今の自粛のレベルでは今月中のピークアウトすら難しい。高止まり状態が六月七月まで続けば、オリンピックはやるとしても国内選手中心の無観客に近いものとなり、セレモニーなんかもほとんど中止になる。それでも開催することに意義があるというなら、形だけでもやったことにするのも一つの考え方だ。やらないならやらないで世界中多くの人が納得すると思う。
日本の場合、オリンピック誘致の時点から左翼の多くが反対していて、その連中が今更鬼の首を取ったような顔している。それは誘致したのが石原慎太郎や安倍晋三で、反政府キャンペーンをするにはうってつけの「象徴」だったからだ。都合のいい時だけコロナ禍を利用しているだけだ。
罰則規定はもとより自粛にも反対の連中が、あたかもオリンピックだけがコロナを広めるかのような顔して、その一方で左翼系の劇団公演やロックフェスは強行しようとしている。
日本人の大半はオリンピックはやめてもいいのではないかくらいには思っていても、何が何でも中止に追い込もうなんてことは考えていない。
それでは「紙衣の」の巻の続き。
十三句目。
寺に祭りし業平の宮
世の中を鶺鴒の尾にたとへたり 葛森
鶺鴒は尾を上下に振ることで知られている。また、伊弉諾・伊弉冉の国生みの時、『日本書紀』に「時有鶺鴒飛来揺其首尾。二神見而学之。即得交道。」とあるように、尾を上下に振るのを見て「交わる道を得た」とされている。
前句の業平からこの展開は今一つスムーズでないだけでなく、『猿蓑』の、
世の中は鶺鴒の尾のひまもなし 凡兆
の発句と酷似していることが気になる。
十四句目。
世の中を鶺鴒の尾にたとへたり
露にとばしる萩の下末 乙孝
これは鶺鴒が尾を振ることで露が飛び散る。まあ、ちょっと別の意味もありそうだが、「萩の下末」と結ぶことで、萩の露でしたというところで綺麗に収まる。ここは問題ない。
十五句目。
露にとばしる萩の下末
いなづまの光て来れば筆投て 一有
前句の萩の露の美しさに和歌で書き記そうとしたら、急に稲妻が光ってびっくりして筆を投げ打ったということか。前句の「とばしる」がよく生かされているので、これも問題はない。
十六句目。
いなづまの光て来れば筆投て
野中のわかれ片袖をもぐ 芭蕉
この付け合いは『一幅半』にもある。
稲妻の光は電光石火という言葉もあるように、瞬時に何かをひらめいたりするのにも用いられる。元はそれこそ雷に打たれたようにはっと悟りを開くことをいったのだが。
ここでなかなか踏ん切りのつかなかった別れに、何か一筆と思ってた筆も投げ捨てて、片袖を破って形見として預けて別れる。
『野ざらし紀行』の、
杜国におくる
白げしにはねもぐ蝶の形見哉 芭蕉
の句を彷彿させる。男女のというよりは男同士の、死してもう会えないかもしれないというような別れを感じさせる。
十七句目。
野中のわかれ片袖をもぐ
君が琴翌の風雅をしたひつつ 應宇
「翌」は「あす」と読む。琴士の別れとする。「こと」には琴、箏、和琴などがあるが、琴(七弦琴)は格式の高く、『源氏物語』でも光の君をはじめとして基本的に王族に伝わるものとされている。
以上、疑問が残るとすれば十三句目であろう。あとは問題ない。
『校本芭蕉全集 第四巻』の宮本注は、
「以下を歌仙の初裏と見ると、この面に月の句がでるべきなのに、二三・二四・二五の三句中にも月を含まぬ素秋(スアキ)となっている点に疑問が存する。」
とある。
十八句目に秋以外の月が出ていたのなら、運座としては問題ない。「いなづま」も貞徳の『俳諧御傘』には「天象には不嫌」とあるから、十八句目に月を出しても問題はない。
もう一つの可能性としては、七句目から十二句目までの断簡と十四句目から十七句目までの断簡があって、それを後から問題の十三句目を挟み込んでつなげたのではないかということだ。
それでは、残る付け合いを見てみることにしよう。
汐は干て砂に文書須磨の浦
日毎にかはる家を荷ひて 芭蕉
「文書」は「ふみかく」。須磨の浦ということで在原行平の俤というのはお約束といえよう。ただ、普通につけても面白くないので「家を荷て」で浜のヤドカリを連想させたというところに芭蕉らしさがある。ヤドカリは「寄虫(がうな)」ともいう。『笈の小文』の旅に出る時の「旅人と」の巻四十一句目に、
堺の錦蜀をあらへる
隠家や寄虫の友に交リなん 観水
の句がある。
乞食年とる楢の木の中
聖して霰ながらの月をみつ 芭蕉
楢というと、
霜さえて枯れゆくを野の岡べなる
楢の広葉に時雨ふるなり
藤原基俊(千載集)
の歌がある。時雨というと時雨の晴れ間の月にも通じるので、それをさらに寒く冷え寂びた「霰ながらの月」にし、前句の「乞食」を「聖(ひじり)」とする。
目前のけしきそのまま詩に作
八ツになる子の顔清げなり 芭蕉
詩はこの時代では漢詩のことで、数え八歳で眼前の景を即興で漢詩にするなんて、なかなかできることではない。数え七歳で読書を始めて、すぐに渤海国の使節相手に漢詩を作って見せるほどになったという桐壺巻の源氏の君の俤であろう。「光君(ひかるきみ)」という名はこのとき渤海国の使節が付けた名前だという。
いずれも芭蕉らしさの感じられる句で、間違いない。
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