2021年5月31日月曜日

 だいぶ新規感染者数が減ってきたので、久しぶりに散歩に出た。暑いので早朝に近所を歩いた。イソヒヨドリだと思ってたのは違ってて、ガビチョウという外来種らしい。峨眉山の鳥だと思ったら「画眉鳥」で眉を描いたような鳥だからだという。姿は見えなかったが。タチアオイの花が見ごろだった。
 今朝の新聞にオリンピックについての世論調査が載っていたが、「中止もやむを得ない」と「再延期もやむをえない」という項目はあったが、「断固中止すべきである」という項目はなかった。これでは調査する意味がない。
 「中止もやむを得ない」と「再延期もやむをえない」を合わせて62パーセントだが、これはオリンピック開催に反対する人が6割もいるということではない。
 ここにはオリンピック開催には本当は大賛成だがコロナが再び猛威を振るえば中止もやむを得ないという人も含まれているし、誘致の段階からオリンピック開催には絶対に反対だったという人も含まれている。その比率がはっきりしない以上、この調査からは何の判断もできない。すくなくともオリンピック開催に反対が62パーセントということにはならない。
 おそらく本当の反対派は15パーセント程度、賛成だがやむを得ないが47パーセントくらいではないかと思う。そして、この47パーセントは実際ににオリンピックが開催されれば喜ぶと思う。
 最近の世論調査は万事この調子で、論点をわざと隠して、少数意見があたかも多数であるかのように印象操作し、サイレントマジョリティーの声を抹殺している。モリカケの時もそうだった。
 そういえば海外の文化人のコメントってパヨクが教えた通りのことを言うから笑える。まあ、こういう人たちって、日本に来てもパヨクの案内でパヨクの説明を聞くだけだから、いつまでたっても同じことを言っている。日本に芭蕉のことを学びに来る人も、みんなそうなんだろうな。まあ西洋の文学論の鸚鵡返しだから、外人には耳当たりがいいんだろう。
 まあ、そういう人たちにすれば日本は永遠の謎だね。まあ「秘すれば花」ともいうけど。

 それでは「梟日記」の続き。

17,岩国、柱野

「廿五日
   周防國
 この日岩國の續橋を見て、柱野といふ所に宿す。此處を旅立出るに、雨もそぼふりてこゝろぼそき山中なりしが、田舍座頭の琵琶負ふたるさまをはじめて見侍りて、
 ほとゝぎすむかしなつかし琵琶法師」

 ふたたび山陽道の陸路を岩国に向かう。宮島を出て玖波宿から苦の坂の峠を越えると小瀬川に沿って進む。ここをさらに直線的に進み小瀬峠を越えると岩国城のあった所に出る。ただ岩国城は元和元年(一六一五年)に廃城になり、陣屋があるのみだった。
 その南東の錦川に架かる続橋は錦帯橋の名前で今でも有名だ。延宝元年に最初のものが建造され、以後約二十年ごとに掛け替えが行われているという。最初の架け替えが元禄十二年(一六九九年)なので、支考が見たのは初代の橋になる。
 続橋を見てふたたび山陽道に戻り、岩国城址の西側で錦川を渡り、御庄川に沿って行くと柱野に着く。山の中の間宿であろう。
 ここで座頭の琵琶法師に出会う。おそらく古浄瑠璃を語る琵琶法師は延宝の頃にはまだ多少は残っていたのだろう。その頃でも琵琶ではなく三味線を持つようになってたようだが、その後急速に琵琶法師は廃れていったため、寛文生まれの支考には初めて見るものだったのだろう。
 芭蕉は元禄二年の『奥の細道』の旅の時、末の松山で奥浄瑠璃を語る琵琶法師に遭遇している。それからも九年後のことだ。
 支考が竹原で詠んだ、

