八九六四の読み方だが、運転手だった頃の会社に「ぱくろっさ(ナンバーが8963)」と呼ばれているトラックがあったせいで、頭の中では「ぱくろっし」と読んでいる。どうでもいいことだが。
それと『八九六四 完全版』を読んでいて、「東洋的専制主義」という言葉があったななんて、ふと思い出した。
非西洋圏では民主化はしたいけど伝統的な人間関係を壊したくないという両方の力が働く。日本は一君万民の形態を残しながら、何とか民主主義と調和させたが、中国では皇帝と科挙による官僚の支配という伝統が、なかなか民主主義となじまずに苦労しているのかもしれない。
その それでは『三冊子』の続き。
「清濁、にごるを清は難なし。清ムを濁るは恥也。かり衣、から衣、この二は清也。此類皆下を濁る也。旅衣の類なり。
はしひめ、さよひめ、さ保姫、此三清て外は下を濁る也。濁るは二ツ物をつゞくるには必あり。酒も大酒といへば、ざけ、とにごる類也。濁るは和らぐ道理也。清ムは陽、濁るは陰也。・は陽、すむ也。‥は陰、濁る也。數一は陽、二は陰也。」(『去来抄・三冊子・旅寝論』潁原退蔵校訂、一九三九、岩波文庫p.147~148)
二つの詞がつながった時に後の言葉も頭が濁音になる現象を「連濁」と呼ぶ。いくつか大雑把な法則はあるが、すべての連濁を整然と説明できるような法則は残念ながら未だにない。
たとえば「かりころも」「からころも」は濁らないが「たびごろも」は濁る。なぜかと言われてもよくわからない。「衣」を「きぬ」と読む場合は「かりぎぬ」「からぎぬ」になる。
おおむね、二つの言葉の結合が深い場合は連濁が発生する傾向にある。いわば連濁は接着剤のような効果がある。あと、元から清濁の定まった外来語は連濁しない。
「濁るは和らぐ道理也」というのは二つの言葉をつなぐ、調和させる、という意味であろう。
漢語の清濁の場合はまた別の法則が存在している。たとえば一本二本三本を「いっぽん」「にほん」「さんぼん」と読むのは、一が本来ietという子音で終わる字で二がniiで母音で終わる字、三はsambでまた特殊な子音で終わることによる。四は和語で「しほん」ではなく「よんほん」と読むので、和語に外来語と付いた場合に準じて濁らなくなる。七本も「ななほん」と読むので濁らない。六本はliokと子音で終わるため「ろっぽん」になる。
ただ、これも時代が下り、中国の方で漢音から宋音に変化すると、入声がなくなるため、たとえば「日本」はniet本(にっぽん)ではなくrii本になるので「にほん」になる。中国語のrは濁った音に聞こえるため、マルコポーロはこれを「ジ」と発音して「ジパング」となり、西洋ではJの字を使うようになった。
「にごるを清は難なし」というのはくっついた言葉を元の形に戻すだけだからそれほど問題ではなく、「清ムを濁る」をくっついてない言葉をくっつけるから恥となる。
秋葉原は本来秋葉(あきは)神社の原っぱだから、「あきはばら」になる。秋葉を「あきは」と清音で読むのは、古代は「秋津葉(あきつは)」だったからと言われている。
ただ、最近になって秋葉原の原を略すようになったときには、本来「秋葉(あきは)神社」に由来しているということが忘れ去られてしまったため、秋葉は「あきば」と発音されている。
地名や人名の清濁は場所によって違い、伊豆大島は「おおしま」だが、江東区大島は「おおじま」になる。こういうのは一つ一つ覚えるほかない。
清濁を陰陽に結び付ける考え方は中国の陰陽五行説に根差すもので、陽気は澄んでいて上昇し、陰気は濁っていて下降する。上昇した気は天になり、下降した気は地になるという考え方から来ている。連濁の説明とはそれほど関係はない。強いて言えば濁るものは大地のように密着し、清いものは大気のように拡散するという所か。
澄んだ陽気の上昇と濁った陰気の下降による天地の創造は、沈殿の現象でもって説明されている。
「呼子鳥の事、師のいはく、季吟老人に對面の時、御傘に春の夕ぐれ梢高くきて鳴鳥と思ひて句をすべしと有。貞德の心いかにとたづねられしに、老人のいはく、貞徳も古今傳授の人とは見へず、全句をせざる事也といへるよし、師のはなしあり。」(『去来抄・三冊子・旅寝論』潁原退蔵校訂、一九三九、岩波文庫p.148)
呼子鳥は古今伝授の三鳥の一つ。三鳥は呼子鳥、稲負鳥、百千鳥をいう。
稲負鳥(いなおうせどり)は延宝の頃信徳が京で百韻七巻と五十韻一巻の『俳諧七百五十韻』を刊行したときの発句の一つに、
鳫にきけいなおほせ鳥といへるあり 春澄
と詠み、延宝九年の『俳諧次韻』で、
鳫にきけといふ五文字をこたふ
春澄にとへ稲負鳥といへるあり 其角
