まあ、誰もが自分の欲望を権利として主張すれば「万人の万人に対する戦い」になるということは18世紀の時代からわかってたことで、そのための社会契約ということで、相互に欲望を制限するために人権思想は生まれたわけで、無制限な権利の主張は結局社会契約を反故にし、社会を「万人の万人に対する戦い」に陥れることになる。そのために「わきまえる」ということは人間として最低限に必要なことだと思う。
現実にはいわゆる国家や法律や社会制度という形での社会契約は、実生活の細かなところまで立ち入ることはできない。大まかな枠組みを決めるだけで、あとは個々の生存の取引の場で戦わなくてはならない。人生は日々戦いだというのはそういうことだ。(愚案ずるに、ルソーの性善説は人間一人一人の生得的に持つ調整力が「万人の万人に対する戦い」を原始の段階から防いできたということだと思う。)
法による警察権力が私生活のこまごまとしたところまで介入すれば、それはそれで逆にディストピアだ。日本はそうしないためにも、個々の人間の「わきまえる」ということを大切にしていかなくてはならない。コロナ下の非常時では特に日本人の「わきまえ力」が試されている。なぜなら日本の法律はコロナを抑えるにはあまりにも無力だからだ。
それと昨日の「亀の甲」の巻の九句目だが、「鶯の寒き聲」を冬だと思って、それに釣られて雪の「かますご」も冬だと思ってしまったが、そのあとの春の「初花」が一句で終わってしまうため、「鶯の寒き聲」は早春としなくてはならない。「かますご」は晩春の季語だが、雪と合わせてここでも早春になり、次の「初花」で晩春に取り成される。
それでは「亀の甲」の巻の続き。
十三句目
心のそこに恋ぞありける
御簾の香に吹そこなひし笛の役 探志
箏か何かを弾きながらお付の者に下手な笛を吹かせることで、それを聞いた笛の上手い男がそれならと来てくれるのを期待しているのだろう。
十四句目
御簾の香に吹そこなひし笛の役
寐ごとに起て聞ば鳥啼 昌房
下手な笛だと思ったら鳥の声だった。御簾の香に笛の音は夢だった。
十五句目
寐ごとに起て聞ば鳥啼
銭入の巾着下て月に行 正秀
前句の鳥啼は本物の鳥ではなく夜鷹蕎麦か夜啼うどんであろう。コトバンクの「世界大百科事典内の夜鷹そばの言及」に、
「…夜間のそば行商がいつごろから始まったかは明確でないが,1686年(貞享3)には,めん類の夜売りが煮売り仲間から独立した業種として認められたばかりでなく,煮売りの筆頭にのし上がった。江戸ではこれを〈夜鷹そば〉,京坂では〈夜啼(よなき)うどん〉と称した。夜売りの期間は,陰暦9月から雛の節句である3月3日までと限られていたが,寛政(1789‐1801)末以降は期限が延びた。…」
とある。
十六句目
銭入の巾着下て月に行
まだ上京も見ゆるややさむ 及肩
夕暮れに何かの用で巾着を下げて行く。まだ薄明るくて上京の方が見える。
十七句目
まだ上京も見ゆるややさむ
蓋に盛鳥羽の町屋の今年米 野徑
「蓋」はここでは「かさ」と読む。『芭蕉七部集』(中村俊定校注、一九六六、岩波文庫)の注に「椀のふた」とある。鳥羽は伏見の鳥羽で水運の要衝だった。ここで運ばれてきた新米をお椀の上に掬って吟味しているのだろう。上京が見えるということで京都の南とし、ややさむの季節に今年米を付ける。
十八句目
蓋に盛鳥羽の町屋の今年米
雀を荷ふ篭のぢぢめき 二嘨
新米が荷揚げされる傍らで、米を食う害獣である雀が焼鳥にされるのか、駕籠に入れられて運ばれてゆく。「ぢぢめき」はぢっぢっぢっぢっぢっぢっと雀が鳴く様。
雀の焼鳥は今でも伏見稲荷の名物だという。
二表
十九句目。
雀を荷ふ篭のぢぢめき
うす曇る日はどんみりと霜おれて 乙州
「どんみり」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」に、
「〘副〙 (多く「と」を伴って用いる) 色合いなどが重くうるんでみえるさま、また、空模様が曇ってうす暗いさまなどを表わす語。どんより。どんめり。どみ。
※虎寛本狂言・附子(室町末‐近世初)「黒うどんみりとして、うまさうなものじゃ」
とある。「霜おれて」は霜で草が萎れてということ。
雀は冬の寒スズメが旨いという。
二十句目。
うす曇る日はどんみりと霜おれて
鉢いひならふ声の出かぬる 珍碩
「いひならふ」は言い慣れること。古語の「ならふ」は慣れるという意味がある。
鉢叩きはコトバンクの「デジタル大辞泉の解説」に、
「1 空也(くうや)念仏のこと。
2 空也念仏を行いながら勧進すること。また、その人々。江戸時代には門付け芸にもなった。特に、京都の空也堂の行者が陰暦11月13日の空也忌から大晦日までの48日間、鉦(かね)やひょうたんをたたきながら行うものが有名。《季 冬》「長嘯(ちゃうせう)(=歌人)の墓もめぐるか―/芭蕉」
とあり京の冬の厳冬期の風物だった。
日も射さず草木に霜の降りる寒い日は鉢叩きの口もうまく動かない。
二十一句目。
鉢いひならふ声の出かぬる
染て憂木綿袷のねずみ色 里東
前句を鉢飯習うに取り成して、出家したばかりで初めて托鉢に出る僧としたか。ねずみ色に染めた袷の僧衣を見るのも物憂くなる。
二十二句目。
染て憂木綿袷のねずみ色
撰あまされて寒きあけぼの 探志
「撰」は「より」と読む。自分の作った歌か句が撰に漏れて寒い朝を迎える。
二十三句目。
撰あまされて寒きあけぼの
暗がりに薬鑵の下をもやし付 昌房
まだ夜も明けないっ暗がりで薬缶の下の火を焚きつける。
二十四句目。
暗がりに薬鑵の下をもやし付
轉馬を呼る我まわり口 正秀
「轉馬」は『芭蕉七部集』の中村注に「伝馬」とある。コトバンクの「ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説」に、
「江戸時代,諸街道の宿駅に常備され,公用の人や荷物の継ぎ送りにあたった馬をいう。古代の駅制にも伝馬の制があったが,その後廃絶した。戦国時代,諸大名は軍事的必要から領国に宿駅を設置し伝馬を常置したが,制度的に確立したのは江戸時代である。徳川家康が慶長6 (1601) 年東海道,中山道に多くの宿駅を指定し,36頭ずつの伝馬を常備させたのが初めで,寛永 15 (38) 年幕府は東海道 100頭,中山道 50頭,日光,奥州,甲州各道中 25頭と定めた。伝馬を使用できるものは幕府の公用,諸大名,公家などの特権者であったが,これには無賃の朱印伝馬と定賃銭を払う駄賃伝馬の2つがあった。」
とある。
伝馬を呼ぶ声がするので夜明け前に薬缶の下の火を起こして準備する。
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