   箸も一度に切麦の音
 あたまはるまねに座頭のにつとして 支考

の第三も、古い世代の人だったら按摩ではなく琵琶法師の方を想像したかもしれない。
 ここで一句。

 ほとゝぎすむかしなつかし琵琶法師 支考


18,徳山

「廿六日
   德山
 雲鈴曰、今宵此所發句ありや。予曰、なからん。德山とは夏の名にあらず。先師むかし出羽の國を過たまひて、
 あつみ山や吹浦かけて夕すゞみ
 此句は吹浦の二字うれしければかく申され侍しを、此ごろなにがしが集には、福浦かけてと出し侍り。是俳諧をしらぬのみにあらず。先師をあやまるにちかし。鈴曰、しからば福浦・德山の類は發句あるまじきや。予曰、季節の相應あるべし。福浦は正月とおもひよせて、万歳・鳥追の類にあるべく、德山は冬きたりて炭賣・柴賣の類にあるべし。このごろの俳諧の撰集に、先師のこゝろにもあらぬ發句を書ならべ、天地にたがひたる句意を集の題號にとりつけたるなど、その場しらぬ人のあやまりたる也。むかしある人、さのゝ渡にほとゝぎすの哥よまれしを、さる事あるまじと人の難じ給ひしとかや。げにさのゝわたりといへば、空晴て寒きやうにおもはるゝかし。いにしへより哥の名所に、そこに是はいはず、こゝにそれはよませじなどいへば、あら氣づまりの哥道や、たゞ俳諧せむといふ人あり。さるは俳諧の仲間にも得あるまじき人なり。かゝる事はその道々の宗匠の格式をたてゝ、無理を云やうにおもふらめど、その場その場の物のかなへる本情は、何の俳諧に無法あらん。富士參に雪隱を案じ、芳野ゝ奥に鰒汁の相談をして、是はめづらしき名所のよせ物などいへるは、世の雜談俚語といふべし。それは鴫たつ澤の夕おかしく、田子の浦のあさ日はなやかならんといふ、その場をしらぬ人なるべし。されば珍しき事あたらしき事をこのむは、人の世の中に何かおもしろからんと、たくみありく遊人のたぐひなるべし。面白事に面白事をかさぬれば、それもおもしろからず、是もおもしろからず。はては金殿樓閣にもあきて、その果は世の中も飽ぬるかし。是風雅の淋しきより、にぎはしき方を見やるべき世にある人の心なるが、まして行脚漂流の身のその場といふをしらねば、たゞ放言の遊人なりと先師も遺誠申されしが、俳諧ならでもたふとむべき事也。先師又いへる、名所に對して當季をむすび、その場を案ずるには、文字の數たらひがたからん。名所などは雜の句などは殊さら名人の手段なるべし。
   佐野礒田
 またぐらに山見る礒の田植かな
   黒髪山
 早乙女や黒髪やまを笠のかせ」

 山陽道の柱野を出て高森宿を過ぎると、次は徳山宿になる。ほぼ新幹線に沿うような道筋になる。
 その徳山だが、徳山市は今はない。平成の大合併で新南陽市、熊毛町、鹿野町と合わせて周南市になった。
 徳山は特に歌枕があるわけでもないし、源平合戦の史跡もない。こういう所での発句は難しい。これはたとえば戦後の歌謡曲でご当地ソングというのがあるが、徳山はそういう意味でも作りにくい場所だろう。徳山周辺の観光スポットをネットで調べても、出てくるのは錦帯橋や岩国城になってしまう。町おこしをするにもきっと苦労しているに違いない。周南市を「しゅうニャン市」にして猫の街にしようとかいうのがあるみたいだが。
 歌枕を読むときにわりかしよくあるのは、地名に掛けて詠むやりかたで、芭蕉が今の山形県の酒田に来た時にも、酒田も特に歌枕ではないし、夏に詠むのにちょうどいい名物もなかったが、たまたま「あつみ山」と「吹浦」という地名を見つけ、

 あつみ山や吹浦かけて夕すゞみ  芭蕉

の句を作った。単独では何の変哲もない地名でも、二つ組み合わせると暑い所に風が吹いて、「夕涼み」という季題で結ぶことができる。
 芭蕉の吹浦は風が吹くに掛けて吹浦だから意味があるので、これを福浦と表記してしまったのでは何の意味もない。
 徳山でも何かそういうのができればいいが、支考は何も思い浮かばなかったようだ。
 「福浦は正月とおもひよせて」というのは、「福」に掛けてのことで、「德山は冬きたりて炭賣・柴賣の類にあるべし」というから、当時は炭や薪のイメージがあったのか。まあ、この支考の予言は当たってなくもない。近代に入って一時期練炭の町になった。
 歌枕の句はその場にふさわしいものを詠むもので、「富士參に雪隱を案じ」は付け句であれば問題はないが、発句のネタではない。シモの発句が許されるのは尿前の関くらいだろう。
 付け句の場合はたとえば『ひさご』の「鐵砲の」の巻二十八句目に、

