今日の夜は曇って月食は見れなかった。
まあ、考えてみれば欧米人というのは日本を遅れた野蛮国だと思ってるから、だから、左翼が日本のここは駄目、ここがひどいということを言えばみんなそのまま信じてしまい、簡単に日本に外圧をかけてしまう。それでずっと左翼は少ない人数で政治を動かすことに成功してきたから、こういうのは一朝一夕になくなんないんだろうな。
きっとオリンピックも外圧で中止に追い込まれるのだろう。別にいいけどなんか癪だ。いまやGAIATSUは世界の言葉だなんていう人もいる。
きっとこのブログにも近々GAIATSUが来て削除されるんだろうな。
それと鈴呂屋書庫に「おきふしの」の巻をアップしたのでよろしく。
それでは「梟日記」の続き。
7,岡山
「五月五日
備前國
此日岡山の城下にいたる。殊にあやめふきわたして、行かふ人のけしきはなやかなるを見るにも、泉石の放情はさらにわすれがたくて、
松風ときけば浮世の幟かな」
姫路から岡山までは歩いて二日ぐらいの距離だろうか。日付も五月に変わり、五日から始まる。
「あやめふきわたして」というのは軒菖蒲(のきのあやめ)のことで、コトバンクの「精選版 日本国語大辞典「菖蒲葺く」の解説」に、
「端午の節句の行事として、五月四日の夜、軒にショウブをさす。邪気を払い火災を防ぐという。古く宮中で行なわれたが、後、武家、民間にも伝わった。《季・夏》
※山家集(12C後)上「空はれて沼の水嵩(みかさ)を落さずはあやめもふかぬ五月(さつき)なるべし」
とある。
「泉石の放情」は『旧唐書』隠逸伝序の「放情肆志、逍遙泉石」から来たものであろう。情を放ち志を欲しいままにし、泉や石を自在にさまよい歩くことをいう。隠士の境地をいう。
こういう端午の節句の華やかな風景を見るにつけても、自由気ままに旅をしていてよかったと思う。そこで一句。
松風ときけば浮世の幟かな 支考
松風は本来はシューシュー言う悲し気な響きのものだが、浮を世を離れて旅をすれば、浮世の端午の節句の幟を吹く楽しいものになる。
8,吉備津宮
「六日
此日吉備津宮にまうづ。此朝はくもりみはれみ、おもひさだめがたき空のけしきなるを、かりそめに思ひ出ぬる道のことさらに照りわたりて、そのあつさたえざらんとす。各かぶり物もとめ出るに舊白はあやまたず、雲鹿は笠の緒のなまめきたる、いかなる人にかかり出らん。ひとつ緒の俄あみ笠は、梅林のぬしの名にこそにほへ、晩翠はよのつねの法師がらにもあらぬに、供笠とかいふなるからかさに、柄のなきものをうちかぶりたれば、夕影のかほもかゞやくばかり、かの祇園の火とぼしなめりと、眞先におしたてらるゝに、雨放しの風に風まけして、果はたゞきずなりぬ。三門柴山のほとりも過行ほどに、夕陽の影は山をひたして、笹が迫とかや、かんこ鳥の聲もきこゆなり。
俳諧師見かけて啼や諫皷鳥
されば鶯・ほとゝぎすの世にしられたる、鴈の聲のまたれてわたる空、ちどりのあかつきはさら也。さるは哥にもよみ詩にもいふなる、諫皷鳥の淋しさのみ誰にかよらん。かくて八坂といふ所の橋をわたりて、きびつ山にむかふ。そもそも此神は一神二應とかや。備前・備中の兩國におはして、吉備の中山なかにへだゝりぬ。
みじか夜やどなたの月に郭公
備前の御神はちかき比御修覆ありて、朱橡あらたに應化の影をかゞやかす。誠にありがたき御世のありさまなるべし。大藤内屋敷はいづこにかと尋侍りけるに、門戸たかく石垣よもにめぐりて、子孫猶めでたし。
浄留理にいへば夏野ゝ草まくら
今宵はなにがしの社家に宿して哥仙半におよぶ。七日又岡山に歸る。
梅林亭
窻に寐て雲をたのしむ螢哉」
吉備津宮は岡山の城下通り抜けてすぐの所にある。ウィキペディアには、
「岡山市西部、備前国と備中国の境の吉備中山(標高175メートル)の北西麓に北面して鎮座する。吉備中山は古来神体山とされ、北東麓には備前国一宮・吉備津彦神社が鎮座する。当社と吉備津彦神社とも、主祭神に、当地を治めたとされる大吉備津彦命を祀り、命の一族を配祀する。」
とある。
この日は朝から晴れたり曇ったりの天気で、晴れれば日が照ってかなり厚くなると思われたので、まずは笠を用意することになる。
舊白は「あやまたず」とあるから、普通に旅人が被っているような笠を持っていたようだ。
雲鹿の笠は緒がやけにきらびやかで、一体誰に借りたんだという感じだった。「ひとつ緒の俄あみ笠」は梅林の主人が被るような笠だった。ひょっとして女性用?
