2021年5月21日金曜日

 東京はどうやらピークアウトが見えてきた。第四波の変異ウイルスはさすがに手ごわかったが、強制力のある対策が打てなくても、ワクチン接種が遅れても、どうやら何とかなりそうだ。
 ガザの停戦ということで、まあハマスの思想のことは知らないが、パレスチナを守ろうとしたのだからその点では正義だと思う。ミャンマーでも軍に対して武力闘争を始めた人たちを責めることはできない。思想が問題なのではない。まずは命を守り、生活を守るための戦いなら正当な抵抗権の範囲だと思う。平和デモで戦車に轢き殺されてミンチになれなんこと、言えるわけないだろっ。
 あと、鈴呂屋書庫に「雪ごとに」の巻「皆拝め」の巻をアップしたのでよろしく。
 それでは『三冊子』の続き。

 「順の峯入、逆の峰入とも夏也。むかし紀の國路より、みねに入て是を順といふ。今はよし野よりいりて是を逆と云。今の峯入は逆也。諸ともの哥、順逆ともに夏故に感ふかしと師の云也。」(『去来抄・三冊子・旅寝論』潁原退蔵校訂、一九三九、岩波文庫p.149)

 コトバンクの精選版 日本国語大辞典「峰入」の解説には、

 「〘名〙 修験者が、大和国(奈良県)吉野郡の大峰山にはいって修行すること。陰暦四月本山派の修験者が、熊野から大峰山を経て吉野にぬける「順の峰入り」と、陰暦七月当山派の修験者が、吉野から大峰山を経て熊野にぬける「逆の峰入り」とがある。大峰入り。《季・夏》
  ※光悦本謡曲・葛城(1465頃)「此山の度々峯入して、通ひなれたる山路」

とあり、熊野から大峰の抜けるのを「順」とし、吉野から熊野に抜けるのを「逆」としていて、季語は「夏」としている。
 同じくコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「順の峰入り」の解説」には、

 「天台系の本山派の修験者が、役行者(えんのぎょうじゃ)の入山を慕って、熊野から葛城(かつらぎ)・大峰を経て吉野へ出る行事。真言系の当山派の逆の峰入りに対する語。順の峰。《季・春》 〔俳諧・毛吹草(1638)〕」

とある。
 ここでも「順」と「逆」は一緒だが、季語は「春」になっている。
 元禄二年春の「衣装して」の巻三十五句目に、

   折にのせたつ草の初物
 入過て餘りよし野の花の奥    芭蕉

の句がある。この「入」は順の峯入のことであろう。ここでは花の句なので春になる。
 貞享四年の「旅人と我名よばれん」を発句とする興行の二十三句目には、

   別るる雁をかへす琴の手
 順の峯しばしうき世の外に入   観水

とあるが、順の峯入りは春の句となっている。

 峯入の笠とられたる野分かな   許六

の発句は秋の句になっているが、陰暦七月当山派の修験者が、吉野から大峰山を経て熊野にぬける「逆の峰入り」の句であろう。
 「諸ともの哥」は

 もろともにあはれと思へ山桜
     花よりほかに知る人もなし
              行尊(金葉集)

の歌と思われるが、花の歌で夏とは思えない。
 ネット上の金任仲(キム・イムジュン)さんの『西行の大峰修行をめぐって ─説話との関連を中心に─』には、

 「大永七年(一五二七)奥書がある『修験道峰中火堂書』下巻には、  

 順峰修行ハ金剛界之修行也。秋八月晦日ノ入峰ハ熊野山那智瀧ノ本宿ヨリ大峰へ入リ。十月初八日萬歳峰へ駈出也。逆峰修行ハ胎蔵界之修行也。春三月十八日ハ吉野金峰山ヨリ大峰へ入リ。五月一日萬歳峰へ駈出。互相順逆ノ笈ヲハ萬歳峰渡シ請取ルト云。順峰ハ役君三論天台宗等ヨリ始ル。故二出札山門流ト書ク也。逆峰ハ真言宗ヨリ始ル。故二出札東寺流ト書ク也。