   から風の大岡寺繩手吹透し
 蟲のこはるに用叶へたき     乙州

の句がある。「太岡寺畷(だいこうじなわて)」は東海道の亀山宿と関宿の間にある鈴鹿川に沿った十八丁(約3.5キロ)にわたる土手の道で、風の通りも良い。それに、腹の虫のせいで腹がこわばって痛むので用を足したい。ただ見通しの良い縄手道では野グソというわけにもいかない。十八丁の道を我慢しなくては、と付ける。これなどは伊勢参りに雪隠を案じの例になる。
 「芳野ゝ奥に鰒汁」もまあ、何しにそんなところまで河豚汁をで、要するに必然性がない。下関の河豚なら普通だが。
 こういうのを窮屈と思うかもしれないが、たとえば「吉野慕情」みたいな吉野のご当地ソングを作る時に「河豚汁が旨い」なんてやるだろうか。ネタにしてもそれを面白く聞かせるのは難しいと思う。同人誌で細々とやっている文学者ならともかく、業界の人のやる事ではない。
 名所の句といっても一番良い時期に旅をできるとは限らないので、芭蕉も松島では満足のいく句は詠めなかった。

 島々や千々に砕きて夏の海    芭蕉

の句があるが、死後に発見されたということは、名所の句として発表するだけのレベルではないと思っていたのだろう。『奥の細道』に掲載された、

 松島や鶴に身をかれほととぎす  曾良

の句は、本来松島にふさわしい「鶴」を「鶴に身をかれ」ということで夏に登場させることに成功している。こちらの句の方が勝っていると判断したのだろう。
 ただ、支考の論がちょっとずれているとすれば、こうした紋切り型の定番を求めるのはむしろ世俗の方で、「世の雜談俚語」の方がそれを求めているということだ。それにうまく合った句を詠むことで良く流行することになる。
 たとえば、木更津でドラマを作ろうとしたら、まずみんなが思い浮かべるのは高校野球だろう。それに潮干狩り、證誠寺の狸、中の島大橋であろう。
 逆をいえばわざとそれを外そうとするのは、人とは違うんだという我の強い、アンチな人間であろう。芭蕉亡き後の俳諧は、そういう人が集まってしまったのかもしれない。
 「鴫たつ澤の夕おかしく、田子の浦のあさ日はなやかならん」というのも、行ったことのない人は和歌のイメージで鴫たつ澤は何だか知らないけど哀れなところで、田子の浦は富士山が見えるくらいに思う所だろう。わざと違うことを言う人間というのは、少なからず、俺は人とは違うんだ、という人間だろう。
 この辺りは支考自身がちょっと世間からずれてしまっているのではないかと気になる。
 まあ、世間も様々だから、いわゆる成金趣味の人というのもいる。「はては金殿樓閣にもあきて、その果は世の中も飽ぬるかし。是風雅の淋しきより、にぎはしき方を見やるべき世にある人の心なるが」というのは、元禄期にはそういう成金が多かったというのもあるのだろう。鴫立沢を埋め立ててリゾートホテルを立てようだとか、今でもいそうな感じはするが。
 まあ、実際勘違いする人は今でも多く、下町のうらぶれた風情が外人の間で人気になっているのに、そこにセーヌ川のようなこじゃれたカフェテラスを作れば外人大喜びで、インバウンドわんさか来てがっぽがっぽなんて開発計画が持ち上がったりもする。
 まあ、名所というのは基本的にブランドだから、そのブランドを壊すようなやり方は得策ではない。それと同じで名所の句というのも、世間が求めている名所のイメージというのを大事にしなくてはならない。

   佐野礒田
 またぐらに山見る礒の田植かな  支考
   黒髪山
 早乙女や黒髪やまを笠のかせ   同

 佐野礒田はどこらへんなのかよくわからない。地名の通りに磯の近くに田んぼがあるのだろう。田植をしている人の視点に立てば、股座から山が見える。
 黒髪山は瀬戸内海に浮かぶ黒髪島のことか。田植をしている早乙女の背後に黒髪島が見えれば、黒髪島があたかも巨大な笠のようだ。早乙女の黒髪に掛けて詠む所はお約束といったところか。

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