2021年5月22日土曜日

 パクロッシの方は60パーセントくらいまで読んだかな。香港の話になってきた。部外者の感覚だからか、本土派が一番わかりやすい。
 それでは『三冊子』の続き。最終回。

 「いな妻は宵の内ばかりのものゝやうに、連哥には云也。」(『去来抄・三冊子・旅寝論』潁原退蔵校訂、一九三九、岩波文庫p.150)

 俳諧では、

 電(いなづま)のかきまぜて行闇よかな 去来

のような句がある。貞享五年夏の「皷子花の」の巻十五句目、

   杖をまくらに菅笠の露
 いなづまに時々社拝まれて    芭蕉

の句も、暗がりの中に稲妻の度に社殿が現れるという句だ。

 「苗代の代といふは、かはるといふ義理也。去年の苗代地を不用して、新に作る所を好む義理也といへり。」(『去来抄・三冊子・旅寝論』潁原退蔵校訂、一九三九、岩波文庫p.151)

 苗代の語源の問題で、「しろ」には確かに「よりしろ」が霊を仮のものに乗りうつさせるように、仮に用いる、代用にする、という意味がある。その点からすれば、単に田植の前に仮の場所に植えるから「なわしろ」でいいような気もする。苗の育成地が常設地ではないというところから「しろ」という。

 「夕さりの事、さりさりて夕の間を云。冬さり、秋さり、みな初の秋冬にははいひがたき詞也といへり。」(『去来抄・三冊子・旅寝論』潁原退蔵校訂、一九三九、岩波文庫p.151)

 「夕さり」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「夕去」の解説」に、

 「〘名〙 (「さり」は来る、近づくの意を表わす動詞「さる(去)」の連用形の名詞化) 夕方になること。また、その時。夕方。夕刻。ゆうされ。ゆさり。〔新撰字鏡(898‐901頃)〕
  ※古今(905‐914)離別・三九七・詞書「あめのいたうふりければ、ゆふさりまで侍りて、まかりいでけるをりに」
  [語誌](1)上代では「夕(ゆふ)さる」という動詞形が使われていたが、中古にはその名詞形「夕さり」で夕方という時間帯を表わすようになった。同じ時代に類義の「夜(よ)さり」も使われているが、「夜さる」という動詞形は、上代には見られない。従って「夜さり」は「夕さり」の影響、または変化によって成立したものと思われる。類例に「ゆふだち(夕立)」が変化した「よだち」がある。なお、「ようさり」という形も中古に見られるが、これは「夜さり」「夕さり」のどちらから転じたのかは明らかではない。
  (2)主として仮名文学に現われるが、中世になると民衆の口頭語となっていたことが、キリシタン資料などからうかがえる。なお「日葡辞書」には「ようさり」「よさり」は採録されず「ゆうさり」だけが見える。
  (3)もともと時間帯を表わす語はその指し示す対象が曖昧であるが、この語も夕と夜の境の不分明や発音の類似などから、中世には「夜さり」との混同が起きている。本居宣長は、「今の俗言に、夜を夕さりとも夜さりとも云は」〔古事記伝‐二〇〕と近世には夜の意味で使われていることを記している。」

とある。
 「夕されば」は夕べが去ればではなく、夕べに去ればであろう。去るが近づくの意味になるのは、前の状態から今の状態に去るからだ。ただ、この用法の場合「さ・ある」で「去る」とは別の言葉だった可能性はないのだろうか。それだと「夕然り」になる。

 「夕まぐれといふ事、間は休め字也。暮てたそがれ迄の間をいふ。しばしの間、人の見ゆるか見へざるかの程をたそがれといふ。誰かれといふ義理也。むかしは人倫にする。いまはそのさたなし。」(『去来抄・三冊子・旅寝論』潁原退蔵校訂、一九三九、岩波文庫p.151)

