2021年5月30日日曜日

 昔はよく弁証法ということをいったが、資本主義をテーゼとしてマルクス主義をアンチテーゼとすると、その対立をアウフヘーベンするのは疎外なき資本主義ではないかと思う。誰もが気軽に資本参加でき、排除されることのない資本主義、それが今の持続可能資本主義と結びつけば無敵なんではないかと思う。
 歴史の終わりが見えてきたのかもしれない。
 あと、鈴呂屋書庫に「いざ子ども」の巻をアップしたのでよろしく。
 それでは「梟日記」の続き。

15,西條四日市

「十九日
 例のさみだれにふられて竹原を旅だち出るに、流水のおのこ、心ありて林光庵の辻といふ所におくり來る。道のほど二里ばかりもあらん。是に留別の句かきて、つかはしける。
 我影や田植の笠にまぎれゆく
 今宵は四日市といふ所に宿し侍るが、蚊屋釣よすがもなきいぶせきやどりなりけり。このあたりは西條とかいへる柿の名所なり。此里に我名しりたるおのこあるて、來りて風雅の事いひていにける。あとに宿のあるじのいかに聞とりてか、我に物かきて得させよといふ。あなかしこ我をたふときものと思ふにこそと、こゝろのほどおかしければ、かくいふ事をかきてとらせける。
 弘法を狸にしたる蚊遣かな
 次の日は廣島にいたる。里洞・柳江を尋るにあはず。是より後、下の關を過て柳江に逢ふ。心ざしのおのこ也。」

 西条四日市宿は内陸部にあるので再び陸路で山陽道に戻ったのだろう。山陽道は尾道から本郷(三原市)から竹原市新庄町を経て、山陽新幹線に近い田万里を通り、三永から松子山大池の西の松子山峠を越えて西条四日市宿に出る。
 林光庵の辻はこの山陽道のルートからすると竹原市新庄町の辺りであろう。流水は竹原での二つ目の表八句で四句目の、

   から笠に皆俳諧の名をかきて
 三日四日の月の宵の間      流水

の句を付けている。別れ際に、

 我影や田植の笠にまぎれゆく   支考

の句を竹原の人たちに書き、流水に托す。
 笠を被った旅姿の自分ではあるが、この季節は田植で笠を被っている人がたくさんいるので、その中に紛れるように去って行きます。田植は神事なので簑笠を着た。
 松子山とうげを越えて歌謡坂(うたうたひざか)を下ると西条四日市宿がある。名産の西條柿がある。渋柿だが糖度が高く、干柿にすれば最高の甘い柿になるという。
 四日市に宿泊すると支考の名を知っている人がいて、「風雅の事」つまり俳諧のことをいろいろ言って去って行く。あとで宿の主に言われたが、揮毫を頼まれる。こういうとき芭蕉だったら「時鳥の所に案内しろ」だとか「代わりに庭を掃いておいてくれ」だとかいう所だが、支考は有名になったなって喜んだか、

 弘法を狸にしたる蚊遣かな    支考

の句を書き記す。これは「串に鯨を」の用法で、狸で弘法にする、つまり狸が弘法に化けるという意味になる。こんな狸を弘法だと思って揮毫せよということか。蚊遣の煙たい宿だった。
 翌二十日は広島まで行く。西條四日市から大山峠を越えて行く、今の国道二号線に並行した道だ。
 峠を越えると海田市の辺りから天神川の方へ行き、広島宿に入る。
 里洞・柳江には会えなかった。後に柳江には下関で逢うことになる。


16,宮嶋

「廿二日
   宮嶋
    神前奉納
 燈籠やいつくしま山波の華
   三とせの先ならん。ある夜の夢に何ともな
   き山里に行けるが、宇金の布衣かけたるお
   のこの我にむかひて、是は安藝の宮嶋とい
   ふ所なりといへるに、ほとゝぎすの聲の山
   影にきこえたれば〽郭公是を山路の小春か
   なとおもひよりて小春の山路とやせん、山
   路の小春とやせんと思ふほどに、夢の行衛
   もしらずなりぬ。されば今宵は廿二日、神
   前の廻廊も百八の灯籠かけわたして、冥感
   と肝にそむばかりにたふとかりしが、眼前
   の境に催されて、たゞ今の句をぞ得侍る。
   當季さだめがたければ、過し夢の事まで思
   ひあはせけるなり。

 華表額 表 嚴嶋大明神   弘法大師筆也
     裏 伊都岐島大明神 小野道風筆也

 御殿の反橋の際に、尊圓親王の落書あり。長谷千松とあり。兒の時なるべし。
   彌山
 彌山とは芥子のつぼみに朝日哉
   尚政亭
 鹿の子のあそびたらでや磯の月」

