2021年5月18日火曜日

 今日も曇り時々雨。これからこんな日が続くのかな。気分はもう梅雨入り。
 それでは『三冊子』の続き。

 「師のいはく、撰集、懷紙、短尺書習ふべし。書やうはいろいろ有べし。たゞさはがしからぬ心遣ひありたしと也。猿みの能筆也。されども今少大也。作者の名大にていやしく見へ侍ると也。」(『去来抄・三冊子・旅寝論』潁原退蔵校訂、一九三九、岩波文庫p.143)

 俳諧師は揮毫を求められることが多いので書はきちんと習っておく必要がある。特に流派は問わない。芭蕉は大師流だと言われている。
 『猿蓑』が能筆だというのはなるほどと思うので、ネットで早稲田大学図書館のものが見れるので見てみるといい。確かに作者の名前が大きい。読みやすいけど。

 「能書の物かけるには、歌の詞、手爾葉など違ふ事必あり。ふしぎに思ふべからず。かなゝどのつゞき、時の拍子、又書ざま見ぐるしき所、書違へたる事多しと也。」(『去来抄・三冊子・旅寝論』潁原退蔵校訂、一九三九、岩波文庫p.143)

 撰集での書き間違いはそんなに珍しいことではない。手書きで連綿していると、活字と違って後からそこだけ直すということができないからだろう。原稿の段階で間違ってる場合もあるし、清書の段階で間違うこともあるし、版木に移す段階で間違うこともあっただろう。
 今の出版社も校正のプロが一生懸命やっているのだろうけど、やはりたまに誤植がある。ネット上の文章もそうだが、誤字や入力ミスを完全になくすのは難しいから、ネットも間違いは付き物だと思って読んだ方が良い。「ふしぎに思ふべからず。」

 「師常に我をわすれず、心遣ひあること也。或方にて貴人師を座上に請待せらるゝ事しきり也。師の曰、此所似合の所と、落着申也。席過侍れば心しづかならず、俳諧の障に成侍るの間、心まゝにと願ふ也。尤の事也。」(『去来抄・三冊子・旅寝論』潁原退蔵校訂、一九三九、岩波文庫p.143)

 「請待」は「招待」に同じ。
 俳諧の際の席順が普通どうやって決められるのかはわからないが、多分一番上座に座るのは文台を構えた主筆(執筆)なのではないかと思う。
 多分連歌の頃は身分順に上座から下座に並んだのではないかと思う。さすがに摂政関白を下座に座らせることはなかっただろう。地下の連歌師が下座だったのではないかと思う。
 俳諧の場合、麋塒や露沾や許六がどこに座ってたかにしても路通の座る位置にしても、特に記録されているわけではない。連歌でも俳諧でも記録されないということは、それほど関心もなかったということだろう。
 ただ、この文章から何となく伺われるのは、上座下座は俳諧師としての実績ではなく、おおむね俗世間での身分を反映していたのではないかということだ。

 「又、ある旅行の時、門人二三子伴ひ出られしに、難波のすこしこなたより駕おりて、雨の薦に身をなして入り申さるゝと也。その後、此事をとへば、かゝる都の地にては、乞食行脚の身を忘れて成がたしと也。駕をかるに價を人のいふごとくに毎も成し侍る也。」(『去来抄・三冊子・旅寝論』潁原退蔵校訂、一九三九、岩波文庫p.144)

 芭蕉が大阪に行ったのは元禄七年九月九日で、このまま芭蕉は大阪で息をひきとることになる。『芭蕉年譜大成』(今栄蔵、一九九四、角川書店)によれば、同行した門人は支考・惟然それに加えて実家の又右衛門。江戸から戻った二郎兵衛だったという。
 九月八日に伊賀を出て奈良で一泊してからくらがり峠を越えて大阪に入ったという。くらがり峠は暗峠奈良街道で、今日の国道308号線に引き継がれている。
 おそらくこのくらがり峠を越える直前に駕籠を下りたのだろう。芭蕉の最後の旅は江戸を出た時から駕籠に乗っていた。病状が悪化していて歩くことはもとより馬での移動にも耐えられなかったのだろう。