とあり、順峰・逆峰の方式と因縁などが記されている。」

とある。これによると順の峯入りが秋八月晦日に熊野から入るのが「順の峰入り」で、春三月十八日に吉野から入るのが「逆の峰入り」になっている。
 そうなると、春の桜や帰る雁を詠んだ峰入りは「逆の峰入り」で吉野から入ったことになる。これだと、「今はよし野よりいりて是を逆と云。今の峯入は逆也。」というのは正しいが季節は春になる。
 いずれにせよ、熊野から入るのが順で吉野から入るのが逆であることは間違いない。問題は季節で、吉野の桜を詠んだ歌や句がどちらから来たかという問題になる。桜や帰る雁の句が吉野から入る逆だとしたら、野分の峯入りは熊野から入る順になる。
 峰入りの時期は時代によって変わっているかもしれない。いずれにせよ「順の峯入、逆の峰入とも夏也」は疑問だ。

 「和歌には、はねる字を、にとよむ也。緣をえにと云、難波をなにはといひ、蘭をらにと云。」(『去来抄・三冊子・旅寝論』潁原退蔵校訂、一九三九、岩波文庫p.149)

 古代の日本語には「ん」で終わる言葉がなかったからであろう。んで終わる言葉は母音を補って「に」としたのであろう。鬼(おに)も隠(おん)が語源だという。
 縁を「えに」と読んだ名残は今日でも「えにし」という言葉に残っている。難波は大阪の地名としては「なんば」と呼んでいる。

 「心の駒は心のさはがしきを云。ひまの駒、光陰の去やすきをいふなり。
 心の松は不變の心也。又直成る心也。しるしの事をも云。」(『去来抄・三冊子・旅寝論』潁原退蔵校訂、一九三九、岩波文庫p.149~150)

 「心の駒」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「心の駒」の解説」に、

 「=こころ(心)の馬
  ※草根集(1473頃)六「つながれぬ心の駒もおとろへき恋路さがしく遠き月日に」

とある。「心の馬」は、

 「(「衆経撰雑譬喩‐上」の「欲求善果報、臨命終時心馬不乱、則得随意、往不可不先調直心馬」による) 馬が勇み逸(はや)って押えがたいように、感情が激して自制しがたいこと。意馬。心の駒。
  ※新撰菟玖波集(1495)雑「あらそへる心のむまののり物に かちたるかたのいさむみだれ碁〈よみ人しらず〉」

とある。
 「ひまの駒」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「隙行く駒」の解説」に、

 「(「荘子‐知北遊」の「人生二天地之間一、若二白駒之過一レ郤、忽然而已」による) 壁のすきまに見る馬はたちまち過ぎ去ることの意から、月日の早く過ぎ去ることのたとえ。隙(げき)を過ぐる駒。白駒(はっく)隙(げき)を過ぐ。ひま過ぐる駒。ひまの駒。
  ※千載(1187)雑中・一〇八七「いかで我ひまゆく駒をひきとめて昔に帰る道を尋ねん〈三河内侍〉」

とある。
 「心の松」は「精選版 日本国語大辞典「心の松」の解説」に、

 「① (「松」を「待つ」にかけて) 心中に期待すること。
  ※拾遺(1005‐07頃か)恋四・八六六「杉たてる宿をぞ人はたづねける心の松はかひなかりけり〈よみ人しらず〉」
  ② 変わらない心を松の常緑であるのにたとえていう。〔宗祇袖下(1489頃)〕」

とある。

 「鳴子は田か畑か植物か、結びてする也。」(『去来抄・三冊子・旅寝論』潁原退蔵校訂、一九三九、岩波文庫p.150)

 鳴子はウィキペディアに、

 「鳴子(なるこ)は木の板に竹の管や木片を付けて音が出るようにした道具の一種。本来は防鳥用の農具である。引き板やスズメ威しなどの別名がある。また地域や時代によって、ヒタ、トリオドシ(鳥威し)、ガラガラなど様々な呼称がある。」

とある。

 「田鶴は水邊か、里ちかく鳴様にするなり。」(『去来抄・三冊子・旅寝論』潁原退蔵校訂、一九三九、岩波文庫p.150)

 田鶴はツルのことで、コトバンクの「精選版 日本国語大辞典「鶴・田鶴」の解説」に、

 「〘名〙 鶴(つる)をいう。多く歌語として用いる。たずがね。
  ※万葉(8C後)六・九一九「和歌の浦に潮満ち来れば潟を無み葦辺をさして多頭(タヅ)鳴きわたる」
  ※無名抄(1211頃)「たづは沢にこそ棲め、雲井に住む事やはある」
  [語誌](1)「万葉集」では、助動詞「つる」の訓借仮名として「鶴」を用いることがあるものの、鳥名「鶴」はすべて「たづ」と訓ぜられ、「たづ」は歌語として定着していたようである。
  (2)中古以降、散文にも用例が見られるが、なお雅語としてのニュアンスが強い。」