晩翠も多分かなり身分の高い僧だったのだろう。「供笠」という唐傘の柄がなくて直に被るようなものを被って現われた。多分真っ赤な傘で、光が透けて顔が赤く見えたのだろう。「夕影のかほもかゞやくばかり、かの祇園の火とぼしなめり」と言う。
ただ、紙の笠なので弱くて、風が吹いたらすぐ壊れてしまったようだ。
どの辺に泊まってたかはわからないが、吉備津宮に着く頃にはすっかり日も傾いていた。
「笹が迫(せまり)」は笹ヶ瀬川のこと。この辺りまで来るとカッコウの声が聞こえる。昔は閑古鳥(諫皷鳥)と言った。ここで一句。
俳諧師見かけて啼や諫皷鳥 支考
鶯、ホトトギス、雁、千鳥などは和歌にも漢詩にも俳諧にも頻繁に詠まれるが、閑古鳥の淋しさ一体誰が呼んだだろうか、とそれは芭蕉さんでした。
憂き我をさびしがらせよ閑古鳥 芭蕉
「八坂といふ所の橋」は今の矢坂大橋の辺りであろう。ここから笹ヶ瀬川を渡る。ここから吉備津宮はそう遠くない。吉備津宮のある辺りを吉備津山と言ったのだろう。
吉備津宮はもともと古代の吉備の国一之宮だったが、吉備の国が備前備中備後美作に分割されたため、この四国の一之宮になるわけだが、実際には備前と備中との境界線近くにあるため、備前備中の神として「一神二應」と呼ばれたのだろう。ウィキペディアには「吉備津神社は『吉備総鎮守』『三備一宮』を名乗る」とある。
まあそういうわけで、どこの国の神様ですかということで一句、
みじか夜やどなたの月に郭公 支考
最近御修覆があったというのは本殿のことで、ウィキペディアに、
「本殿 - 元禄10年(1697年)に岡山藩主の池田綱政による再建時のもの。桁行三間、梁間二間の流造で檜皮葺。岡山県指定文化財に指定されている。」
とある。支考が訪れた時は建てたばかりだった。鮮やかの朱色は「應化の影」という。「応化」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「応化」の解説」に、
「おう‐げ【応化】
〘名〙 仏語。仏、菩薩が世の人を救うために、時機に応じて、いろいろなものに姿を変えて現われること。応現。
※霊異記(810‐824)上「舟より道に下れば老公見えず。其舟忽に失せぬ。乃ち疑はくは、観音の応化なることを」
とある。神仏習合の時代ならではの発想だ。
「大藤内屋敷」は代々神職を務めてきた大藤内(「王藤内」とも書く:おうとうない)家の屋敷で、「門戸たかく石垣よもにめぐりて、子孫猶めでたし。」とこの頃は健在だった。支考が見たのは慶長年間に建てられた屋敷であろう。今は駐車場になっていて家宅跡の碑だけが建っている。
浄留理にいへば夏野ゝ草まくら 支考
浄瑠璃姫の屋敷をイメージしたのだろう。自分はここには泊まれず、旅の牛若丸を気取るか。
とはいえ、別の社家にこの日は泊まる。梅林亭という風流人の屋敷だったのだろう。
梅林亭
窻に寐て雲をたのしむ螢哉 支考
を発句として半歌仙興行を行う。翌日岡山に帰る。
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