今日は一日雨だった。
パヨクと呼ばれる人たちが何なのか、もうみんな大体わかってきたと思う。基本的には世界が一つになると信じる人たちだ。これはどのような美辞麗句を並べようと、どこかが世界征服をするということだ。
日本は一九四五年の敗戦を以てこの天下統一の戦いから脱落した。だから日本は早かれ遅かれ消滅する運命にあり、世界征服を果たすどこかに吸収されると考えている。
それがアメリカンリベラルなのかユーロコミュニズムなのか中国なのかイスラム原理主義なのかというところで、ただ勝ち馬に乗ることだけ考えて日和見している。それがパヨクの正体だ。
まあ、本命がアメリカンリベラルとユーロコミュニズムで対抗が中国、イスラム原理主義に付くのは大穴狙いだ。
パヨクはよく言われるような中国の手先ではない。状況次第でどちらにも寝返ろうとしている日和見主義者だ。トランプの時は中国に着く人が多かったが、今はバイデンになったからアメリカに寝返ろうとしている人も多い。
彼らは日本の十五パーセントくらいにすぎないが、学会とマスメディアでは圧倒的な力を持ち、海外への発信力を持っている。だから世界の人はそれが日本の世論だと信じ込んでしまっている。だが、きっと日本に来ればそれが間違いだということに気付くだろう。
これに対してネトウヨというのは実際には日本の1パーセントにも満たない人たちで、ただパヨクがネトウヨを「ネット右翼」という言葉に置き換えて極端に拡大解釈することで、あたかも日本の大半がネトウヨであるかのような印象操作を行っている。彼らからすれば基本的に、パヨクに非ずんばネトウヨなのだ。
実際に日本を動かしているのは残りの八十四パーセントくらい。マスメディアでもネット上でもほとんど声が聞こえてこないから、ラジオを聞くようにしている。
それでは「梟日記」の続き。
9,備中
「八日
備中國
此日雲鹿・舊白をいざなひて倉敷におもむく。鵙がはなといふ處は山城の六地蔵に似て侍りといふに、げにもくらしきは、みやこのたつみともながむべかり。
宇治に似て山なつかしき新茶哉
狂客三人除風庵にこみ入、あるじの僧は外にありておどろき歸る。そのよろこび面にあらはれて、心ざし又他なし。茶漬の冷飯は露堂のぬし、行水の湯は誰かれといふより、とうふ・蒟蒻の施主も有て、わかき人老たる人さまざまに行かひさゝやきて、あるじの僧はいきもつきあへず、その事この事漸に暮はてゝ、しばらく灯前夜雨の閑を得たり。されば此あるじの除風は、松島・白川の風月にもやつれ、武城の嵐雪が黑白の論にあづかりて、はじめて風雅に此事ありといふことをしれり。本より眞言のながれに身をおきて、生涯もよくつとめたりといふべし。
先いのる甲斐こそ見ゆれ瓜なすび
五月雨に袖おもしろき小夜着哉
此里の東南に山あり。この山に小堀遠州の汲捨給へる井ありて、今なをしたゝり絶る事なしと。露堂曰、この水又酒によろし。一荷汲ときは底をつくせども、たちかはるほどありて又一荷と。まさに清浄の水にこそありけれ。西華坊かつて姫路を過し時。難の藤三郎とかやいへる少年の、我に初白の茶一ふくろおくりて、たびねの風情をくはえられしが、此里に來てこの茶ある事風流やむ事なし。水汲は雲鈴法師、茶挽は除風とさだまりて、客は尚雪・青楮の二老人、あるじは露堂にもあらず我にもあらず、たゞのみてなむやみぬ。是又一時の風雅なるべし
茶にやつすたもとも淺し山清水」
七日に一度岡山に戻った支考は翌日八日に倉敷まで行った。距離としてはそれほど長くない。岡山の雲鹿・舊白が一緒だった。
百舌ヶ鼻は今の倉敷市中庄の辺りだという。今の倉敷市立北中学校のあるあたりに百舌鳥ヶ鼻バス停がある。ここは山城国の六地蔵という所に似ているという。六地蔵は伏見桃山の東で、JRと京阪宇治線に六地蔵駅がある。ウィキペディアには、
「小野篁が852年(仁寿2年)に一本の桜の木から6体の地蔵菩薩像を作り、それをこの地(紀伊郡木幡の里、現在は京都市伏見区)にある大善寺に祀った。それにより、大善寺のある付近一帯の広域をさして「六地蔵(ろくじぞう)」と呼んだ。」
とある。
宇治に似て山なつかしき新茶哉 支考
この句にもあるように茶畑の広がる光景が宇治六地蔵に似ていたのだろう。