とある。芦田鶴(あしたづ)など、水辺に詠むことが多い。

 「朝の月は、十七日より廿八日まで也。」(『去来抄・三冊子・旅寝論』潁原退蔵校訂、一九三九、岩波文庫p.150)

 朝の月は明け方の沈む月ではないので、満月から二三日は除外する。

 「貌よ鳥、春されば野べに先なく貌よ鳥聲に見へツゝ忘られなくに、といふは雉子をよめり。又鶯をもよめり。霜氷る岩根につるゝ貌よ鳥浪の枕やわびてぬるらん、是鶯也。定家卿の云、貌よ鳥、春の鳥也となり。師の曰く、説々あれども、たゞ春の小鳥のいつくしきをいふと知るべしと也。」(『去来抄・三冊子・旅寝論』潁原退蔵校訂、一九三九、岩波文庫p.150)

 貌鳥(かほどり)はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」に、

 「〘名〙 (古くは「かおとり」) 鳥の名。なに鳥かは不明。かおよどり。《季・春》
  ※万葉(8C後)三・三七二「春日を 春日(かすが)の山の 高座(たかくら)の 御笠の山に 朝さらず 雲居たなびき 容鳥(かほとり)の 間無くしば鳴く」
  [補注]中古以後おおむね、「かおどり」の語義を、「かおばな」と同じく、容姿の美しい鳥と考えているが、雉(きじ)の雄、鴛鴦(おしどり)、翡翠(かわせみ)、雲雀(ひばり)、梟(ふくろう)、鴟鵂(みみずく)、蚊母鳥(よたか)、虎鶫(とらつぐみ)、青鳩(あおばと)、河烏(かわがらす)、郭公(かっこう)など、諸説ある。」

とある。

 春されば野べに先なく貌よ鳥
     聲に見へツゝ忘られなくに

の歌は不明だがよく似た、

 夕されば野べに鳴てふかほどりの
     かほにみえつつわすられなくに

の歌が『古今和歌六帖』にある。これはキジのことだという。

 霜氷る岩根につるゝ貌よ鳥
     浪の枕やわびてぬるらん

の歌も不明。ウグイスのことだという。
 容姿の美しい鳥で、春を彩る鳥のことで、特に特定の種を指すのではないようだ。

 「殘鴈、説あり。哥の題には冬也。連俳には秋に用る也。」(『去来抄・三冊子・旅寝論』潁原退蔵校訂、一九三九、岩波文庫p.150)

 残雁はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「残雁」の解説」に、

 「春になっても、まだ北へ渡って行かないで残っている雁。また、秋になっても北陸地方にとどまり、南へ渡らないで残っている雁。《季・春/秋》
  ※無言抄(1598)下「残る鴈 秋なり。帰鴈の残る心な一向不謂。こし路にのこりてをそく渡る心なり」

とある。貞享五年秋の「月出ば」の巻十五句目に、

   谷の庵のあたらしき月
 行雁におくれて一羽残けり    夕菊

の句がある。

 「つぼすミれといふは舊薗のすみれ也。つぼの内のすみれといふ事也。一たびよみて詞やさしき、依てすみれの名になして山野にもよめる也。師のいはく、此類の事どもみなある事也とぞ。」(『去来抄・三冊子・旅寝論』潁原退蔵校訂、一九三九、岩波文庫p.150)

 ツボスミレは今日ではスミレの種類の名になっている。通常のスミレは葉が細く花の色が濃いのに対し、葉がハート形で花の色の薄いのをツボスミレと呼んでいる。
 古来のこの二種のスミレが区別されてたのかどうかはわからない。語源的には「壺庭」などの庭に咲くスミレのことを壺菫と呼んだことに始まるのかもしれない。庭のスミレと野のスミレが同じものだったかどうかも定かでない。
 言葉としては壺菫という言葉を野のスミレにも拡張して用いていたのかもしれない。衣装の重ねの色目で壺菫という場合も色の濃いスミレの色に薄い緑を合わせているから、色の白い今のツボスミレの色ではない。
 では今のツボスミレは何と呼ばれていたかとなると、それも定かではない。

 きぎす鳴く岩田の小野のつぼすみれ
     しめさすばかり成りにけるかな
              藤原顕季(千載集)

など、和歌に詠まれている。

 むらさきの野辺の芝生のつぼすみれ
     かへさの道もむつましきかな
              藤原俊成(俊成五社百首)

の歌を見る限りは、紫色のスミレであり、今日のツボスミレとは思えない。

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