 日本三景というのは林羅山の息子の林鵞峰が言い出したことで、ウィキペディアによると『日本国事跡考』に、

 「松島、此島之外有小島若干、殆如盆池月波之景、境致之佳、與丹後天橋立・安藝嚴嶋爲三處奇觀」

によると言われている。
 それをいうと、芭蕉は松島には行ったが、後の二つは見残していることになる。
 その見残しの一つ、秋の宮嶋に支考は参拝する。そこで一句。

    神前奉納
 燈籠やいつくしま山波の華    支考

 芭蕉も神社を詠んだ句はあるが「神前奉納」という形を取ってはいなかった。まあ、詠む句すべてが神仏に奉納するものだったのかもしれない。桃隣も「舞都遲登理」で鹿島に行った時に、

 奉納 額にて掃くや三笠の花の塵

と記しているが、芭蕉のように自然な形で神仏に接するのではなく、どこか形式主義化した感じがする。
 竹原での表八句の発句に、あえて「不易」との注を添えねばならなかったような、芭蕉の死後に俳諧のアンチが勢いづくようなことがあって、俳諧を擁護するためのいろいろな名目を述べなければいけないような状況が生じていたのかもしれない。
 支考の句の方だが、眼前に厳島神社の燈籠が並び、背後には厳島の山があり、正面には瀬戸内海の波の花が咲いている。
 土芳の『三冊子』「くろさうし」に、

 「師のいはく、絶景にむかふ時は、うばはれて不叶、物を見て取所を心に留メて不消、書寫して静に句すべし。うばはれぬ心得もある事也。そのおもふ所しきりにして、猶かなはざる時は書うつす也。あぐむべからずと也。師、松島にて句なし。大切の事也。」(『去来抄・三冊子・旅寝論』潁原退蔵校訂、一九三九、岩波文庫p.142~143)

とある。「物を見て取所を心に留メて不消、書寫して静に句すべし。」を基本通りに実行したような句だ。安芸の宮嶋を見まわして燈籠がある、厳島の山がある、前に海がある、それをそのまま書き写し、特に面白おかしく取り囃したりもせずに静かに詠んだ句だ。
 このあと支考は三年前の夢のことを書き記している。三年前というと元禄八年だから、芭蕉が去った後のことだ。
 見知らぬ山里で宇金の布衣を掛ける人がいた。宇金の布衣はウコンで染めた黄色い衣だろう。タイのお坊さんが思い浮かぶが、当時の日本では高僧の着るものだった。そしてここは安芸の宮嶋だという。
 折からホトトギスが鳴いたので、支考は、

 郭公是を山路の小春かな

と詠もうとしたが「小春の山路かな」の方が良いか、どちらが良いか迷った。「小春」は旧暦十月のことで、それにホトトギスは変だが、そこは夢だからということだろう。夢の中で思いつくことってそういうことが多く、たまたま目覚めて覚えていて書き留めてみても、読んでみると何だこりゃ、使えん、ということがよくある。支考もこの夢のことを忘れていて、この時ふっと思い出したのだろう。
 そして「今宵は廿二日、神前の廻廊も百八の灯籠かけわたして」と「眼前の境に催され」るがままに、「燈籠や」の句を詠んだ。ただ、夏の季がうまく乗っからないので、夢で詠んだ句のようにおかしなものになってしまった、と自嘲する。ただ、名所の句は無季でもいいと、

 歩行ならば杖突坂を落馬哉    芭蕉

の前例もある。
 「波の華」は貞徳の『俳諧御傘』に、

 「花の波 正花也。水辺に三句也。但、可依句体。波の花は非正花、白浪のはなに似たるをいふなり、植物にあらず。」

とある。
 この後に厳島神社の扁額のことが記されている。今の物は有栖川宮熾仁親王の書だという。明治の廃仏毀釈の時に掛け替えられたのであろう。
 支考の見た古い額は厳島神社宝物館にあるという。ただ、これは一五四七年(天文十六年)に大内義隆によって再建され四代目の大鳥居のもので、初代大鳥居に掲げられていた小野道風と弘法大師の額ではないという。
 御殿の反橋も一五五七年に再建されたもので、そうなると「長谷千松」の落書きも怪しい。

   彌山
 彌山とは芥子のつぼみに朝日哉  支考

 弥山(みせん)は宮嶋の最高峰で標高約535メートル。今ではロープウェイで登れる。
 句の方は芥子のつぼみが下を向いているということで、ひたすら拝み、こうべを垂れているところに御来光の朝日が射す、という意味だろう。

   尚政亭
 鹿の子のあそびたらでや磯の月  支考

 尚政亭は支考の宿泊地であろう。関西大学図書館のサイトの鬼洞文庫に、

 「承応二年九月二十五日興行、「賦御何」連歌百韻の巻物一巻がある。発句「世を照す神のめくみや秋の月 仙甫」。連中は仙甫、正音、尚政、昌句、以春、種定、宗因、西順、等二、玖也、盛次、友貞。宗因が出座するもので注目されるが、尾崎千佳氏「西山宗因年譜稿」(『ビブリア』111)にも未収のようである。」

とあり、四十五年前の承応二年(一六五三年)の尚政と同一人物だとしたら、かなりの高齢になる。
 支考編『西華集』には尚政の発句による表八句が収められている。もう少し長く逗留して、俳諧興行をたくさんやりたかったという思いが「あそびたらでや」に込められているのだろう。

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