今日も雨。
コロナのワクチン接種は今週に入って若干ペースが上がった。五月十七日一日で46万人なら、週で二百五十万くらいまで行く。(高齢者向けは毎日だが医療従事者向けは土日が休み。)十八日の時点で約710万。これでも今月中の一千万は行くか行かないかだ。
安田峰俊さんの『八九六四 完全版 「天安門事件」から香港デモへ』(二〇二一、角川新書)を読み始めた。民主化闘争の難しさに思想的な指導者がいなくてばらばらだという問題があるという。まあ、ばらばらでいいというのが民主主義で、それを統一したら独裁になってしまうから、当然と言えば当然だが。
基本的に民主化闘争は各自の感情や欲望によるもので、一致した思想や要求がないというところを欠点とみなしてはならない。
日本が非西洋圏で珍しく民主化に成功したのは、日本人が思想的にならなかったからだ。
明治の開国から戦後に至るまで、日本には目立った指導者は一人もいなかった。
指導者は必ず独裁を生む。ミャンマーの失敗もいつまでもあの女史を担いでいたからだ。指導者がいなくても何となく収まるようなところまで成熟しなくてはならない。
西洋ではおそらくそうした民衆の間での意識の高まりが先にあって、そこからいろいろな思想家が生まれたのだと思う。非西洋圏では、そうやってできた西洋の思想を植え付けることから民主化を始めようという誘惑にかられるが、実はそれこそが独裁を生む元になる。開明君主がその国の独裁体質を作ってしまう。
日本は徳川幕府が終わり大政奉還をしたときに、特に西洋哲学の影響というのでもなく「廣ク天下之公儀ヲ盡シ」という形になった。この時明確なリーダーがいなかったことが、その後の日本の運命を決めたのかもしれない。だから、これから民主化しようという国に必要なのは明確な思想でも優れたリーダーでもない。
まあ、それはそうと鈴呂屋書庫に「其かたち」の巻をアップしたのでよろしく。
それでは『三冊子』の続き。
「一とせ大和の法隆寺に、太子の開帳有。その頃、太子の冠見おとし侍るとて、後の開帳に又趣れし也。かゝる古代のものを心にかけて、旅立れし師の心のほど思ひやるべし。」(『去来抄・三冊子・旅寝論』潁原退蔵校訂、一九三九、岩波文庫p.145)
ネットで見たら「太子ゆかりの寺宝が過去最大規模で一挙公開 特別展『聖徳太子と法隆寺』」というのが目に入った。今でも法隆寺の秘宝の特別開帳は時々あるようだが、それとは別に奈良国立博物館と東京国立博物館で特別展があるようだ。そのポスターにもなっている国宝 聖徳太子および侍者像の聖徳太子は立派な冠を被っているが、これのことだろうか。
芭蕉は『野ざらし紀行』の旅の時にも『笈の小文』の旅の時にも奈良に行っているし、最後の旅でも奈良に立ち寄っている。伊賀から奈良は近いので、その他にも行く機会があったかもしれない。
「ある禪僧、詩の事をたづねられしに、師の曰、詩の事は隱士素堂といふもの、此道にふかき好ものにて、人も名をしれる也。かれつねに云、詩は隱者にふかき好ものにて、人も名をしれる也。かれつねに云、詩は隱者の詩、風雅にて宜と云と也。」(『去来抄・三冊子・旅寝論』潁原退蔵校訂、一九三九、岩波文庫p.145)
禅僧が誰なのかはよくわからない。伊賀の禅僧か。漢詩のことは芭蕉もそれほど詳しくないのか素堂が常に隠者の詩の風雅が大事だと言っていると答えている。
「師のいはく、定家卿五首の秘哥に、こぬ人を入るといふ説あり。この秘といふはたゞ難なき哥を出したる所をいふと也。撰者の身として、すぐれたる哥もおとなしかるまじとの心遣ひ也。難ある哥も猶いかゞ也。この心得を秘といふとなり。能見せしめ也と師もいへるなり。」(『去来抄・三冊子・旅寝論』潁原退蔵校訂、一九三九、岩波文庫p.145~146)
久保田正文さんの『百人一首の世界』に、
「定家卿五首の秘歌」というのは、徳川時代初期に、二条家において成立した秘伝で、「百人一首五歌の秘事」とも言われ、人麿の「〈3〉あし曳の」、仲麿の「〈7〉あまの原」、喜撰の「〈8〉わが庵は」、忠岑の「〈30〉ありあけの」、定家の「〈97〉こぬ人を」の五首をさすものである。」
とある。
ネット上の大坪利絹さんの『百人一首秘訣』には、
二条家
一あし引の山鳥の尾の 人麿
