いつの間にか旧暦の五月四日になっていた。今日は午後からほんの少し雨が降って、ほんの少し五月雨。
コロナの方も沖縄もピークアウトしたし、新規感染者も順調に減り続けている。ワクチン接種も一日百万回ペースに近づいてきている。こうなると日本もそろそろオリンピックモードに入るかな。今まではオリンピックを見たいなんて大っぴらに言えない雰囲気があったけど。
思えばこれまでのオリンピックって、結局仕事はいつも通りの長時間労働で、スポーツニュースで試合結果をチェックするだけだったからね。だから試合内容なんて知るよしもなく、ただメダルの数だけを数えるオリンピックだったけど。今回はステイホームで「おうちで見るオリンピック」が実現できるのではないか。
それでは「梟日記」の続き。もうそろそろ旅の終わりが近づいてきている。
28,博多
「廿四日
博多
此地に甫扇をとぶらふ。この庵は箱崎につゞきて、世の柱ところもつねにはあらぬに、かくてもあるべき所かなと、余所ながらまづおもひやられし。
松原の葛とよまれし住ゐかな」
甫扇は「晡扇」という字で『西華集』にある。表八句の発句、
秋風の渡る葉かけや瓜の皺 晡扇
や、また、
目一はい正月したる野梅かな 晡扇
菅笠の推も簸習ふ山路かな 同
の句がある。前年の元禄十年には『染川集』を編纂している。甫扇、晡扇、哺扇、哺川は同一人物で、昔の人がいかに漢字に頓着しなかったかが分かる。
『梟日記』でも『西華集』でも博多と福岡は区別されている。この二つの区別はあいまいなところも多いが、少なくとも支考が来た時にははっきりした区別があったものと思われる。ウィキペディアの博多の所には、
「狭義として、戦国時代には自治都市、江戸時代には町人の町として扱われた領域を限定して博多と呼ぶことがある。地理的には博多区北西部の那珂川と御笠川に挟まれた区域である。」
とあり、
「博多部に対して、那珂川以西の旧城下町を福岡部(ふくおかぶ)とし、この両者を総称して福博(ふくはく)と呼ぶことにより、博多部の独自性に配慮して福岡市中心部を表現することがある。」
とあるところから、支考も那珂川以東を博多、那珂川以西を福岡と認識していたのではないかと思う。
甫扇の庵がこの地区にあったとすれば御笠川のむこうはすぐ筥崎宮になる。
松原の葛とよまれし住ゐかな 支考
箱崎の筥崎宮周辺には箱崎松原という地名も残っていて、かつて筥崎宮は松原に囲まれていたのだろう。三笠川の西側も松原が続いていて甫扇の庵の所まで広がり、甫扇の庵はその箱崎の松原にかかる葛のようなものだと晡扇が自称していたのだろう。
「廿五日
此日一知亭にまねかる。むかし大貳ノ高遠この地にきたりて菊の歌よみけん錬酒は、今の俳諧なるを。
ねり酒にやぶ入せばや菊の宿」
一知は『西華集』に、
河骨の花に夕日や水の泡 一知
落栗に追付かたし下り坂 同
の句がある。
大貳ノ高遠は藤原高遠でウィキペディアに、
「藤原 高遠(ふじわら の たかとお)は、平安時代中期の公卿・歌人。藤原北家小野宮流、参議・藤原斉敏の子。官位は正三位・大宰大弐。中古三十六歌仙の一人。」
「寛弘元年(1004年)大宰大弐に任ぜられ九州に下り、翌寛弘2年(1005年)には任国へ下向した労により正三位に叙せられる。寛弘6年(1009年)筑前守・藤原文信に訴えられ、大宰大弐の職を停められて帰洛。」
とある。「菊の歌よみけん錬酒」は不明。今の博多練酒は室町中期のものだといい、特に太宰大貳高遠に結び付けられているものではない。日文研のデータベースの作者検索でも太宰大貳高遠の名前がなかった。
ねり酒にやぶ入せばや菊の宿 支考
今となっては意味不明の句となってしまった。
「廿六日
此日昌尚亭にまねかる。此あるじは落柿舎の去來いとこになむおはせば、そのこゝろをおもひ出侍りて、
さびしさの嵯峨より出たる熟柿哉」
昌尚は去来・卯七編の寶永元年刊『渡鳥集』に、
乗懸の見廻し寒しつるの聲 昌尚
の句がある。
さびしさの嵯峨より出たる熟柿哉 支考
