2021年5月28日金曜日

 コロナの方は新規感染者数は沖縄を除いてピークアウト、実効再生産数は全国で0.84、ワクチン接種は約1120万回、この辺は希望が持てる。死者の方は大体一か月遅れで増えるので、今月中に1万3000人は越えるだろう。
 まあ、去年は何十万人もの人が死ぬかもしれないと言ってから、それに比べればましな状況になったが、東日本大震災の死者数1万5899人は六月か七月かには上回ることになるだろう。まだまだ戦いは続く。
 あと、「御尋に」の巻を鈴呂屋書庫にアップしたのでよろしく。
 それでは「梟日記」の続き。

13,竹原への船路

「十六日
   備後國
  宿福善寺
 此日尾道より小舟に棹して、安藝の竹原といふ處にわたる。道のほど八里ばかり也。青巒の影左右につらなりて江上の望遠からず。淨土寺の塔は松の木間にかくれて、千光寺の塔はこなたの雲にそびゆ。西湖の風月・煙雨の樓臺すべてこのまのあたりをさらず。舟は静にして座せるがごとく、かたはしに苫屋形ふきよせたれば、東坡が赤壁の繪を見るやうにぞ侍る。をりふし酒もあり肴もありて、このふねとぼしからず。殊に年老たる船頭の物いはぬ顔のおかしければとて、たゞ醉によひふしね。かくて楓橋の夢もさめて、夕陽のかけみねにかゝれば、三原の城は松の麓にかゞやきて、鳥の聲もきこゆばかり也。されば此あたりあしか泻ともいひ、能地の浦とかや浮鯛の名所なるよし、かねて人のかたり申されしが、世に櫻鯛の名はありながら、この魚のいろのみよく照りて、風味又よのつねならずと。かの松江のすゞきは、あたまにては侍らざらん。
 浮鯛の名やさくら散三四月」

 尾道から船で竹原へ向かう。八里という道のりは今の地図上を見ても大体あっていると思う。「巒」は峰のことで、青い木木の鬱蒼と茂った山が海の左右に連なって、遠くの方は見えにくい。右側は山陽の山が連なり、左側は向島、岩子島、因島、佐木島、高根島などが並ぶ。
 今の尾道駅の辺りから船に乗ったのなら、転法輪山浄土寺は岡山側に逆戻りすることになる。船から浄土寺が見えたのなら、船はやはり今津宿か、その辺りかから出てたのだろう。これだと海に出て、やがて向島との間の狭い水路を進み、すぐに右側に浄土寺が見えてくる。ウィキペディアには、

 「浄土寺(じょうどじ)は、広島県尾道市東久保町にある真言宗泉涌寺派大本山の寺院。山号は転法輪山(てんぽうりんざん)。院号は大乗院。本尊は十一面観音で、中国三十三観音霊場第九番札所である。」

 「推古天皇24年(616年)、聖徳太子が開いたとも伝えられる。」

とある。浄土寺の多宝塔は、ウィキペディアに、

 「 嘉暦3年(1328年)建立の和様の多宝塔。中国地方における古塔の一つとして、また鎌倉時代末期にさかのぼる建立年代の明らかな多宝塔として貴重。」

とある。松の木間からちらっと見えるだけだったか。
 千光寺は浄土寺の少し先の大宝山の中腹にある。ウィキペディアに、

 「千光寺(せんこうじ)は広島県尾道市東土堂町の千光寺公園内にある真言宗系の単立寺院。山号は大宝山(たいほうざん)。本尊は千手観音。中国三十三観音第十番札所、山陽花の寺二十四か寺第二十番札所である。
 境内からは尾道の市街地と瀬戸内海の尾道水道、向島等が一望でき、ここから取られた写真がよく観光案内などに使用されている。」

とある。大同元年(八〇六年)の創建になる。
 「千光寺の塔」は天寧寺の塔であろう。ウィキペディアに、

 「天寧寺三重塔:1388年(嘉慶2年)に足利義詮が五重塔として建立。元禄5年(1692年)老朽化したため上部の2層(四重目・五重目)を取り除き、現在の三重塔(高さ約20m)の姿になった。」

とある。支考の来た時には既に三重塔になっていたが、「こなたの雲にそびゆ」ように見えた。
 「西湖の風月」は中国の杭州にあり、白楽天の「銭塘江春行」の詩でも知られている。「煙雨の樓臺」は杜牧の、