山鳥ハ和國の賢鳥也。雌雄尾をへたてゝぬるものなれハ序哥なから甚深の心をふくめり 是ハ其夜をさしてよめる哥にハあらす 明ル日よめる也 又来ん夜も獨あかさんよと 夜のなかき事をおもひ入よめるなり
一天の原ふりさけミれハ 仲麿
此作者天文道をきハめ天地を手のうらに提けたる人なれハ 身ハ明州萬里のあなたにありなから 故郷の三笠山の月 端的に心にうかひてあらはれたる也 哥道も天地も心をめくらし手裡におさむる道理を工夫すへしとそ
一わか庵ハミやこのたつミ 喜撰
世ハ色受想行識にひかれて六塵の宇治山と人ハいふ也 仍て我もさうそ思ひえて 一念もおこらぬ心王を 何とそして本覚法身の王舎城にすませたく思へハ この宇治山にすむと也 さて六塵にもけかれねハ 都のたつミをのつから王舎城となる也 五蘊もをのつから本覚真如の都となる也 所詮迷悟ハ只一心にあるとさとるへきの教也
一晨明のつれなく見えし 忠峯
曉はかりに對してよめる也 宵ならハ何とそしてわひてもミむに曉ほとうき物ハなしと也 不逢皈恋と見る事當流のこゝろなり
一こぬ人をまつほのうらの 定家
此哥古事をふまへてよめるを傳にする也 印の烟の古事なり
とある。
芭蕉によれば、この「来ぬ人」の歌を入れたのは難なき歌だからで、この心得を秘というという。必ずしも優れた歌を選んだわけでもなく、かといって難有る歌を入れるわけにもいかない。
なお、「印の烟の古事」
立ち別れいなばの山の峰に生ふる
まつとし聞かば今帰り来む
在原行平(古今集)
の古事のことであろう。
「伊勢が哥の、としをへて花の鏡となる水は、とある此五文字なくても下ばかりにて哥よく聞へたり。此五文字、年々水清くすみて水のかはらざるに、花のちりかゝるを曇といへる也。五文字粉骨の哥なりと師のいへる也。」(『去来抄・三冊子・旅寝論』潁原退蔵校訂、一九三九、岩波文庫p.146)
この歌は、
年をへて花の鏡となる水は
散りかかるをや曇るといふらむ
伊勢(古今集)
の歌で、最初の「年をへて」がなくても意味が通じる。
芭蕉はこれを、上五がなかなか決まらない発句と同じに考えたのだろう。『去来抄』にも「雪つむ上のよるの雨」の上五がなかなか決まらなくて、芭蕉が「下京や」にして「若まさる物あらバ 我二度俳諧をいふべからず」と言ったというエピソードが記されている。
これは、「花の鏡となる水は散りかかるをや曇るといふらむ」にどのような上五を乗せるという問題だ。それだけに「年をへて」はよくぞ見つけたり、ということになる。
「涙川たへずながるゝうき瀨にもうたかた人にあはで消めや、この哥の、うたかたは、むしろといふ字、何ンぞといふ字二説あり。義理は何ンぞ也。なんぞ人にあはできへんと也。されども、定家卿の云、何ンぞと義理を結で見るべからず、いやしき也。うたかたはたゞ水のことにいはんと思ひていへる計と聞べしと也。亡師も義理を詰るはいやしといへる、おもしろしと也。」(『去来抄・三冊子・旅寝論』潁原退蔵校訂、一九三九、岩波文庫p.146)
この歌は見つけることができなかった。
「うたかた」はweblio古語辞典の「学研全訳古語辞典」に、
「[一]名詞
(水に浮かぶ)あわ。多く、はかないもののたとえに用いられる。
出典方丈記
「淀(よど)みに浮かぶうたかたは、かつ消えかつ結びて、久しくとどまりたる例(ためし)なし」
[訳] (川の)流れの滞っている所に浮かぶ水のあわは、一方では消え、同時に一方ではできて、そのまま(川の面に)長くとどまっている例はない。
[二]副詞
少しの間。「うたがた」とも。▽あわが、はかなく消える意から。
出典源氏物語 真木柱
「ながめする軒のしづくに袖(そで)ぬれてうたかた人を偲(しの)ばざらめや」
[訳] 長雨が降る軒のしずくとともに、もの思いに沈む私は袖をぬらしながら、少しの間でもあなたを思い出さずにはおられましょうか。」
とある。この場合は[二]副詞の意味ではなく[一]名詞の意味だということだろう。
藤原定家の『拾遺愚草』には、
いづみ河かはなみきよくさすさをの
うたかたなつをおのれけちつつ
きえぬべし見ればなみだのたきつせに
うたかた人のあとをこひつつ
今はただわが身ひとつのおもひ河
うたかたきえてたぎつしらなみ
の三つの用例がある。