と返したこともあった。
わがかどにいなおほせ鳥の鳴くなへに
けさ吹く風に雁は來にけり
よみ人しらず(古今集)
の歌に詠まれた謎の鳥とされている。鶺鴒説が有力ではある。
百千鳥(ももちどり)も
ももちどりさへづる春は物ごとに
あらたまれども我ぞふりゆく
よみ人しらず(古今集)
の歌に詠まれていて、謎の鳥とされている。鶯説と不特定多数説がある。
もう一つが呼子鳥だが、ツツドリ説が有力とされている。
元禄二年六月十日『奥の細道』の旅の羽黒山で興行された「めづらしや」の巻の三十五句目に、
行かよふべき歌のつぎ橋
花のとき啼とやらいふ呼子鳥 芭蕉
の句がある。
「御傘に春の夕ぐれ梢高くきて鳴鳥と思ひて句をすべしと有。」とあるが、『日本俳書大系 篇外 蕉門俳諧續集』(一九二七、日本俳書大系刊行會)所収の『俳諧御傘』には、
「古今の大事なれば、傳受せざる人はむさとせぬ事なりと、近代連歌師は制するげに候。俳諧には傳受せずとも、正躰をしらずとも、春の暮かたになく鳥也と心得てすべし。其子細は、むかし連哥師はこれを不憚すでに宗養は三十九歳にして死去あれば古今未傳の人也。獨吟にも、鳴てかへれば又よぶこ鳥、といふ句あり。その上和哥の題に、よぶこどり常に出せり。更に憚事にあらざる也。大事の春の景物を人にさせぬは、道をせばむる道理あり。呼子鳥 連哥に一座一句なれ共、春の季も大切なれば二句もすべし。但、世上の人大事に思ひ付たる鳥なれば、誰にも壹句にて置べし。」
とある。「夕ぐれ梢高くきて」の文字はない。季吟への口伝だったか。
ちなみにツツドリはウィキペディアに、
「平地から山地の森林内に単独で生息するため姿を見る機会は少ないが、渡りの時期には都市公園などにも姿を現す。樹上の昆虫類を捕食し、特にケムシを好む。地鳴きやメスの鳴き声は「ピピピ…」と聞こえるが、繁殖期のオスは「ポポ、ポポ」と繰り返し鳴く。」
とある。
「い勢の濱荻、芦にあらず。荻に似たる物にて別也。いせに限也。角組とき葉一巻也。祭主祐親娘、濱荻と名付られしと也。伊せの海、するがの海、石見の海等、國の名なれども、名所に取る景をほめていへる故の事也。」(『去来抄・三冊子・旅寝論』潁原退蔵校訂、一九三九、岩波文庫p.148)
伊勢の浜荻というと『菟玖波集』の、
草の名も所によりてかはるなり
難波の葦は伊勢の浜荻 救済
の句があるように、同じものが場所によって名前を変える例とされていた。
謡曲『蘆刈』にも、
なかなかの事この蘆を、伊勢人は浜荻といひ、
ワキ「難波人は、
シテ「蘆といふ。(野上豊一郎. 解註謡曲全集 全六巻合冊(補訂版) (Kindle の位置No.44179-44183). Yamatouta e books. Kindle 版. )
とあり、謡曲『歌占』にも、
神風や伊勢の浜荻名をかへて、伊勢の浜荻名をかへて、よしといふもあしといふも、同じ草なりとく ものを、(野上豊一郎. 解註謡曲全集 全六巻合冊(補訂版) (Kindle の位置No.45414-45418). Yamatouta e books. Kindle 版. )
とある。
浜荻に関しては今でもコトバンクの「デジタル大辞泉「伊勢の浜荻」の解説」に、
「1 伊勢の浜辺に生えている荻。
「あたら夜を―折り敷きて妹(いも)恋ひしらに見つる月かな」〈千載・羇旅〉
2 《伊勢では「はまおぎ」とよぶところから》葦(あし)のこと。
「―名を変へて、よしといふもあしといふも、同じ草なりと聞くものを」〈謡・歌占〉」
とあるように、二つの説が併記されている。ただ、いずれにせよイセハマオギのような固有種があるわけではなく、芦か荻かどちらかだとされている。「荻に似たる物にて別也」という説は見られない。実際には、様々なイネ科の植物が伊勢に生えているため、特定は難しい。
芦であれ荻であれ、わざわざ「伊勢の浜荻」という言葉を用いて歌を詠むというのは、「名所に取る景をほめていへる故の事」だというのは間違いないだろう。
あたら夜を伊勢の浜荻をりしきて
妹恋しらに見つる月かな
藤原基俊(千載集)
の歌がよく知られている。
「春雨はをやみなく、いつまでもふりつゞくやうにする、三月をいふ。二月末よりも用る也。正月、二月はじめを春の雨と也。五月を五月雨と云、晴間なきやうに云もの也。六月夕立、しちがつにもかゝるべし。九月露時雨也。十月時雨、其後を雪、みぞれなどいひ來る也。急雨は三四月、七八月の間に有こゝろへ也。」(『去来抄・三冊子・旅寝論』潁原退蔵校訂、一九三九、岩波文庫p.148)
