思うに人は生まれながらに自由なんだし、サルトルは「自由の刑」なんて言ってたけど、その自由を唯一妨げるものは結局他人の自由なんだよね。
例えば我が子と他人が川で溺れていたとして、自分の子を助けるのは自由だが、我が子を犠牲にして他人の子を助けたとしたら、それは何らかの社会的圧力によるものだ。カント的な理性の自由は他人の圧力に屈する自由といってもいい。
現実が不自由なのは、常にこの他人の自由とを秤にかけて生存の取引をしなくてはならないからで、不自由ではあるがそれは生きてゆくために認めなくてはならない。その代わりに我々は取引の自由を獲得しなければならない。自由は必ず「誰かの」自由であり、名前のない自由なんてのは存在しない。
社会契約も常に国民一人一人の自由意思によって変えていかなくてはならないもので、不磨の法典は社会契約の名に値しない独裁だ。
前に田辺元を読んだときに書いたが、我々の前に立ちふさがる障壁は「過去」なんかではない。あくまで他人の未来だ。そして自分の未来と他人の未来が平等であるなら、取引をするしかない。
さて、春もあと三日。気分はすっかり夏だけど今日は旧暦三月二十八日。行く春や。
そこで最後に『阿羅野』の歌仙を読んでみようと思う。『芭蕉七部集』(中村俊定注、岩波文庫、1966)をたよりに。
発句には長い前書きがついている。
誰か華をおもはざらむだれか
市中にありて朝のけしきを
見む 我東四明の麓に
有て花のこゝろハこれを心とす
よつて佐川田㐂六のよしの山
あさなあさなといへる哥を実
にかんず又
麥喰し鴈と思へどわかれ哉
此句尾陽の野水子の作とて
芭蕉翁の傅へしをなをざりに
聞しにさいつ比田野へ居をうつして
実に此句を感ず むかしあまた
有ける人の中に虎の物語せしに
とらに追はれたる人ありて
獨色を變じたるよし誠の
おほふべからざる事左のごとし
猿を聞て實に下る三声の
なみだといへるも實の字老
杜のこゝろなるをや。猶鴈の
句をしたひて
麥をわすれ華におぼれぬ鴈ならし 素堂
この文人の事づかりて
とゞけられしを三人開き
幾度も吟じて
手をさしかざす峰のかげろふ 野水
ここに素堂の発句と野水の脇が生まれた経緯が書かれている。
誰が花を思わないだろうか、誰が朝の景色を見るだろうか。「東四明」の四明(しめい)はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」に、
「中国の天台宗の一派、四明天台の教学。山家(さんげ)派が正統とされるに至ったところから、天台宗の教学をもさす。四明の教え。四明。
※平家(13C前)二「大師は当山によぢのぼって四明の教法を此所にひろめ給しよりこのかた」
とある。この場合は日本の天台宗総本山の比叡山のことで、比叡山はウィキペディアに、
「比叡山(ひえいざん)は、滋賀県大津市西部と京都府京都市北東部にまたがる山。大津市と京都市左京区の県境に位置する大比叡(848.3m)と左京区に位置する四明岳(しめいがたけ、838m)の二峰から成る双耳峰の総称である。高野山と並び古くより信仰対象の山とされ、延暦寺や日吉大社があり繁栄した。東山三十六峰に含まれる場合も有る。別称は叡山、北嶺、天台山、都富士など。」
とある。天台、四明、叡山、ということで、ここの「東四明」は東叡山寛永寺、上野の寛永寺のことになる。江戸時代初期から花の名所で多くの庶民の花見客でにぎわっていた。
素堂はコトバンクの「ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説」には、