「古今の序に、哥人のうたざまをおのおの難じたるやうに貫之の書なせる也。師のいはく、難じたるにあらず、その人々の粉骨の所を見顯し賞したる所也。喜撰法師の曉の雲の事、我庵はの哥すへ、人はいふ也とあるあたり也。いくたびも可味と也。」(『去来抄・三冊子・旅寝論』潁原退蔵校訂、一九三九、岩波文庫p.146~147)
『古今和歌集』仮名序の喜撰法師のくだりは、
「宇治山のそうきせんは、ことばかすかにして、はじめ、をはり、たしかならず。いはば、秋の月を見るに、あかつきのくもにあへるがごとし。
わがいほはみやこのたつみしかぞすむ
世をうぢ山と人はいふなり
よめるうた、おほくきこえねば、かれこれをかよはして、よくしらず。 」
で、まあ確かに「わが庵は」と自己紹介のように見えて最後に「人はいふなり」では、本当はどうなんだになってしまう。そこのぼやかした言い方が粉骨であって、余韻になる。それが「曉の雲」に喩えた紀貫之の意図だというのだろう。
「かさゝぎの哥は、夜をうば玉といふより、かさゝぎの橋と夜るくらき空の事をよめる也。空の事を天のうきはしなど橋にいひたること多し。たゞ夜のくらき空をたる趣向、此うたばかり也。趣向の本所かはりたるをほめたる儀なり。」(『去来抄・三冊子・旅寝論』潁原退蔵校訂、一九三九、岩波文庫p.147)
カササギというと『百人一首』にもある、
かささぎの渡せる橋に置く霜の
白きを見れば夜ぞふけにける
中納言家持(新古今集)
の歌が今日ではよく知られているが、これは霜を詠んでいて「たゞ夜のくらき空をたる趣向」ではないように思える。同じく、
鵲の雲のかけはし秋暮れて
夜半には霜や冴えわたるらむ
寂蓮法師(新古今集)
も霜を詠んでいる。家持の歌を本歌とした歌だろう。
ここで言う「かさゝぎの哥」はひょっとしたら今日茶道具に用いられている、
長き夜にはねを並ぶる契とて
秋まちわたる鵲のはし
藤原定家(拾遺愚草)
のことかもしれない。
この歌なら霜もなければ雲も詠まれていない。「鵲のはし」はただ夜の暗き空の意味になる。
「濱庇は高眞砂の崩かゝりたるが、ひさしのごとくなるとなり。又濱にある家、笘屋などの類ともいへり。定家卿哥に、後鳥羽の院熊野へ行幸の供奉に新宮へ三首の哥あり。題庭上冬菊といふにえて、霜おかぬ南の海のはまひさし久しく殘る秋のしら菊、と讀り。此哥は濱家のひさし也。しからねば、庭の字落題也、浪間より見ゆるおしまのはまひさし久しくなりぬ君にあひみて、是は久しきといはん枕詞也。序哥也。」(『去来抄・三冊子・旅寝論』潁原退蔵校訂、一九三九、岩波文庫p.147)
「浜庇(はまびさし)」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「浜庇」の解説」に、
「① (「万葉集」の「浜久木(はまひさぎ)」を読み誤ってできた語という) 浜辺の家の庇(ひさし)。
※伊勢物語(10C前)一一六「浪間より見ゆる小島のはまひさし久しくなりぬ君に逢ひ見で」
② 海辺の苫屋(とまや)。漁師の粗末な家。浜屋。
※浮世草子・日本永代蔵(1688)二「昔日は浜(ハマ)びさしの住ゐせしが」
[補注]①については、「日葡辞書」の説明などから、浜辺に打ち寄せる波が砂をえぐって庇のように見える部分ともいわれ、「俳・三冊子‐わすれ水」にも「浜庇は高砂の崩かかりたるが庇のごとく成るとなり」とある。」
とある。「濱庇は高眞砂の崩かゝりたるが、ひさしのごとくなるとなり。」というのはこのどちらでもない。三日月型砂丘のことと思われる。
庭上冬菊
霜おかぬ南の海のはまひさし
久しく殘る秋のしら菊
藤原定家(拾遺愚草)
の句は浜辺の家の庇で、そうでなければ「庭上冬菊」という題の「庭」という要件を満たさない。
ちなみに新宮の三首の歌のあと二首は、
海辺残月
わたつうみもひとつに見ゆるあまのとの
あくるもわかずすめる月影
藤原定家(拾遺愚草)
暁聞竹風
あけぬるか竹のは風のふしながら
まづこのきみのちよぞきこゆる
同
になる。
もう一首の、
浪間より見ゆるおしまのはまひさし
久しくなりぬ君にあひみて
の歌は『伊勢物語』一一六段の歌で、これは「久し」を導き出す枕詞(今の古典教育だと「序詞」)だという。
ありがとうございます。
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