今朝のラジオで紹介していた現代詩の一節、
教室はまちがうところだ
まきた しんじ
教室はまちがうところだ
みんなどしどし手を上げて
まちがった意見を 言おうじゃないか
まちがった答えを 言おうじゃないか
ネットでも同じだと思う。検索すればこの詩は全文読める。
昔書いた『奥の細道─道祖神の旅─』の尾花沢のところで、俳諧興行がなかったと書いたのは間違いだった。「すずしさを」の巻と「おきふしの」の巻の興行があったので訂正した。この二巻についてはカミングスーンね。
後から見て間違ってたと思うことは多い。だからといってそれを恐れていたのでは何も書けなくなってしまう。もちろんわざと間違った情報を流して人を騙すのはフェイクニュースだから、それは許されないが、「間違ってもいいから言う」というのは大事なことだと思う。
あと、『三冊子』を鈴呂屋書庫にアップしたのでよろしく。
それでは「梟日記」の続き。
2,須磨
「廿一日
兵庫の湊川を過て楠が古墳を見る。されば此士は文にあはれに武にたけかれしが、一子正行が櫻井の宿のわかれまでおもひ出られて、
鎧にも泣たもとあり百合の露
かの須磨の浦を過るほどは、此里の新茶ほすころにて、それもあはれに淋しとはおぼえられし。
關守もねさせぬ須磨の新茶哉
からす崎にいたりて頭をめぐらせば、須磨・あかしの眺望又こよなし。
山懸て卯の花咲ぬ須磨明石」
舎羅とは別れたとはいえ、当時の常識から言って一人旅ということはなく、誰か同行者はいたと思う。まずは芭蕉も行ったことのある須磨明石へ向かう。
湊川は神戸駅の近くでかつては湊川という川がこの辺りを流れていたという。今の湊川神社の場所にはかつては楠木正成公の塚があった。詳しくはネット上の 嶋津尚志さんの『楠木正成の墓からみる、英雄顕彰の一様相』にまとめられている。それによると貝原益軒の「楠公墓記」には、
「墓は平田の中に在り。榛莽蕪穢。挺隧無く。墓封無く。又、碑碣無し。塋上唯松梅二袾有り。悲
風蕭々。春風青々。」
とあるという。元禄四年には水戸光圀公によってる「嗚呼忠臣楠子之墓」の墓碑が立てられたので、支考は見ているだろう。
「一子正行が櫻井の宿のわかれ」はウィキペディアに、
「桜井の別れ(さくらいのわかれ)は、西国街道の桜井駅(桜井の駅、さくらいのえき)で、楠木正成・正行父子が訣別する逸話である。桜井駅で別れた後、正成は湊川の戦いに赴いて戦死し、今生の別れとなった。桜井の駅の別れ、桜井の訣別ともいう。」
とある。
桜井駅は今のJR京都線の島本駅の近くにあったという。その訣別の場面はウィキペディアに、
「桜井駅にさしかかった頃、正成は数え11歳の嫡子・正行を呼び寄せて「お前を故郷の河内へ帰す」と告げた。「最期まで父上と共に」と懇願する正行に対し、正成は「お前を帰すのは、自分が討死にしたあとのことを考えてのことだ。帝のために、お前は身命を惜しみ、忠義の心を失わず、一族郎党一人でも生き残るようにして、いつの日か必ず朝敵を滅せ」と諭し、形見にかつて帝より下賜された菊水の紋が入った短刀を授け、今生の別れを告げた。なお、訣別に際して桜井村の坂口八幡宮に菊水の旗と上差しの矢一交が納められ、矢納神社の通称で呼ばれた。」
とある。そんな話を思い起して一句。
鎧にも泣たもとあり百合の露 支考
ここから須磨はそう遠くない。古代のような藻塩焼く風景は芭蕉が来た時にもとっくに過去のものになっていた。あるのは茶畑で新茶を干す頃だった。そこで一句。
關守もねさせぬ須磨の新茶哉 支考
この句は言わずと知れた『小倉百人一首』でも知られている、
淡路島通ふ千鳥の鳴く声に
幾夜ねざめぬ須磨の関守
源兼昌(金葉集)
の歌を踏まえたもので、千鳥の鳴く声ではなくお茶のせいで眠れないとする。
からす崎はどこなのかわからない。あるいは芭蕉の『笈の小文』の、
「きすごといふをを網して、真砂の上にほしちらしけるを、からすの飛来(とびきた)りてつかみ去ル。是をにくみて弓をもてをどすぞ、海士のわざとも見えず。」
という鴉のいた浜のことかもしれない。
眺めが良い所なら鉄拐山から鉢伏山にかけてのどこかなのか。芭蕉も鉄拐山に登っている。支考も芭蕉の足跡を慕い、登った可能性はある。
山懸て卯の花咲ぬ須磨明石 支考
『猿蓑』の、
かたつぶり角振り分けよ須磨明石 芭蕉
の句も思い起こされる。
3,明石
「廿二日
播磨國
明石
詣人丸廟