「延宝7 (1679) 年 38歳で致仕,上野不忍池のほとりに隠棲,貞享2 (85) 年頃葛飾に移った。」
とある。『甲斐国志』には葛飾阿武とあり、「是芭蕉庵桃青、伊賀人松尾甚七郎、初風羅坊、元禄中歿年五十三ノ隣壁ナリ」とある。
阿武がどこなのかよくわからないが、当時葛飾を呼ばれる地域は広くて千葉県市川市にも葛飾八幡宮があるし、北葛飾郡は埼玉県にあり杉戸町と松伏町が含まれる。古代の地名では隅田川の東から旧太井川(今の江戸川)の先の市川まで含まれ、そこは下総の国だった。江戸時代の初期に江戸川から西の地域が武蔵国に編入され、今の県境になった。「阿武」は「あふ」で「おー」と発音できるところから、あるいは今の江東区大島だったのかもしれない。
ここには「我東四明の麓に有て」とあるから、まだ不忍池にいた頃であろう。ここなら朝起きればすぐに東叡山の桜が見える。なかなか贅沢な場所だ。
佐川田㐂六は佐川田喜六で『芭蕉七部集』の中村注に「名昌俊、永井播磨直勝の臣、後洛外薪村の酬恩庵に隠棲、境内に黙々庵を結ぶ。寛永二十年八月没。」とある。ウィキペディアには、
「佐川田 昌俊(さがわだ まさとし)は、安土桃山時代から江戸時代前期にかけての武将。永井氏の家臣。山城国淀藩の家老。」
とあり、
「智勇兼備の名士で、茶道を小堀遠州に学び、連歌は里村昌琢、書は松花堂昭乗、漢学は林羅山に、歌は飛鳥井雅庸・近衛信尋歌道に学んだ[1]。その他の友人・知己に石川丈山、木下長嘯子などがいる[1]。東国に在った頃ある人が昌琢に「連歌の第一人者はだれか」と問うたところ「西におのれ(昌琢)あり、東に昌俊あり」と答えたという。石川丈山、松花堂昭乗と共に一休寺方丈の庭園の作庭に携わったとの伝えもある。集外三十六歌仙の一人で、その秀歌撰にも撰ばれた
吉野山花咲くころの朝な朝な心にかかる峰の白雲
の歌で名高い。著書に『松花堂上人行状記』などがある。」
とある。素堂の「よしの山あさなあさなといへる哥を実にかんず」はこの歌を指す。
そして、
麥喰し鴈と思へどわかれ哉 野水
の句だが、芭蕉から聞いてとあるから貞享二年に『野ざらし紀行』の旅から帰った時だろう。春の帰る雁を詠んだ句で、芭蕉が江戸に戻る時の餞別吟だったか。芭蕉がいつも「我が酒白く食(めし)黒し」とばかりに麦飯を食っていたから、それを「麥喰し鴈」としたのだろう。
「いつ比田野へ居をうつして実に此句を感ず」は素堂が不忍池から深川阿武に居を移し、あらためてこの句の面白さがわかったというのだろう。近所に麦畑があって、実際に雁が飛んで行くのを見たりしたこともあるが、それだけでなく、芭蕉が貞享四年の冬に『笈の小文』の旅に出たからというのが最も大きかったのではないかと思う。
「とらに追はれたる人ありて」は『芭蕉七部集』の中村注に「『小学』致知類にある話」とある。詳細はわからない。「猿を聞て實に下る三声」は杜甫の「秋興其二」で、
虁府孤城落日斜 毎依北斗望京華
聽猿實下三聲涙 奉使虚隨八月槎
畫省香爐違伏枕 山樓粉蝶隱悲笳
請看石上藤蘿月 已映洲前蘆荻花
の詩をいう。六朝時代の無名詩、
巴東山峡巫峡長 猿鳴三声涙沾裳
(巴東の山峡の巫峡は長く、
猿のたびたび鳴く声に涙は裳裾を濡らす。)
が元になっている。辺鄙な山奥で聞く、かつては長江流域に広く生息していたテナガザルのロングコールは物悲しく、はるばるこんな所にまで来てしまったという悲しみの涙を誘うものだった。
深川が当時いくら田舎だったとはいえ大袈裟な感じはするが、田舎に来て、あらためて芭蕉が去って行った寂しさを痛感し、野水の句に共鳴したのだろう。
そこで一句、
麥をわすれ華におぼれぬ鴈ならし 素堂