   江南春望   杜牧
 千里鶯啼緑映紅 水村山郭酒旗風
 南朝四百八十寺 多少楼台煙雨中

 千里鶯鳴いて木の芽に赤い花が映え
 水辺の村山村の壁酒の旗に風
 南朝には四百八十の寺
 沢山の楼台をけぶらせる雨
 
であろう。
 さて、支考、除風、雲鈴の三人の乗っている船だが、「舟は静にして座せるがごとく」とあるからそんなに小さな船ではないだろう。「かたはしに苫屋形ふきよせ」とあり、小さなキャビンがある。
 「東坡が赤壁の繪を見るやうに」は蘇軾の『前赤壁賦』であろう。

 「壬戌之秋、七月既望、蘇子與客泛舟、遊於赤壁之下。清風徐来、水波不興。挙酒蜀客、誦明月之詩、歌窈窕之章。少焉月出於東山之上、徘徊於斗牛之間。白露横江、水光接天。縦一葦之所如、凌萬頃之茫然。」
 (壬戌の年の秋、七月の十六夜、蘇子は客と船を浮かべ、赤壁のもとに遊ぶ。涼しい風が静かに吹くだけで波もない。酒を取り出して客に振る舞い、明月の詩を軽く節をつけて読み上げ、詩経關雎の詩を歌う。やがて東の山の上に月が出て射手座山羊座の辺りをさまよう。白い靄が長江の上に横たわり、水面の光は天へと続く。小船は一本の芦のように漂い、どこまでも広がる荒涼たる景色の中を行く。)

の情景は芭蕉が、

 ほととぎす声横たふや水の上   芭蕉

の句を詠んだ時にイメージに合ったもので、元禄六年四月二十九日付の荊口宛書簡に、「水光接天、白露横江の字、横、句眼なるべしや。」とある。支考もこの句を思い出したのではないかと思う。
 「をりふし酒もあり肴もありて」とあるから、昼間っから酒盛りが始まったのだろう。そして、今の慰安旅行でもよくあるパターンだが、午前中に酒飲んで盛り上がると、大体午後にはみんな寝てしまう。
 「楓橋の夢」は、

   過楓橋寺   孫覿
 白首重來一夢中 靑山不改舊時容
 烏啼月落橋邊寺 欹枕猶聞半夜鐘

 白髪になってもずっと見続けている同じ夢
 青々とした山は変わず昔のままさ
 鳥が鳴いて月が落ちて橋の傍の寺
 眠るともなく床の中で聞こえる鐘はもう夜中

の詩で、まあいつまでも若いと思ってたら時はあっという間に過ぎ去り、ということになる。酔っ払って寝ていたら、いつの間にか三原を過ぎていた。ただまだ竹原までの半分くらいしか進んでいない。「夕陽のかけみねにかゝれば」はかなり盛ってるのではないか。三原城が見えたのなら、まだせいぜい須波の辺りだろう。
 ここから左側に佐木島、高根島を見て過ぎる辺りが「能地の浦」になる。今でも「三原市幸崎町能地」という地名が残っている。浮鯛神社があり、海流の関係で深海にいる鯛が浮かび上がってくるという。浮き鯛はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「浮鯛」の解説」に、

 「〘名〙 桜の花の咲く頃に海面に群がり浮き上がってくる鯛。鯛類は比較的深い所にいるが、潮流などの影響で急に水圧が減少し、浮き袋の調節ができないで水面に浮いてくる鯛をいう。《季・春》
  ※俳諧・毛吹草(1638)四「安芸〈略〉野路(のぢの)浮鯛(ウキタイ)」

とある。残念ながら浮鯛の季節はもう終わっていたが、ここで一句。

 浮鯛の名やさくら散三四月    支考

 「この魚のいろのみよく照りて、風味又よのつねならず」は松江のスズキにも喩えられる。松江のスズキは上海松江で獲れるという松江鱸魚で、日本でヤマノカミと呼ばれる魚だという。
 この少し先に大久野島があるが、当時は何の変哲もないただの島だった。太平洋戦争の時ここに毒ガス製造施設がつくられ、そこで実験用に飼育されていた外来種のアナウサギが戦後野生化し、つい最近になってウサギの島としてバズることになった。

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