わが庵は都のたつみしかぞ住む
世を宇治山と人はいふなり
喜撰法師(古今集)
の歌を思い浮かべる。
除風庵はこのあたりにあったのか、支考、雲鹿、舊白の三人がやってくると主の僧が慌てて戻ってくる。露堂からもてなされた茶漬の冷飯を食い、お寺にはよくある水風呂(当時主流のサウナではない、湯舟につかる風呂)に入る。さらに豆腐、蒟蒻などもお寺らしいおもてなしだ。
若者や老人がいろいろと出入りする中でこの庵の主は忙しそうだったが、やがて夜になり灯前夜雨の閑に話を聞くと、この除風という僧は松島・白川をも旅し、嵐雪に俳諧を学んだという。コトバンクの「デジタル版 日本人名大辞典+Plus「除風」の解説」には、
「1666/67-1746 江戸時代前期-中期の俳人。
寛文6/7年生まれ。真言宗の僧。服部嵐雪(らんせつ)にまなび,各地を吟遊。備中(びっちゅう)(岡山県)倉敷に南瓜庵をむすび,松尾芭蕉(ばしょう)をしたって千句塚をきずく。のち讃岐(さぬき)(香川県)観音寺の山崎宗鑑(そうかん)の旧跡一夜庵を再興した。延享3年1月13日死去。80/81歳。備中出身。別号に南瓜庵,生田堂,百花坊。編著に「青莚(あおむしろ)」「千句塚」「夢の枯野」など。」
とある。この南瓜庵の跡は中庄ではなくもう少し東の下庄にある。ここに南瓜庵を結ぶのは支考の旅よりももう少し後のことか。
支考が寛文五年の生まれなので、除風は年下になる。
先いのる甲斐こそ見ゆれ瓜なすび 支考
五月雨に袖おもしろき小夜着哉 同
書写山では自分を茄子に喩えたが、ともに瓜と茄子でこれからの俳諧を盛り立てていこう、という決意か。
この庵の南西の山に小堀遠州が汲んだという井戸がある。小堀遠州はウィキペディアに、
「小堀政一(こぼり まさかず)は、安土桃山時代から江戸時代前期にかけての大名、茶人、建築家、作庭家、書家。2代備中国代官で備中松山城主、のち近江国小室藩初代藩主。官位は従五位下遠江守。遠州流の祖。
一般には小堀遠州(こぼり えんしゅう)の名で知られるが、「遠州」は武家官位の受領名の遠江守に由来する通称で後年の名乗り。道号に大有宗甫、庵号に孤篷庵がある。」
とある。この井戸は教善寺であろう。倉敷美観地区の南、向山公園のある山の西側の麓にある。百舌ヶ鼻除風庵の南西になる。境内に遠州井と呼ばれる井戸がある。
さきほど茶漬をご馳走してくれた露堂が、この水は酒に良いという。支考は姫路で難の藤三郎から貰ったという茶をここで立てて飲む。難の藤三郎はあるいは姫路の春亭で茶のもてなしを受けた時の主のことか。ともに書写山に登った若きは何がし小三郎という貴公子もいたが。
水汲の雲鈴法師は 元禄十七年に『摩詰庵入日記』を記した雲鈴法師であろう。コトバンクの「デジタル版 日本人名大辞典+Plus「雲鈴(1)」の解説」に、
「?-1717 江戸時代前期-中期の俳人。
陸奥(むつ)盛岡藩士だったが,僧となり,俳諧(はいかい)を森川許六(きょりく),各務(かがみ)支考にまなぶ。元禄(げんろく)13年大坂から北上して,佐渡に滞在,のち南下して京都にいたるまでの紀行「入日記(いりにっき)」を16年に刊行した。享保(きょうほう)2年2月2日死去。別号に摩詰庵(まきつあん)。」
とある。
ネット上の堀切実さんの『「支考年譜考証」補遺』に、
「口蓮二房の「雲鈴法師行状記」(『淡雪』巻頭・『和漢文操』巻七所収)に「春はやよひの末なりとや。備の倉敷といふ所にて東華先師に行あひたり」とみえる。「春はやよひ」は記憶違いか。」
とあるが、西宮から岡山までの支考の旅の同行者が記されてなく、当時は基本的に一人旅はしなかったので、むしろ伊勢を出た時から同行していた可能性がある。芭蕉の『奥の細道』でも桃隣の『舞都遲登理』でも、同行者は途中で明かされている。
茶挽は除風、客は尚雪・青楮の二老人。この二人も倉敷の人なのか。あるじは露堂にもあらず我にもあらず、ともに風雅のひと時を過ごす。
茶にやつすたもとも淺し山清水 支考
10,藤戸の浦
「十日
此日人々に催されて藤戸の浦見にゆきけるが、今はむかしにはあらで、田にもなり畑にもなりて、浦の男があはれのみ、その夜いかにとおもひやるばかり也。