おのへの松原は、この道より一里ばかり南にあり。高砂の松は江をへだてゝ、是より又十余町ばかりに見渡さる。いづれも見すつまじき風雅の地なり。
ほとゝぎす高砂おのへ二所帶
石ノ寶殿
曾禰ノ松」
さて、ここから先は芭蕉の見残しになる。
「詣人丸廟」は今の明石氏人丸町にある月照寺と柿本神社のあたりであろう。かつては人丸神社と呼ばれていた。ウィキペディアに、
「平安時代初期、弘仁2年(811年)に空海が現在の明石城本丸付近に当たる場所に楊柳寺と建てた事に始まる。楊柳寺は後に月照寺となる。仁和の頃(885年~889年)、住職の覚証が夢のお告げに従って柿本人麻呂を祀り、人丸社ができる。現在でも明石公園城跡に建つ西の隅櫓の前に円形の人丸塚が残っている。こうした神社と共存する月照寺のような寺院を宮寺または別当寺・神宮寺などと呼んだ。本来、神は仏が姿を変えて日本に来たという本地垂迹説があり、神と仏は一体であるという神仏習合の思想によるもので、神社の運営も神官と僧侶が共同で当たっていた。過去、月照寺に隣接している柿本神社と月照寺は一体であったが、明治維新後、明治政府は神社と寺院を分離する神仏分離令を出した。以後、月照寺と柿本神社は別の宗教法人となる。」
とある。
月照寺は元禄五年に才丸(才麿)も行っていて『椎の葉』に記している。そこには、
「松原をつゞきにあゆむに、日ははや海にかくれて山のはも見えぬあかしのとまりに入ぬ。先人麿の尊像を崇め置たる一宇をたづね登り、とし月の望みたりて今此岡にまうでける事よと後生の俳心をこらすに、感涙しきり也。
ほのぼのと御粧(おんよそほひ)や草の香」(『新日本古典文学大系71 元禄俳諧集』一九九四、岩波書店)
とある。月照寺・柿本神社は山陽電鉄人丸前駅の北の低い丘の上にある。
「おのへの松原は、この道より一里ばかり南にあり」というのは月照寺からではなく、山陽道を二里あまり北西の加古川宿まで行って、そこから南、正確には南西へ一里という意味であろう。
「高砂の松は江をへだてゝ、是より又十余町ばかりに見渡さる。」とあるように、ここからだと高砂の松は加古川の対岸になる。今は高砂神社になっていて、八代目の尾上の松があるという。
高砂の松と言えば謡曲『高砂』で、高砂の松を妻とし、大阪住吉の松を夫とする祝言で、
「高砂や、この浦船に帆をあげて、この浦船に帆をあげて、月もろともに出汐の、波の淡路の島影や、遠く鳴尾の沖過ぎて早や住の江に・着きにけり早や住の江に着きにけり。」(野上豊一郎. 解註謡曲全集 全六巻合冊(補訂版) (Kindle の位置No.1887-1890). Yamatouta e books. Kindle 版. )
の謡いはかつての結婚式の定番だった。
ここで支考が一句。
ほとゝぎす高砂おのへ二所帶 支考
松の夫婦とホトトギスの夫婦で二所帯ということか。ホトトギスの夫婦は托卵するから鶯の夫婦もいそうだが。
「石ノ寶殿」は山陽道の加古川を渡った先の生石神社(おうしこじんじゃ)にある。今はJR宝殿駅があり、そこを西へ行った高砂市総合運動公園の先にある。ウィキペディアに、
「生石神社(おうしこじんじゃ)は、兵庫県高砂市・宝殿山山腹にある神社である。石の宝殿と呼ばれる巨大な石造物を神体としており、宮城県鹽竈神社の塩竈、鹿児島県霧島神宮の天逆鉾とともに「日本三奇」の一つとされている。
石の宝殿は、国の史跡[1]で横6.4m、高さ5.7m、奥行7.2mの巨大な石造物。水面に浮かんでいるように見えることから「浮石」とも呼ばれる。誰が何の目的でどのように作ったかはわかっていない。」
とある。
「曾禰ノ松」はその先の今の山陽電鉄山陽曽根駅に近い曽根天満宮にある。ウィキペディアに、
「道真が手植えしたとされる松は霊松「曽根の松」と称された。初代は寛政10年(1798年)に枯死したとされる。1700年代初期に地元の庄屋が作らせた約10分の1の模型が保存されており、往時の様子を知ることができる。天明年間に手植えの松から実生した二代目の松は、大正13年(1924年)に国の天然記念物に指定されたが、昭和27年(1952年)に枯死した。現在は五代目である。枯死した松の幹が霊松殿に保存されている。」
とある。支考が行った時はまだ初代の松が健在だったようだ。
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