ゴールデンウィークが終わった。都心は人が減ったがその分地方へコロナが拡散された可能性がある。そしてこれから都心に人が戻ってくる。自分にできることといえば、こうして引き籠っていることだけだ。
コロナが収束したら何しようかなんて言うと、何かフラグ立てているみたいだな。
鈴呂屋書庫の方に「いろいろの」の巻、「疇道や」の巻、「亀の甲」の巻と越人の序を付けて、「『ひさご』を読む」をアップしたのでよろしく。
それでは「何の木の」の巻の続き。
十三句目
碁に肱つきて涙落しつ
いねがてに酒さへならず物おもひ の人
「の人(ひと)」は野人、野仁という字も充てる杜国の別号。まあ、今でいうなら裏垢といったところか。不運な事件から尾張国を追放されていたので、野に下った人という意味でつけたか。
「いねがて」は眠れなくてということ。眠れないうえに酒も飲めず碁盤で過去の棋譜を並べながら悶々としている。大きな試合に負けた棋士だろう。
十四句目
いねがてに酒さへならず物おもひ
陣のかり屋に僧の籠りて 益光
前句の「酒さへならず」を僧だからだとした。陣中に招かれた僧は酒飲んで高鼾で寝ている武士たちの中で肩身が狭そうだ。芭蕉も杜国の鼾に苦しめられたようだが。
十五句目
陣のかり屋に僧の籠りて
白雲にのぼれと雁を放らし 清里
放生会(はうじゃうゑ)であろう。コトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」に、
「〘名〙 仏語。供養のために、捕らえた魚や鳥などの生物を池や野に放してやる法会。日本では、天武天皇五年(六七六)に諸国に行なわせたともいうが、養老四年(七二〇)宇佐八幡宮で行なわれたのが初例らしい。後に、陰暦八月一五日に八幡宮の神事として行なわれるに至った。特に石清水八幡宮の行事が名高い。放生大会。《季・秋》
※扶桑略記(12C初)養老四年九月「合戦之間、多致二殺生一、宜レ修二放生一者、諸国放生会始レ自二此時一矣」
とある。
もっとも、放生会で放つ鳥は結局どこかから捕まえてきたわけだから、鳥の方からすれば迷惑なことだろう。
飛来したばかりの雁を捕まえて放すようなことがあったのかどうかはよくわからない。「らし」とあるから、これは渡ってきた雁は、放生会で放たれたのだろうか、という反語と見た方がいいのだろう。
放生会が行われている一方で、陣中の武士はどこかからか雁を捕まえてきて食っていたりする。
十六句目
白雲にのぼれと雁を放らし
はじめて得たる国の初稲 平庵
放生会のある八月十五日頃は、稲の収穫も始まる頃だった。
十七句目
はじめて得たる国の初稲
もる月を賤き母の窓に見て 又玄
武家奉公の息子が農人の母の元に帰ってきて、という設定だろうか。芭蕉も農人の家に生まれて母の手で育てられて、元服すると武家奉公に出た。農人は自分の田んぼを持ってないいわゆる水飲み百姓で、得たのは自分の稲ではない。
十八句目
もる月を賤き母の窓に見て
藍にしみ付指かくすらん 芭蕉
賤き母を紺屋とした。ウィキペディアに、
「柳田国男の『毛坊主考』によると、昔は藍染めの発色をよくするために人骨を使ったことから、紺屋は墓場を仕事場とする非人と関係を結んでいた。墓場の非人が紺屋を営んでいたという中世の記録もあり、そのため西日本では差別視されることもあったが、東日本では信州の一部を除いてそのようなことはなかった。山梨の紺屋を先祖に持つ中沢新一は実際京都で差別的な対応に出くわして初めてそのことを知らされたという。」
とある。
二表。
十九句目。
藍にしみ付指かくすらん
神役に雇来ぬる注連縄の内 益光
「注連縄」はここでは「しめ」と読む。「雇」は「やとはれ」。
神役(しんやく)は神主さんのことだが、ここでは意味としては「かみやく」でコトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」の、
「② 神事に当たっての司祭者。当番制で祭りの世話をする役目。当屋(とうや)。一年神主。