嵯峨の落柿舎去来の従弟でありながら、長崎の卯七や素行の周辺のにぎわににくらべて、博多の昌尚はさびしげだ。
この間のものと思われる『西華集』の表八句二つ。晡扇、一知、昌尚の名前もある。
博多
朝顔に留守をさせてや鉢ひらき 舎鷗
夜雨に月の残る深草 昌尚
鶉にも何にもならぬ恋をして 支考
うきを身につむ奉公の金 雲鈴
菖蒲湯に明日の節句をささめかし 正風
約束したる物とりに来る 一知
じだらくに人の傘指まはり 一風
團子であそぶ庚申の宵 和水
仝
秋風の渡る葉かけや瓜の皺 晡扇
雀ちらはふ里の粟稗 舎六
朝月に愛宕のお札くばらせて 支考
降なともいふ照なともいふ 自笑
板に挽く堤の松を伐たをし 東有
旅せぬ人の村でとし寄 自來
此夏を暮しかねたる身のふとり 萬袋
夜のふくるほどはてぬさかもり 雲鈴
29,福岡
「廿七日
福岡
この日片雲堂にいたる。堂上に眸をさけば、箱崎の松原は東につらなりて、唐泊野古の浦浪もこゝもとちかくうちよせて、もみぢやまの玉がき西にかゞやきたり。さればこのところ、むかしはもろこしぶねも入つどひたりときけば、今の長崎のやうにや侍るけん。五里の濱といふ名は、此あたりすべて一觀の中なるべし。
もろこしの菊の花さく五里の濱
城外の鐘きこゆらんもみぢやま
今宵は一日の俳諧に草臥て、宵寐の宿からんといふに、梅川のあるじぞ心ありける。その夜は殊に雨晴て風もひやゝかに、浪の音も障子のあなたなれば、早秋の苦熱も一夜にわすれぬべし。
夜着の香もうれしき秌の宵寐哉」
那珂川を渡れば福岡になる。片雲堂はどういうお堂なのか、ここに登れば東に箱崎の松原が連なり、博多港が見える。かつては中国との貿易で栄えた港も、この時代は海外との貿易はなくなり、国内の廻船が立ち寄る場所になっていた。
「もみぢやまの玉がき」は紅葉八幡宮で、ウィキペディアに、
「江戸時代には、橋本村で生まれ育った福岡3代藩主・黒田光之の産土神として橋本の八幡宮は藩より格別の崇敬を受けた。寛文6年(1666年)8月、橋本村より西新百松原の地へ遷宮し社殿の造営し藩内有数の大社となった。」
とある。
五里の浜は今は埋め立てでなくなったのだろうか。
もろこしの菊の花さく五里の濱 支考
菊は「キク」が音読みで訓読みがないように、元々外来の花だった。栽培種の菊は唐の時代に盛んになったもので、もともと菊は唐(もろこし)のものだったといえよう。皇室の菊の紋章も鎌倉時代の後鳥羽上皇の頃からだという。
城外の鐘きこゆらんもみぢやま 支考
福岡には黒田藩の福岡城があったが天守閣はなかった。片雲堂から眺めた時も、福岡城よりもきらびやかな紅葉八幡宮の方が目に留まったのだろう。
この日は俳諧興行があったのか、『西華集』には表八句が二つ記されている。
福岡
一寐入して面白し秋の蚊帳 東背
南に月のさし廻る窓 酉水
竹伐によし野の嵐吹あれて 支考
さびしき人の見えわたりけり 桂舟
膳組はひしほの煎物柿鱠 稱求
いつの用にか手鑓かけ置 雲鈴
照あかる里ははたはた麥ほこり 野芋
ちいさい宮の松二三本 元水
仝
三日月もとぼしたらずや道一里 素計
風吹すかす早稲の畔刈 連山
盆に出る村の乞食か綾をりて 支考
果ては泣あふ子どもいさかひ 雲鈴
鶏の追あけらるる屋根のうへ 江立
道具に雪のかかる煤はき 梅川
何時かしれぬ日和の終暮て 不及
鹽した魚に猫の気づかひ 唐春
梅川の主の句は二番目の六句目にある。博多のメンバーと被ってないところを見ると、近いけどやはり博多と福岡は別だったのだろう。
梅川亭は海に近かったか、夜は海から涼しい風が吹いてきて、しばし残暑を忘れることとなった。
夜着の香もうれしき秌の宵寐哉 支考
「廿八日
此前日洛の助叟きたる。共に和風のぬしにまねかれて市中の別墅にいたる。この日の殘暑たえがたきに暮に歸る。道すがらの江村の暮色よのつねならぬに、礒山に夕日のかゝりたるけしきを、
山は秌夕日の雲ややすあふき 助叟
鮠釣
はぜ釣や角前髪の上手がほ 支考
この前髪はあな一の時はにくけれど、一藝
に名あれば世に又捨がたし。