生てゐて何せむ浦の田植時
簑里號
笠縫の里は古哥の名所なるに、
簑といふものは、野夫のたもと
をかさねて、俳諧のたよりある
もの也。若き人といへどこのみ
ちのさびなからんや
秌ならで五月もさむし鷺の簑」
藤戸の浦は教善寺の南東の倉敷川を下った所にある。藤戸合戦のあったところで、ウィキペディアに、
「藤戸の戦い(ふじとのたたかい)は、平安時代の末期の寿永3年/元暦元年12月7日(ユリウス暦:1185年1月10日)[1]に備前国児島の藤戸と呼ばれる海峡(現在の岡山県倉敷市藤戸)で源範頼率いる平氏追討軍と、平家の平行盛軍の間で行われた戦い。治承・寿永の乱における戦いの一つ。藤戸合戦、児島合戦とも言う。」
とある。
この合戦で源氏方の佐々木盛綱が漁夫に浅瀬の場所を教えてもらって勝利するものの、その時他の者にも教えるのではないかと疑い、先陣を取りたいがためにその漁夫を切り殺したことが謡曲『藤戸』の物語となっていた。
その哀れな漁夫を偲ぼうにも、今やその浦すらなく、干拓されて田畑になっていた。
生てゐて何せむ浦の田植時 支考
殺された漁夫も哀れだが、田畑ができて棲家を奪われた漁夫もどうやって生きていけばいいのか。今日を生きる我々も諫早湾干拓事業を思い起こすと哀れだ。
ただ、農民は農民で少しでも田畑は欲しいし、国の多くの人も穀物がたくさん獲れることを望んでいるとすると、難しい問題ではある。謝霊運は干拓推進派だったが、漁民の怒りを買って殺された。
倉敷市藤戸町は今日の地図では海から一里は離れている。児島湾干拓は近代に入っても継続され今は湾すらなく、わずかに児島湖が残っている。
「簑里號」とあるのは倉敷の大島重右衛門のことか。「ごさんべえ」というホームページに倉敷の大島家の系図があり、
「寛文8年に亡くなった次郎右衛門の前に2代あるとも云われますがよく判っていません。季雅の長男重右衛門は蓑里という名の俳号をもっていて、家督を継いでいません。」
とある。これは「簑里と号す」で「若き人といへどこのみちのさびなからんや」と言って支考が名付け親になり、
秌ならで五月もさむし鷺の簑 支考
の句を贈ったのではないかと思う。
11,矢掛
「十三日
此日倉敷を出て矢懸におもむく。道のほど五里ばかりなるべし。除風・雲鈴ノ二法師をいざなひて觀音寺に宿す。今宵の空のおぼづかなきに、曉の夢さめて鐘の聲をきく。
夏の夜の夢や管家の詩のこゝろ」
倉敷から山陽道に戻り矢掛へ行く。山陽道は吉備津宮の辺りから直線的に清音から真備を経て三谷へ抜ける。古代に作られた直線道路をある程度踏襲しているものと思われる。
今の地図を見ると矢掛町矢掛の小田川に沿ったところに観音寺というお寺がある。寛永七年の創建だという。支考、除風、雲鈴の一行の泊まったのは多分ここでいいのだろう。
夏の夜の夢や管家の詩のこゝろ 支考
菅家(菅原道真)の詩というのは、
自詠
離家三四月 落涙百千行
萬事皆如夢 時時仰彼蒼
の詩のことだろうか。
12,尾道
「十五日
此日矢懸をたちて尾道におもむく。その道のかたはらにあやしき小屋の侍リ。雲鈴曰、我かつて此家に一夜をあかしつるが、能因法師のかくてもへけりとよまれし哥を、よもすがら思ひあはせ侍るといふに、げにもあさましき草のやどりなりけり。
笹の葉に何と寐たるぞ蝸牛」
尾道への近世山陽道も引き続き古代山陽道を踏襲するかのように、井原、神辺へと直線的に進む。
「かくてもへけり」の歌は、
世の中はかくても経けり象潟の
海士の苫屋をわが宿にして
能因法師(後拾遺集)
の歌で、随分と寂れたところに泊まったようだ。尾道とは言うけど、次の竹原へ行く道中を見ても今の尾道駅の付近ではなく、一つ手前の今津宿かその少し先の松永か今の東尾道駅の辺りに泊まったのではないかと思う。
支考もまた一句。
笹の葉に何と寐たるぞ蝸牛 支考
瀬戸内海は古くから海上交通が発達していたため、山陽道は寂れていたのかもしれない。ただ、それにしても寂れすぎている。
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