』の「渡鳥集作者」の所に名前がない。北溟は『西華集』の長崎での二つ目の表八句にその名がある。
 望江亭の句はまだ残暑厳しい中、朝寝するには北の座敷が一番いい、という句。
 北溟亭は病後で、長崎のお盆の精霊流しの燈籠にならなくて良かったというものだが、

 ともかくもならでや雪の枯尾花  芭蕉

の句の同竃という感じがしなくもない。

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