2021年5月12日水曜日

 今日は旧暦卯月朔日で今日から夏。庚申だけど、今庚申待ちをやる所ってあるのだろうか。イスラム圏ではラマダン明けなのかな。
 イスラエルは日本ではワクチン接種の先進国みたいに賛美され、日本のワクチン接種の遅れを攻撃するのにさんざん利用されてきたが、その一方でパレスチナ人にワクチンを回さなかったことはほとんど報道されてなかった。
 今回の戦闘も、ラマダン最後の金曜日に東エルサレムに集まったパレスチナ人を暴力で追払ったことが発端になっている。イスラエルがコロナ下でワクチン戦略によって圧倒的に優位に立ったのをいいことに、パレスチナ自治区を一気に潰しに出たとしたら大変なことだ。
 話は変わるが、日本人が孤独耐性が強いのは、隠士の伝統もあるのではないかと思う。古代から山に籠って孤独な修行を続ける人や、人との関わりを立って山中に隠棲する人はいくらもいたし、それを和歌や連歌のテーマとしてきた。それが江戸時代になって俳諧の時代になると、市隠という生き方を流行させた。
 一人になるということは、それまで過去の生存の取引に拘束されて生きていた生き方を一度リセットして、新たな生存の取引を行い、生存の取引を不断に更新することにつながる。人間関係がより流動的になり、古い習慣に囚われない新しい社会を作って行くことを可能にする。
 一人になるということは決してマイナスではない。そうやって本当の自分を取り戻し、あらためて社会的関係を再編することで社会は進歩してゆく。隠遁はその機会を与えてくれる。

 さびしさに堪へたる人のまたもあれな
     庵ならべむ冬の山里
             西行法師

 このコロナ下もそういう意味で、一度引き籠ることで人間関係を再編するチャンスをくれるのではないかと思う。
 あと、鈴呂屋書庫に「粟稗の」の巻をアップしたのでよろしく。

 それではそろそろまた『三冊子』の続きで、最後の「くろさうし」を読んでみようと思う。

くろさうし

 「發句の事は行て歸る心の味也。たとへば、山里は萬歳おそし梅の花、といふ類なり。山里は萬歳おそしといひはなして、むめは咲るといふ心のごとくに、行て歸るの心、發句也。山里は萬歳の遲いといふ計のひとへは平句の位なり。先師も發句は取合ものと知るべしと云るよし、ある俳書にも侍る也。題の中より出る事はすくなき也。もし出ても大樣ふるしと也。」(『去来抄・三冊子・旅寝論』潁原退蔵校訂、一九三九、岩波文庫p.135)

 「行きて帰る心」というのは、いわば何かと思わせて最後に落ちをつけるという、その呼吸に近いように思える。

 山里は万歳遅し梅の花       芭蕉

の句は元禄四年正月の句だが、「山里は万歳遅し」がいわば俳諧らしいネタになっていて、それを「梅の花」と結ぶことで落ちというわけではないが、梅の季節を詠んだ発句だということになる。「山里は万歳遅し」と言い放して、それでも心は「梅の花」だということで梅の句になる。
 「山里は万歳遅し」だけだと付け句の位になる。

   赤く咲きたる梅綺麗なり
 山里は万歳遅くやってきて

といったところだろうか。
 この違いは発句道具か付け句道具かの位の議論にも関わってくるのだろう。
 発句は取り合わせものだという「ある俳書」は岩波文庫の『芭蕉俳諧論集』(小宮豊隆、横沢三郎編、一九三九)には、

 「師ノ云、發句はとり合物也。二ッとり合て、よくとりはやすを上手と云也といへり。有難おしへ成べし。(篇突)」(『芭蕉俳諧論集』小宮豊隆、横沢三郎編、一九三九、岩波文庫p.95~96)

とある。許六『俳諧問答』にもあるが、この場合「とり合」と「とりはやす」は同じではない。許六は「とりはやし」の例として、

 「予此ごろ、梅が香の取合に、浅黄椀能とり合もの也と案じ出して、中ノ七文字色々ニをけ共すハらず。
 梅が香や精進なますに浅黄椀    是にてもなし
 梅が香やすへ並べたつあさぎ椀   是にてもなし
 梅が香やどこともなしに浅黄椀   是にてもなし
など色々において見れ共、道具・取合物よくて、発句にならざるハ、是中へ入べき言葉、慥ニ天地の間にある故也。かれ是尋ぬる中に、
 梅が香や客の鼻には浅黄椀
とすへて、此春の梅の句となせり。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.153~154)