 「休め字」は「休め言葉」でコトバンクの「デジタル大辞泉「休め言葉」の解説」に、

 「詩歌などで、特に意味はないが、調子を整えるために置く言葉。休め字。「山の山鳥」の「山の」のようなもの。」

とある。「夕間暮れ」の方はコトバンクの「デジタル大辞泉「夕間暮れ」の解説」に、

 「《「まぐれ」は「目(ま)暗(ぐれ)」の意。「間暮」は当て字》夕方の薄暗いこと。また、その時分。ゆうぐれ。」

とある。
 「たそがれ」の語源が「誰そがれ」というのは、今日世俗にも膾炙している。

 「はだれ雪、帷子雪、みな大ひら雪の事をいふと也。」(『去来抄・三冊子・旅寝論』潁原退蔵校訂、一九三九、岩波文庫p.151)

 はだれ雪はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「はだれ雪」の解説」に、

 「〘名〙 はらはらと降る雪。また、薄く降り積もった雪。はだらゆき。はつれゆき。はだれ。《季・春》
  ※主殿集(11C末‐12C前か)「はだれゆきあだにもあらで消えぬめり世にふることや物うかるらん」

とある。
 帷子雪は「精選版 日本国語大辞典「帷子雪」の解説」に、

 「〘名〙 薄く積もった雪。一説に薄く大きな雪片の雪。たびらゆき。だんびらゆき。《季・春》
  ※俳諧・竹馬狂吟集(1499)四「見えすくや帷雪のまつふぐり」
  [補注]「淡雪」に準じて、初期俳諧の頃は冬の季語であったが、今日では春の季語とされる。」

とある。
 「大ひら雪」は太平雪(たびらゆき)であろう。コトバンクの「精選版 日本国語大辞典「太平雪」の解説」に、

 「〘名〙 (「だひらゆき」「だびらゆき」とも) 春先に降る淡くて大きな雪片の雪。だんびら雪。かたびら雪。《季・春》 〔名語記(1275)〕
  ※俳諧・鷹筑波(1638)四「声なふて空行鷺や太平雪(ダヒラゆき)〈政之〉」

とある。
 帷子雪は中世連歌の「寛正七年心敬等何人百韻」五十句目に、

   侘びぬれば冬も衣はかへがたし
 かたびら雪は我が袖の色     心敬

の句がある。この場合は冬。寛文の頃の芭蕉の句にも、

 霰まじる帷子雪は小紋かな    宗房

の句がある。
 薄雪は冬、淡雪は春なので、帷子雪は薄雪の扱いになるのだろう。薄雪は薄く積る雪、淡雪は淡く残る雪になる。享禄三年(一五三〇年)の「守武独吟俳諧百韻」の五句目に、

   かすみとともの袖のうす帋
 手習をめさるる人のあは雪に   守武

の句があるように、淡雪は古くから春だった。ただ、『炭俵』の「ゑびす講」の巻十句目の、

   ひだるきハ殊軍の大事也
 淡気(け)の雪に雑談もせぬ   野坡

の「淡気の雪」は冬になる。『俳諧七部集弁解』(著者不明、年次不明)には「みぞれ」のこととある。

 「すぐろの薄、やけ野に燒殘より芽の出るをいふと也。」(『去来抄・三冊子・旅寝論』潁原退蔵校訂、一九三九、岩波文庫p.151)

 「すぐろの薄」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「末黒の薄」の解説」に、

 「野焼きのすすきの穂先が焦げて黒くなったもの。また、末黒野(すぐろの)に新しく萌え出たすすき。《季・春》
  ※後拾遺(1086)春上・四五「粟津野のすぐろの薄つのぐめば冬たちなづむ駒ぞいばゆる〈静円〉」

とある。末黒野は野焼きの後の黒くなった野で、「やけ野に燒殘より芽の出」は後者の意味になる。

 「かつこ鳥、かんこ鳥、二鳥同じ鳥の事也。」(『去来抄・三冊子・旅寝論』潁原退蔵校訂、一九三九、岩波文庫p.151)

