2021年5月11日火曜日

 今日は旧暦三月三十日。ようやく春も今日で終わり。
 コロナの方はあい変わらず高止まり状態だが、去年言っていて一週間後にはニューヨークだとか、最近言う日本印度化計画はなさそうだ。コロナと戦うのに武器(たけやり)はいらない、引き籠っていればそれでいい。
 前から時々言っている「生存の取引」については鈴呂屋書庫の「奥の細道─道祖神の旅─」のエピローグにもその基本的な考え方を書いていたので、そちらの方もよろしく。もう二十年も前に書いたものだが。
 それでは「麦をわすれ」の巻の続き、挙句まで。

 二十一句目。

   豕子に行と羽織うち着て
 ぶらぶらときのふの市の塩いなだ 荷兮

 イナダはブリの子で江戸時代後期の歌川広重の浮世絵『広重魚づくし いなだ・ふぐ・梅』で、河豚と梅を取り合わせているように冬のものだった。冷蔵庫のなかった時代は魚を保存するために干物にするか塩漬けにすることが多かった。それも今と比べるとかなり塩を多くして保存性を高めていた。
 玄猪の頃は塩イナダの季節になる。大きな魚ではないので市場では吊るされて売られていたのだろう。
 二十二句目。

   ぶらぶらときのふの市の塩いなだ
 狐つきとや人の見るらむ     越人

 昨日まで賑わっていた市が今日行ってみると跡形もなかったりすると、狐につままれたような気分になる。
 二十三句目。

   狐つきとや人の見るらむ
 柏木の脚氣の比のつくづくと   野水

 『源氏物語』若菜下巻に「みだりかくびやうといふもの、所せくおこりわづらひ侍りて」とあり、この「かくびやう」が脚気とされている。柏木は脚気だった。ただ、それは源氏の君ににらまれて体調を崩す前のことで、体調を崩してからは葛城山から招いた「かしこき行ひ人」や陰陽師などがきて女の霊とも物の怪とも言われたが、原因が特定できなかった。
 柏木は結局いわゆる「いい人」だったんだろうね。大体猫好きに悪い人はいない。だから恋の争いに利己的になることができず、結局自分すら守れなかった。
 二十四句目。

   柏木の脚氣の比のつくづくと
 ささやくことのみな聞えつる   荷兮

 特に柏木の登場する別の場面ということではなく、一般論として「隠し事はできない」ということで打越との本説から離れる。
 二十五句目。

   ささやくことのみな聞えつる
 月の影より合にけり辻相撲    越人

 「より合(あひ)」は人が集まること。相撲の「寄る」にも掛ける。みんなそれぞれ力士の批評をしたりするが、距離が近いからみんな本人に聞こえている。
 二十六句目。

   月の影より合にけり辻相撲
 秋になるより里の酒桶      野水

 辻相撲では見る方もやる方も酒が入ったりする。酒の入った桶も秋の辻相撲だけに「空き」になる。
 二十七句目。

   秋になるより里の酒桶
 露しぐれ歩鵜に出る暮かけて   荷兮

 「歩鵜」は「かちう」。ネット上の『「清流長良川流域の生き物・生活・産業」連続講座第1回今を生きる逞しき伝統美“鵜飼:川漁”講演録』に、

 「現在、私としては、鵜飼というのは、先ほどもこういうふうにしてパネルが出ておりますが、船の上で、それに乗って鵜飼をやるのがほとんどなんですけれども、鵜匠さんが川の中を歩きながらやる鵜飼、徒歩鵜飼(かちうかい)という鵜飼もございます。それが、山梨県は石和温泉笛吹川。現在やられておりませんが、和歌山県は有田川、有田鵜飼。この2か所だけが現在日本に残っておりますが、有田さんについては、ここ4、5年、経済的に難しいということでやっておられませんが、技術というのは残っているようです。私たちとしては残してほしいということが現状でございます。」