というふうに作ってみせている。
 梅の香に浅黄椀は取り合わせだが、取り囃しはそれにさらに「客の鼻には」と付け加える。まあ、句を何か目新しいネタで盛り上げる、面白くする、それを取り囃しと言っていいと思う。正岡子規が「山」と呼んでたものに近いと思う。
 芭蕉の先の句で言えば梅の花に山里が取り合わせで、「万歳遅し」が取り囃しになる。付け句は基本的にこの取り囃しの部分が主となる。
 取り囃しがなくても発句にはなるが、新味のない、古い臭い感じになる。題の中より出る発句が「大樣ふるし」というのはそういうことだ。「山里梅」という題で「山里に今日梅の花咲きにけり」では平凡で面白みがない。「万歳遅し」があって新味のある面白い発句になる。

 「師の云、發句の物、脇の物、第三の物、平句の物と其位ある事也。ことごとにかく云にはあらず、其位を見知るべしといへり。又いはく、季をとり合するに、句のふるびやすき煩有、とありし時も侍る也。門人つねに心得べき詞也。」(『去来抄・三冊子・旅寝論』潁原退蔵校訂、一九三九、岩波文庫p.135)

 許六の『俳諧問答』にも発句道具・平句道具・第三道具の論がある。

 「一、いつぞや、『こんやの窓のしぐれ』と云事をいひて、手染の窓と作例の論あり。略ス。其後二年斗ありて、正秀三ッ物の第三ニ『なの花ニこんやの窓』といふ事を仕たり。此男も、こんやの窓ハ見付たりとおもひて過ぬ。
 予閑ニ発明するに、発句道具・平句道具・第三道具あり。正秀が眼、慥也。
 予こんやの窓ニ血脈ある事ハしれ共、発句の道具と見あやまりたる所あり。正秀、なの花を結びて第三とす。是、平句道具ニして、発句の器なし。こんやの窓に、なの花よし。又暮かかる時雨もよし、初雪もよし。かげろふに、とかげ・蛇もよし。五月雨に、なめくぢり・かたつぶりもよし。かやうに一風づつ味を持て動くものハ、是平句道具也。
 発句の道具ハ一切動かぬもの也。慥ニ決定し置ぬ。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.163~164)

 「道具」という言葉は許六の発明であろう。
 これは特にこの言葉は発句にはいいが脇には良くないとかそういうことではないし、それぞれの使う言葉の一覧を作るような性質のものではない。「ことごとにかく云にはあらず」というのはそういうことで、これは言葉の分類の問題ではない。
 許六『俳諧問答』は正秀が三つ物の第三に「なの花ニこんやの窓」としたのを評価して、紺屋の窓は師の血脈だが発句の道具ではなく、平句の道具で菜の花と組み合わせたことで第三の道具になるということだ。
 紺屋は微妙な問題を含む言葉で、ウィキペディアでは紺屋と非人との関係についてこう触れている。

 「柳田国男の『毛坊主考』によると、昔は藍染めの発色をよくするために人骨を使ったことから、紺屋は墓場を仕事場とする非人と関係を結んでいた。墓場の非人が紺屋を営んでいたという中世の記録もあり、そのため西日本では差別視されることもあったが、東日本では信州の一部を除いてそのようなことはなかった。山梨の紺屋を先祖に持つ中沢新一は実際京都で差別的な対応に出くわして初めてそのことを知らされたという。」

 貞享五年春の「何の木の」の巻十八句目に、

   もる月を賤き母の窓に見て
 藍にしみ付指かくすらん     芭蕉

の句があり、藍染をする紺屋を詠んだものだが、前句の「賤き母」を受けて展開する所には、紺屋が被差別民だということを知っててのことと思われる。ちなみに前句に「窓」の字もあるから、紺屋の窓が師の血脈だというのはこの前例によるものだろう。
 芭蕉は被差別民の生活をリアルの描写した付け句をしばしば詠んでいるが、発句でテーマとすることは少ない。このあたりが発句の物、付け句の物の漠然とした境界になっているのだろう。ちなみに越人は紺屋だったという。コトバンクの「美術人名辞典の解説」に、

 「江戸中期の俳人。北越後生。通称は十蔵(重蔵)、別号に負山子・槿花翁。名古屋に出て岡田野水の世話で紺屋を営み、坪井杜国・山本荷兮と交わる。松尾芭蕉の『更科紀行』の旅に同行し、宝井其角・服部嵐雪・杉山杉風・山口素堂と親交した。『不猫蛇』を著し、各務支考・沢露川と論争した。蕉門十哲の一人。享保21年(1736)歿、80才位。」