   くらがり峠にて
 菊の香にくらがり登る節句かな  芭蕉
   九日、南都をたちける心を
 菊に出て奈良と難波は宵月夜   芭蕉

の二句を詠んでいる。
 大阪はあと坂を下りるだけとはいえ、かなりの急坂だし、坂を下りてから宿泊地の高津宮洒堂亭までは三里くらいあるから、かなり無理をしたのではなかったかと思う。『芭蕉年譜大成』(今栄蔵、一九九四、角川書店)の九月十日の所には、

 「この日、暁方から寒気・熱・頭痛に襲われる。同じ症状が二十日頃まで毎晩繰り返す。」

とある。
 大阪は『笈の小文』の旅の時に一度来てはいたが、二度目の大阪入りもどうしても自分の足で歩きたかったのだろう。

 「師ある方に客に行て、食の後、蠟燭をはや取べしといへり。夜の更る事眼に見へて心せはしきと也。かく物の見ゆる所、その自心の趣俳諧也。
 つゞいていはく、いのちも又かくのごとしと也。無常の觀、猶亡師の心なり。」(『去来抄・三冊子・旅寝論』潁原退蔵校訂、一九三九、岩波文庫p.144)

 当時のことだから夕方のまだ明るいうちに夕食を食べたのだろう。それが終わったら興行の予定だったのか、蝋燭を早く持ってくるように言う。早くしないと夜が更けるということでせわしく興行の準備をする様は、それ自体が俳諧のようだ。
 連歌や延宝の頃までの百韻中心の俳諧興行は朝に始まり夕方に終わるが、天和の頃から歌仙興行が中心になり、夕食後に始まることが多くなった。
 こうやって早く興行を始めようとしていると、人生もこんなふうにすぐに終わってしまうんだ、と言う。

 「あるとしの旅行、道の記すこし書るよし物がたりあり。是をこひて見むとすれば、師のいはく、さのみ見る所なし。死て後見侍らば、是とても又あはれにて見る所もあるべしと也。感心なる詞也。見ざれどもあはれふかし。」(『去来抄・三冊子・旅寝論』潁原退蔵校訂、一九三九、岩波文庫p.144)

 旅が終わって土芳の所に来たということは、『奥の細道』の旅だろうか。この頃から少しづつ旅の記録を残すようにして、元禄五年夏、第三次芭蕉庵が完成した頃から一気に書き上げたのだろう。
 死後に公開する予定だったので、今は見せられないということだった。

 「師一とせ岐阜鵜飼見の時、鵜尉一人に十二羽宛、舟に篝して其ひかりにこれを遣ふ。十二筋の繩、たて横にもぢれて、さばきむづかしき事を、事やすく是をなす。鵜尉に此事を尋ね侍れば、先もぢれぬよりさばきて、なまもぢれ成るものを又さばく。むづかしくもぢれたるもの、ひとりほどけさばくるといへり。万に此心はあるべし、となり。」(『去来抄・三冊子・旅寝論』潁原退蔵校訂、一九三九、岩波文庫p.144~145)

 「もぢれる」は「よじれる」と同じ。この場合は縄が絡まることか。
 鵜飼いを見たのは貞享五年の夏で、

 おもしろうてやがて悲しき鵜舟哉 芭蕉

の句を詠んだときであろう。
 鵜匠は十二羽の鵜を一度に扱い、その十二本の繩が絡まって、ほどくのが難しいのではないかと思っても、それを鵜匠は難なくほどいてゆく。鵜匠にこのことを尋ねたら、まずは絡まらないようにし、ちょっとでも絡まったらすぐにほどく。これをやっていると、ぐちゃぐちゃに絡まっても自ずとほどけるようになるという答えだった。
 これはあらゆることにいえることだ。まずはそうならないように、なったら早めに対処する。これを繰り返して行けば、いくら事態が複雑になっても一つ一つ順番にほどいていけば自ずと解決する。