 今日でいうカッコウのこと。「かんこ鳥」は閑古鳥。

 憂き我をさびしがらせよ閑古鳥  芭蕉

の句がある。

 「氷の衣といふ事は、氷のうちにかいこ有て糸なをなすと、無き事を佛道にいひたるより出たる也といへり。」(『去来抄・三冊子・旅寝論』潁原退蔵校訂、一九三九、岩波文庫p.151)

 氷の衣はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「氷の衣」の解説」に、

 「① 氷におおわれた衣。火に焼けず水にぬれないという。
  ※俳諧・三冊子(1702)黒双紙「氷の衣といふ事は、氷の内にかいこ有て糸をなすと、無き事を仏道にいひたるより出たる也といへり」
  ② 氷のはったさまを、衣服が物をおおい包むのにたとえていう。《季・冬》
  ※俳諧・毛吹草(1638)六「水ばりに張は氷の衣かな〈光有〉」
  ③ 月の光に照らされて白く光る衣を氷にたとえていう。氷のようにすきとおった衣。
  ※夫木(1310頃)三三「夏の夜の空さえわたる月かげに氷の衣きぬ人ぞなき〈源仲正〉」

とある。
 「氷のうちにかいこ有て」は「氷の蚕」のことだろうか。weblio辞書の「季語・季題辞典」に、

 「中国の想像上の虫。滝の糸長く氷るのをこの蚕のせいと疑われた
  季節 冬」

とある。氷の衣は存在しない架空の衣ということか。

 「侘と云は、至極也。理に盡たる物也と云。」(『去来抄・三冊子・旅寝論』潁原退蔵校訂、一九三九、岩波文庫p.151)

 『去来抄』はさび、しほり、ほそみについてはあるが「わび」については言及がない。今日「わびさび」と言ったりするが、この二つを一緒に論じたものはない。
 「わぶ」というのは元は「下がる」という意味で、頭を下げる、身を低くするから「侘びを入れる」になるし、落ちぶれるということから「侘び人」つまり乞食の意味になる。これが謙虚さ質素さという美徳と結びつく。
 ウィキペディアによると、

 「侘の語は、先ず「侘び数寄」という熟語として現れた。これは「侘び茶人」つまり「一物も持たざる者、胸の覚悟一つ、作分一つ、手柄一つ、この三ヶ条整うる者」(『宗二記』)[7]のことを指していた。「貧乏茶人」のことである。宗二は「侘び数寄」を評価していたので、侘び茶人すなわち貧乏茶人が茶に親しむ境地を評価していたといえる。千宗旦(1578-1658)の頃になると侘の一字で無一物の茶人を言い表すようになり、やがて茶の湯の精神を支える支柱として侘が醸成されていったのである。
 ここで宗二記の「侘び」についての評価を引用しておこう。「宗易愚拙ニ密伝‥、コヒタ、タケタ、侘タ、愁タ、トウケタ、花ヤカニ、物知、作者、花車ニ、ツヨク、右十ヶ条ノ内、能意得タル仁ヲ上手ト云、但口五ヶ条ハ悪シ業初心ト如何」とあるから「侘タ」は、数ある茶の湯のキーワードの一つに過ぎなかったし、初心者が目指すべき境地ではなく一通り茶を習い身に着けて初めて目指しうる境地とされていた。この時期、侘びは茶の湯の代名詞としてまだ認知されていない。」

とあるように、茶道に起源があるようだ。
 侘びはいわゆる禁欲というよりは、天を恐れ身を慎むこと、つまり人為の限界をする、西洋で言う「無知を知る」ということに近いと思う。それが日本の一君万民の体制と結びついて、王になるのではなく臣下としての徳を積むこととも結びついているのではないかと思う。
 永遠の命を求めず、不変の真理を求めることなく、絶対的な支配(アルケー)を求めない、あくまで慎むことに美を求めることが「侘び」につながっているのではないかと思う。それゆえ至極であり、朱子学の「理」に通じる。理に通じるものは即ち「風雅の誠」に他ならない。