とある。芭蕉や其角のような身分を全然気にしない人もいたが、そういう人ばかりでもないということを、当時の俳壇を見る時に記憶にとどめておく必要があるかもしれない。路通についてもその疑いがある。
 元禄三年十二月の「半日は」の巻十三句目の、

   右も左も荊蕀咲けり
 洗濯にやとはれありく賤が業   乙州

も同じ関連で、京都では紺屋が洗濯屋も兼ねていたため、「賤が業」になっている。
 漠然と発句では好まれないが付け句ではオーケーという題材はいくつかあったのだろう。
 許六の論は「菜の花」だと第三にふさわしいが、自身は「時雨」と組み合わせて発句道具にならないかを思案したのではないかと思う。菜の花は田舎へ行けばどこにでもある花で古典に好まれた花ではない。ただ賤の情景を美しく飾る力はある。「時雨」は古歌にも詠まれてきたさらに格の高い発句道具になる。
 発句道具という考え方は、俳諧が和歌より出でて雅語の伝統につながる一つの生命線だったのかもしれない。

 「又いはく、人の方に行に、發句心に持行事あり。趣向、季のとり合障りなき事を考べし。句作りはのこすべし。孕句出たるは出る品うるはしからずと也。」(『去来抄・三冊子・旅寝論』潁原退蔵校訂、一九三九、岩波文庫p.135)

 「孕句(はらみく)」は前もって作っておいた句で、興行の際の発句は前もって作っておくことが多い。脇を亭主が詠む場合は、興行の主催者である亭主が上手く付けられなくて恥をかかないようにという配慮からか、事前に発句を渡して置き、興行開始までに十分な時間を与える。そのため脇も事前に用意されることになる。
 ただ、発句は本来当座の天気やメンバーなどを見て即興で詠むもので、孕句は極力しない方がいい。
 発句を事前に用意しないまでも、興行の席に向かう途中である程度心の中にこれを詠もうと決めて行くことはある。
 その場合は実際当座になってふさわしくないということのないように、天気が急変してもいいように天候の言葉を入れないようにしたり、興行場所の周囲が家が立て込んでいるか一軒家なのかわからない場合は、どちらでも大丈夫なように作るという配慮は必要だ。
 「趣向、季のとり合障りなき」というのは、多少想定外の状況になっても対応できるような、どこでも使えるような句にということだと思う。
 「句作りはのこすべし」というのは大まかなところだけ決めておいて、細かい句作りは当座に取っておいた方がいいということだろう。

 「としの松、年の何、などゝ近年は歳旦に用る事あり。いかゞとたづね侍れば、師のいはく、達人のわざにあらず、論に不及と也。
 去年今年春季也。當年といふ事も季に心をなさば成べしと也。」(『去来抄・三冊子・旅寝論』潁原退蔵校訂、一九三九、岩波文庫p.136)

 何でも「年の」を付ければ歳旦になるということで、特に歳旦三つ物などに多用されたのだろう。歳旦の句を毎年作らなくてはならないとなると、ネタ切れになるのはいたしかたない。そんな苦肉の策なら否定するのも忍びないし、だからと言って積極的に勧める気もない。そういう意味での「論に不及」なのであろう。
 「去年今年」も歳旦の言葉であまり用いられてはいないが重頼の『毛吹草』(正保元年刊)にあるという。

 「師のいはく、手のうちに蟬をにぎりて鳴する事を、宜ものと句にしばらくとりなやみ侍る也。古みをとらんとせしと、おそろしきものにあひたるやうに語出られし也。」(『去来抄・三冊子・旅寝論』潁原退蔵校訂、一九三九、岩波文庫p.136)

 この部分だけは独立していて前後の文脈とあまり関係ないように思える。
 手のうちに蝉を握って鳴かすというのは、子供とかが蝉を捕まえた時に手の中で蝉がジージー音を立てている状態なのか、それとも落ちている蝉をつかんだらまだ生きていて、手の中で鳴いたということなのか。
 蝉は和歌では恋の情と結びつけられてきたから、手の中の蝉の鳴く声を囚われの遊女の嘆きにしようとしたのか、これだけでは何を意図したかわからない。ただ「宜(よろしき)ものと句にしばらくとりなやみ」とあり、発句にしようとしたのであろう。「古みをとらんと」とあるから蕉風確立期の古典回帰の頃かもしれない。結局「軽み」に移る中で没になったのだろう。
 余談だが近代短歌に、

 鳴く蝉を手握りもちてその頭
     をりをり見つつ童走せ来る
              窪田空穂

の歌がネットで検索したらヒットした。芭蕉だったらどう詠んだか、聞きたかったな。

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