とある。かつては長良川でも行われたいたのだろう。
 前句の里で新酒ができる頃には、川では露時雨の中で歩鵜が行われている、とする。
 なお、貞享五年七月二十日名古屋で興行された「粟稗に」の巻の第三に、

   薮の中より見ゆる青柿
 秋の雨歩行鵜に出る暮かけて   荷兮

の句がある。
 二十八句目。

   露しぐれ歩鵜に出る暮かけて
 うれしとしのぶ不破の萬作    越人

 「不破の萬作(ばんさく)」はウィキペディアに、

 「不破 万作(ふわ ばんさく、「伴作」とも記す、天正6年(1578年)- 文禄4年(1595年))は、安土桃山時代の豊臣秀次の小姓。尾張国(愛知県西部)の生まれ。文禄4年(1595年)7月、秀次の切腹前に殉死したと伝えられている。享年17。」

とある。美少年として知られていて、後に天下三美少年の一人とされ、不破伴左衛門の名前で歌舞伎に登場することになる。
 露時雨の中で出かけて行く歩鵜の鵜匠は、実は不破の萬作の世を忍ぶ仮の姿だった。
 二十九句目。

   うれしとしのぶ不破の萬作
 かしこまる諫に涙こぼすらし   野水

 諫は「いさめ」。忠告のこと。遊び歩いてたのを秀次に諫められたということか。
 三十句目。

   かしこまる諫に涙こぼすらし
 火箸のはねて手のあつき也    荷兮

 有難い忠告に泪をこぼしたのかと思ったら、火箸が熱かったからだった。
 二裏。
 三十一句目。

   火箸のはねて手のあつき也
 かくすもの見せよと人の立かかり 越人

 手紙か何かだろう。慌てて隠そうとしたら火箸がはねた。やましいことがないなら火傷はしない。
 三十二句目。

   かくすもの見せよと人の立かかり
 水せきとめて池のかへどり    野水

 「かへどり」は『芭蕉七部集』の中村注に「水底をさらって土砂岩石を除くこと」とある。
 池に沈めて隠したものを見せろと言われて、入ってくる水をせき止めて池の水位を下げて、湖底をさらう。隠したのは盗んだお宝か、あるいは死体か。
 三十三句目。

   水せきとめて池のかへどり
 花ざかり都もいまだ定らず    荷兮

 平忠度の歌と『平家物語』が伝える、

 さざなみや志賀の都はあれにしを
     昔ながらの山桜かな
              よみ人しらず

の歌のことか。
 志賀の都の伝説はあっても、どこにあったのかは誰も知らない。琵琶湖の湖底をさらえば出てくるのではないか。
 大津京の位置が特定されたのは昭和五十三年のことだった。
 三十四句目。

   花ざかり都もいまだ定らず
 捨て春ふる奉加帳なり      越人

 奉加帳はウィキペディアに、

 「奉加帳(ほうがちょう)とは、寺院・神社の造営・修繕、経典の刊行などの事業(勧進)に対して、金品などの寄進(奉加)を行った人物の名称・品目・量数を書き連ねて記した帳面のこと。寄進帳(きしんちょう)とも呼ぶ。
 ‥‥略‥‥
 近世に入ると、一般の行事に際して行われる寄付に際して、寄付者とその内容の記載のために作成された帳面のことも奉加帳と呼ぶようになった。」

とある。
 新しい都を作るというので寄付を募って奉加帳に記載したが、春になっても都はできず、奉加帳だけが見捨てられたように残った。都造る詐欺か。
 三十五句目。

   捨て春ふる奉加帳なり
 墨ぞめは正月ごとにわすれつつ  野水

 前句の「捨(すて)て」を世を捨てたという意味にして、寄付を募る勧進聖になったが、正月が来るたびに寄付集めの仕事を忘れ、奉加帳だけが残る。
 挙句。

   墨ぞめは正月ごとにわすれつつ
 大根きざみて干にいそがし    荷兮

 正月が来ても歳を取るのを忘れたかのように、今年も元気に大根を刻んで、切干大根を干すのに精を出す。

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