 「ある門人の事をいひて、かれかならず此道にはなれず、取付侍るやうにすべし。はいかいはなくてもあるべし。たゞ世情に和せず、人情通ぜざれば、人不調。まして宜友なくてはなりがたしと也。又いはく、人是非に立る筋多し。今其地にあるべからずと、恨あるべき人の方にも行かよひ、老後には心のさはりもなく見え侍る事あり。」(『去来抄・三冊子・旅寝論』潁原退蔵校訂、一九三九、岩波文庫p.145)

 路通のことであろう。路通が京都や近江の門人とうまくいってないことから、元禄三年春、『奥の細道』の師の跡を尋ねる旅を計画する。これに対し、ほとんど破門とも取れるような、

 草枕まことの花見しても来よ   芭蕉

の句を贈る。
 そしてその直後、路通が茶入れを盗んでその罪を支考に押し付けたという報告を受け、江戸にいた膳所藩士の曲水に手紙を送っている。結局路通は無実だった。
 路通は何らかの形で今日や近江の俳壇から排除されようとして、芭蕉はその動きの本質を理解してなかったのだろう。門人に言われるがままに路通の人格的な問題だと思っていたようだ。
 結局元禄四年秋には芭蕉は路通と同座しているから、その頃には許されていたのであろう。
 この事件の背景には身分の問題が絡んでいたのではないかと思う。後の明治の漂泊の俳諧師「乞食井月」の場合と同様、被差別民の出自だったのではないかと思う。関東に比べて関西、特に長い歴史のある京都や滋賀は今でも深刻な差別のある地域だ。
 幼少期から厳しい差別を受けてきたことで世俗の価値観を信用せず、怒りの矛先をかわすためのその場限りの言い逃れが多くなる。それを不誠実と見られたのであろう。アメリカ映画の黒人キャラにもこの手のものは多い。『スターウォーズ』のジャージャー・ビンクスはアメリカでも問題になったようだが。
 路通がよりどころにするのは仏教の世捨人としての生き方で、芭蕉以上に徹底して一所不住を貫いていた。それは芭蕉のような古典の伝統につながるためではなく、より原理主義的なものではなかったかとおもう。
 芭蕉の『奥の細道』の旅の後の「一泊まり」の巻二十六句目の、

   たふとさは熊野参りの咄して
 薬手づから人にほどこす     路通

の句はそんな路通の理想の高さがあらわれている。これに対し芭蕉は、

   薬手づから人にほどこす
 田を買ふて侘しうもなき桑門   芭蕉

と返している。薬を施すなんてのは、寺領を所有し、きちんと経済的な基盤があってできるものだ。そう諭しているかのようだ。
 そんな路通の消息だが、岡田喜秋さんの『旅人曾良と芭蕉』(一九九一、河出書房新社)にこんな話が載っている。

 「この紀行文は曾良が若いころ知り合った同学の士のひとり、並河誠所の書いたもので、この人は吉川惟足の門下生で、曾良より若く、江戸へ出てきた曾良がいちはやく親しくなった人である。彼の書いた『伊香保道記』といふ紀行文がある。その中に、榛名神社で、一人の老人に出会った記述がある。」(p.262)

 渡辺徹さんはこれを曾良ではないかと言ったが、曾良を良く知る人物の書いたものなら、この老人が曾良だったらはっきりと曾良だったと書くだろう。岡田喜秋さんは路通ではないかとしている。

 「玉階を下りつくし、楫して過ぎ出れバ楼門の傍より白髪の老翁鋤を荷ひて歩ミ来るに逢ぬ。見れバ二十年前の旧相識なり。世に志も得ざりけれバ一家の婚家すでにをはりぬとて、仕る道をかへして芭蕉翁と云ひし浮屠を友なひ歌枕見んとて出でし人なり、共に年をとりて往事を語る。まことに茫々夢かとのミぞ思ハる。」(p.266)

 路通は当初芭蕉の『奥の細道』の旅に同行する予定だったが、直前に曾良に変えられた。それでも芭蕉を慕い、山中温泉で曾良が先に伊勢長島に向かったあと、路通は芭蕉を出迎えに敦賀まで行き、そこからともに旅をし、伊勢まで同行している。

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