※浮世草子・男色大鑑(1687)四「当社西の御門に紙伇(ヤク)の家高き。大中井兵部太夫一子に大蔵といへるあり」
とある。
紺屋であることがばれないように指を隠す。
二十句目。
神役に雇来ぬる注連縄の内
返歌につまる衣の俤 の人
前句の「神役」を斎宮のこととしたか。野宮で斎宮になる娘に付き添って斎戒生活を送っているというのに、言い寄ってくる男がいたりする。
二十一句目。
返歌につまる衣の俤
恋草と池の菖蒲を折兼て 勝延
恋草はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」に、
「① 恋心のつのることを草の茂るのにたとえた語。
※万葉(8C後)四・六九四「恋草(こひぐさ)を力車に七車積みて恋ふらくわが心から」
② 恋愛。恋愛ざた。また、恋人。〔日葡辞書(1603‐04)〕
※浮世草子・傾城色三味線(1701)湊「都の恋草に御身のかくし所もなく」
とある。
菖蒲(あやめ)というと、
郭公なくや五月のあやめぐさ
あやめも知らぬ戀もするかな
よみ人しらず(古今集)
の歌を始めとして、古来恋に詠まれてきた。
男がこの菖蒲に掛けて歌を詠んできたのだろう。その菖蒲を使ってうまく誘いをしりぞけなくてはいけなのだが、うまい言葉が思いつかない。
『源氏物語』澪標巻で源氏の君が明石の君に贈った手紙に、
海松や時ぞともなきかげにゐて
何のあやめもいかにわくらん
とあったのに対し、明石の君は、
数ならぬみ島がくれに鳴く鶴を
今日もいかにと訪ふ人ぞなき
と「あやめ」も恋のこともスルーして、子どものことを気にかけてくれと返している。
二十二句目。
恋草と池の菖蒲を折兼て
水鶏を追に起し暁 又玄
菖蒲(あやめ)に水鶏(くいな)というと、
まきのとをたたく水鶏のあけぼのに
人やあやめの軒のうつり香
藤原定家(拾遺愚草)
の歌がある。水鶏の声は戸を叩く音に似ているというので、古来和歌に詠まれている。「日本野鳥の会京都支部」のホームページによると、
「ヒクイナが夜にけたたましく「キョッ、キョッ、キョキョキョキョ…」と鳴く声は、とても戸を叩く音には聞こえません。ところが、野鳥の声の録音の第一人者・松田道生さんが一晩中タイマー録音したところ、早朝に「コッ」とか「クッ」という声を1.5秒間隔で出し続けて鳴いていたそうです。昔の人はその声を「戸を叩く音」に例えていたわけです。」
とのこと。
あやめも知らぬ恋も満たされずに、来ぬ人を待って夜を明かし、コッコッと音がして誰かが戸を叩いたのかと思ったら水鶏だった。それを水鶏を追うために起きたようなものだ、という所に俳諧がある。
二十三句目。
水鶏を追に起し暁
たばこ吸ふ篝の跡の煙たる 平庵
篝火(かがりび)はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」に、
「① =かがり(篝)①
※古今(905‐914)恋一・五二九「かがり火にあらぬわが身のなぞもかく涙の河にうきてもゆらん〈よみ人しらず〉」
※源氏(1001‐14頃)篝火「御まへのかがり火の、すこし消えがたなるを」
② 「やりて(遣手)」の異称。
※随筆・当世武野俗談(1757)松葉屋瀬川「かがり火とは、やりてと云事、心の火をたゐたりけしたり、もの思ふといふ心」
とある。この場合は前句の恋を受けて②の意味で遊郭に転じたか。
煙草を吸ってた遣手婆が水鶏という遊女を起こしにゆく。
二十四句目。
たばこ吸ふ篝の跡の煙たる
誰が駕ぞ霜かかるまで 清里
ここでは篝を元の意味に戻して、家の警護の者が焚く篝火とし、夜にやってきた駕(のりものと読む、ここでは牛車か)が朝の霜がかかるまでずっと止まってたとする。男が通ってきたのだろう。ただ、王朝時代とすると煙草はオーパーツになるが。
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