今宵菊虎亭にまねかる。亭前に手燭をかゝぐるに、蘇鐵ありて、白妙をしきわたしたる庭ひろし。
爐次下駄に雪の音あり萩の露」
助叟は『西華集』に「長崎文通」とあって、
五月雨の雲の一重や宵の星 助叟
山畑の崩て寒し松の秋 同
の二句が載っている。長崎にいた頃から連絡を取っていて、福岡で落ち合ったのだろう。
助叟というと元禄九年には桃隣の「舞都遲登理」の旅にフルで同行している旅人だ。
和風はよくわからないが、市中の別墅に行き、片雲堂に帰ったのだろうか。途中海辺を通り、瀟湘八景の「漁村夕照」や「遠浦帰帆」を思わせるような風景を見ている。
山は秌夕日の雲ややすあふき 助叟
雲に放射状の光が射し、扇のように見えたのだろう。今でいう旭日旗、いや夕日だから落日旗(連合軍の旗)か。
鮠釣
はぜ釣や角前髪の上手がほ 支考
この前髪はあな一の時はにくけれど、一藝
に名あれば世に又捨がたし。
「鮠」は今は「ハヤ」だが、昔はこれで「ハゼ」と読んだか。
「角前髪(すみまえがみ)」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「角前髪」の解説」に、
「① 江戸時代、一四歳になった少年が前髪を立てておきながら、額のはえぎわ通りに髪を剃り、額を角ばらせた髪がた。また、そのような髪がたをした少年。すんま。半元服(はんげんぷく)。すみがみ。
※浮世草子・本朝二十不孝(1686)四「万太郎も十六に成て角前髪(スミマヘカミ)の采体(とりなり)も是をうらやみぬ」
とある。「角入髪(すみいれがみ)」ともいう。貞享三年の「冬景や」の巻二十五句目に、
水仙ひらけ納豆きる音
片里の庄屋のむすこ角入て 濁子
の句がある。
この前髪の「あな一」の時は憎いというのは「穴一」という遊びの時のことか。コトバンクの「精選版 日本国語大辞典「穴一」の解説」に、
「〘名〙 子供の遊びの一種。直径一〇センチメートルくらいの穴を掘り、その前一メートルほどの所に一線を引き、そこに立ってムクロジ、ゼゼガイ、小石、木の実などを投げる。穴に入った方が勝ちとなるが、一つでも入らないのがあったら、他のムクロジ、ゼゼガイなどをぶつけて、当てたほうが勝ちとなる。銭、穴一銭を用いるようになって、大人のばくちに近くなった。後には、地面に一メートル程の間を置いて二線を引き、一線上にゼゼガイなどをいくつか置いて他の一線の外からゼゼガイなど一つを投げて当たったほうを勝ちとする遊びをいうようになった(随筆・守貞漫稿(1837‐53))。あなうち。
※俳諧・天満千句(1676)二「高札書て入捨にして〈利方〉 穴一の一文勝負なりとても〈直成〉」
とある。きっと支考はこれが苦手で年長の角前髪にそうとう巻き上げられたのではないか。ハゼ釣り上げたときの角前髪のドヤ顔に、そんなことも思い出したのだろう。
宵には菊虎亭に招かれた。白砂を敷き詰めた綺麗な庭に一句。
爐次下駄に雪の音あり萩の露 支考
30,極楽寺
「廿九日
この日極樂寺にいたる。このほどは世情の捨がたき中にたゞよひて、風月の高情も身をくるしむるわざとやなりなむ。さるを野芋の何がしにたすけられて、人間半日の閑を得るに似たり。極樂の二字何かうたがひ侍らん。
寺は我古巢なりけり椶櫚の秌」
極楽寺は「お寺めぐりの友」というサイトによれば、
「当時(元禄元年1688~宝永6年1709)は「鍛治町の東」にあり、このためこの町は「極楽寺町ごくらくじのちょう」と言われていた。」
とある。今の天神四丁目の辺りだという。今は南区若久にある。
寺は我古巢なりけり椶櫚の秌 支考
支考はコトバンクの「日本大百科全書(ニッポニカ)「支考」の解説」に、「幼時、郷里の禅寺に入ったが、19歳で下山して遊歴」とある。お寺育ちなのでお寺は故郷のようなものだったのだろう。椶櫚(しゅろ)は初夏に黄色い大きな花が咲き、秋には実をつける。漢方薬に用いる。
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