今日では春雨というと霧のような細かい雨、春の霧雨というイメージがある。「新国劇」の月形半平太の「春雨じゃ、濡れてまいろう」というセリフは昭和の頃よく聞かれたが、最近はあまり言わなくなった。
中世連歌の「応仁元年夏心敬独吟山何百韻」九十五句目に、
八重おく露もかすむ日のかげ
春雨の細かにそそぐこの朝 心敬
の句があるから、これも間違ってはいないのだろう。延宝四年の「此梅に」の巻第三にも、
ましてや蛙人間の作
春雨のかるうしやれたる世中に 信章
の句があるように、春雨は軽く降る。
ただ、元禄五年刊の才麿編『椎の葉』所収の「立出て」の巻三十二句目に、
とりどりに骨牌をかくす膝の下
とまりをかゆる春雨の船 尚列
とあるから、川が増水して船の留める場所を変えるくらい降っている。三月に持続的に降る雨、今日でいう菜種梅雨のことと思われる。
江戸後期の曲亭馬琴編の『増補俳諧歳時記栞草』には、「兼三春物」として、
「春雨 春の雨 膏雨 [鬼貫独言]云、春の雨はものこもりてさびし。」
とある。春雨と春の雨は特に区別されてない。
「春の雨」は今日だと「一雨ごとに暖かくなる」というイメージになる。既に暖かくなった新暦四月の雨ではないので、この区別は今日でも暗黙の裡にあるのだろう。ただ、区別はあいまいで、霧雨なら寒くても春雨ということもある。思うに、近代では「菜種梅雨」という言葉が定着したため、春雨がかつて持っていた旧暦三月に持続的に降る雨という意味が消えてしまい、霧雨だけが残ったのだろう。
「露時雨」は和歌の時雨が晩秋から初冬にかけてのものだったのを、連歌の式目で時雨を冬としたら、秋の時雨を露時雨とする意味と、露が多く下りてあたかも時雨が降ったようだという比喩の意味とがある。コトバンクの「精選版 日本国語大辞典「露時雨」の解説」に、
「① 露としぐれ。《季・秋》
※新古今(1205)秋下・五三七「露時雨もる山かげの下紅葉ぬる共をらん秋のかたみに〈藤原家隆〉」
② 晩秋のころ、しぐれのように一時さっと降る雨。《季・秋》
※至宝抄(1585)「露時雨 初時雨は冬也。霧などかいづれ秋の道具結び候へば秋なり」
③ 露がいっぱいおりて、しぐれが降ったようになること。また、草木の葉などに露がたくさんたまって、そのしたたるさまがしぐれの降るようであること。《季・秋》
※続春夏秋冬(1906‐07)〈河東碧梧桐選〉秋「露時雨方十尺を踏ましめず〈観魚〉」
とある。
急雨(きゅうう)はにわか雨で無季。
「東風、春風也。 東風解凍と書文有。夏は南風、秋は西風、冬は北風と漢に用る也。和にさのみその沙汰なし。されども、その心遣ひはあるべきか。夏は嵐なきやうにする也。春は少の風も花をいとひて、嵐と和にもいふ也。秋の初風、はつ嵐と云。中秋にはあらき風を野分と云。初冬の風を木がらしと云。末の冬に至ては、嵐は却而似ざるやうに連哥に用る也。」(『去来抄・三冊子・旅寝論』潁原退蔵校訂、一九三九、岩波文庫p.149)
「東風解凍」は『去来抄・三冊子・旅寝論』の文字がよく読めないためためにこう表記した。解は門構えの中に横棒の入った判読しにくい旁が入っている。レ点があってトクとルビがふってあるので、一般的に用いられている「解」の字で代用しておく。
東風(こち)は春風に同じ。「東風解凍」は七十二候にある。
袖ひちてむすびし水のこほれるを
春立つけふの風やとくらむ
紀貫之(古今集)
の歌にも詠まれている。紀貫之は貞観の頃の生まれとされているので、宣明暦は既に導入されていた。
春風は桜の花を散らすものとして、花を厭う。花を散らす風は嵐ともいう。秋の初風は初嵐ともいう。元禄四年秋の「牛部屋に」の巻三十一句目に、
藪くぐられぬ忍路の月
匂ひ水したるくなりて初あらし 史邦
の句がある。
野分は今日の台風のこととされている。当時は気象衛星の映像で見るような台風の全貌を知ることはなかっただろうけど、一過性で移動してゆくことは経験的に知られていて、元禄七年秋に、
あれあれて末は海行野分哉 猿雖
の発句がある。
「螢、四五月より秋迄も用る。蟬、六月專に暑の甚しき時を用る。秋までもかゝるべし。日ぐらし、せみのやうに鳴て夜もなく。初秋に啼、日中には不鳴、曇りにはなく。 夕立は夕時分といふにあらねども、晝より後にあるやうにと連歌云。」(『去来抄・三冊子・旅寝論』潁原退蔵校訂、一九三九、岩波文庫p.149)
このあたりは今日の感覚とそれほど離れてはいない。暑い時に鳴く蝉と涼しい時に鳴くヒグラシが区別されている。夕立は夜に鳴っても夕立というのは今日も同じ。
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