 「若なの發句は、初春七日の跡三日の内也。平句には初春の内にはくるしからずと連哥にいひ來るとあり。」(『去来抄・三冊子・旅寝論』潁原退蔵校訂、一九三九、岩波文庫p.151)

 若菜は正月行事の初子の日の若菜摘に由来するもので、コトバンクの「世界大百科事典内の若菜摘みの言及」に、

 「平安時代,正月初めの子の日に貴族たちが楽しんだ野遊び。小松の根引き(小松引き)や若菜摘みなどが行われたが,これらは年頭にあたって,松の寿を身につけたり,若菜の羮(あつもの)を食して邪気を払おうとしたものと思われる。」

 「後世これらを七草粥にして正月7日に食べた。若菜は初春の若返りの植物であり,古くは正月初子(はつね)の〈子の日の御遊び〉に小松引きや若菜つみを行い,それらを羹(あつもの)にして食べたりしたが,のちに人日(じんじつ)(正月7日)に作られるようになった。」

とある。それゆえに若菜は初春七日の題材で、七日から三日以内になる。付け句では初春の題材として扱う。

 「霞は夜と晝は似ぬもの也。夜の朧といふ事なし。月星に結びてするよし、連哥にあり。」(『去来抄・三冊子・旅寝論』潁原退蔵校訂、一九三九、岩波文庫p.152)

 霞は山など遠くの景色の霞むさまで、昼などは朝や夕べも含めて景色に詠む。夜の場合は月や星の霞むさまで、真っ暗な夜空そのものが霞んだり朧になったりはしない。今日のように街の灯りがまぶしければ、それが霞む空に映ることもあるが、昔はそのような現象はなかった。

 「月の影と上の句、下の句に留らずと連ニ有。いざよふ月。又月に不限、日ぞいざよふなどゝ云は、聳物に日の影へだちたる也。聳物なくては云がたし。又人をいざよふ、倡也。雲や浪をもいふと連書にあり。」(『去来抄・三冊子・旅寝論』潁原退蔵校訂、一九三九、岩波文庫p.152)

 「月の影」は月の光のこと。古語では光のことも影と言った。
 「いざよふ月」は昇るのの遅い月、十六夜のことをいう。「月のいざよふ」はなかなか沈まないで残っていることをいう場合もある。
 「日ぞいざよふ」は特殊な言い回しであろう。日の影が聳物によって遮られることだという。聳物は雲、霧、霞、靄、煙などがある。
 また、「人をいざよふ、倡也。雲や浪をもいふ」というのも特殊な用法であろう。「倡」には「イザナフ」とルビがある。「ためらう」という意味の「いざなふ」と「さそう」という意味の「いざなふ」が混同されたのではないかと思う。

 「師のいはく、大方の露には何のなりぬらんたもとにおくは涙也けり、此うたは鴫立澤に勝ツ哥也。面白しと也。」(『去来抄・三冊子・旅寝論』潁原退蔵校訂、一九三九、岩波文庫p.152)

 これは、

 おほかたの露にはなにのなるならむ
     袂におくは涙なりけり
              西行法師(千載集)

の歌をいう。自然の露と袖の露を区別して、いわば只露に対しての心の露、露の本意を表したといっていいだろう。
 「やまとうたは人の心をたねとして」と古今集の仮名序にもあるとおり、歌は心を述べるもので、物を描写するだけのものではない。物(虚)を通じて心(実)を表すというのは西行の時代から芭蕉の時代までの一貫した考え方だった。
 十八世紀の中頃、このエピステーメは大きく変動し、蕪村や賀茂真淵以降の国学は近代に属する。西行と芭蕉との距離は芭蕉と蕪村の距離と比べても遥かに近かったと思う。
 『三冊子』はこのあと手紙の書き方になるので、この辺りは省略する。

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