となる。雁は芭蕉さんのことで、深川でともに麦飯を食ってた仲なのに、それを忘れて吉野の花を見に旅立って行ってしまった。帰る雁の句なので春の句になる。
これに野水は、
この文人の事づかりて
とゞけられしを三人開き
幾度も吟じて
手をさしかざす峰のかげろふ 野水
と和す。ここに野水、荷兮、越人による三吟歌仙が始まる。
麥をわすれ華におぼれぬ鴈ならし
手をさしかざす峰のかげろふ 野水
遠く飛んで行ってしまった雁を手をかざして見送ると、峯が陽炎にゆらゆらと揺れて、この景色全体があるかなしかに思えてしまう。現実のこととは思えない。夢であってくれればというところだろう。
これに荷兮が第三を付ける。
手をさしかざす峰のかげろふ
橇の路もしどろに春の来て 荷兮
橇は「かんじき」。雪の上を歩くためのものだが、泥の上を歩くのにも役立つ。ここでは雪も溶けてぬかるみになって峯は陽炎に揺れる、となる。
四句目。
橇の路もしどろに春の来て
ものしづかなるおこし米うり 越人
「おこし米」はコトバンクの「日本大百科全書(ニッポニカ)の解説」に、
「干菓子(ひがし)の一種。仏教伝来以後に輸入された唐菓子(とうがし)のうち、『延喜式(えんぎしき)』に記載されている果餅の一つ「粔籹(こめ)」が、今日のおこしの祖型である。『和名抄(わみょうしょう)』では「おこし米」と訓(よ)み、「粔籹は蜜(みつ)をもって米に和し、煎(い)りて作る」と製法にも触れているが、これは、糯米(もちごめ)を蒸し、乾燥させてから、炒(い)っておこし種をつくり、水飴(みずあめ)と砂糖で固めるという今日の製法とさして変わっていない。古い原型を残している菓子の一つである。現在ではおこし種にゴマ、ダイズ、クルミ、ラッカセイ、のりなどを加えたものもある。『古今著聞集(ここんちょもんじゅう)』には、「法性寺(ほっしょうじ)殿(関白藤原忠通(ただみち))、元三(がんざん)(正月1日)に、皇嘉門院(こうかもんいん)(藤原聖子。忠通の長女で崇徳(すとく)后)へまひらせ給(たまい)たりけるに、御くだ物(菓子)をまひらせられたりけるに、をこしごめをとらせ給て、まいるよしして、御口のほどにあてて、にぎりくだかせ給たりければ、御うへのきぬ(正装の上着)のうへに、ばらばらとちりかかりけるを、うちはらはせ給たりける、いみじくなん侍(はべり)ける」とある。関白忠通の存命した12世紀前半ごろは、おこしが貴族の菓子であったわけだが、それほど上品(じょうほん)の菓子でも、当時はすぐにぼろぼろとこぼれてしまうような粗末な作り方しかできなかったことがわかる。
そのおこしも江戸時代初期には庶民の菓子となっているが、『料理物語』に、「よくいにん(ハトムギの種子)をよく乾かし、引割米のごとくにし」とあるように、素材もハトムギやアワなどの安価なものが使われた。1760年(宝暦10)の『川柳評万句合(せんりゅうひょうまんくあわせ)』に、「雑兵はおこしのような飯を食い」の一句がある。このおこしは、ばらつきやすい、いわゆる田舎(いなか)おこしの類である。これに対して、大坂の「津の清(つのせい)」が粟(あわ)おこしを改良した岩おこしは、火加減に妙を得た堅固な歯ざわりで評判をとった。今日では大阪の岩おこしをはじめ、東京・浅草の雷おこし、福岡の博多(はかた)おこしなど、名物おこしの数は多い。そして、ほとんどのおこしが適度の堅さを保つ菓子となった。ただ宮城県刈田(かった)郡蔵王町(ざおうまち)の白鳥神社で毎年1月の祭礼に出す捻(ねじ)りおこしは、長さ1メートルの巨大なものだが意外に柔らかく、田舎おこしのおもかげをわずかながらとどめている珍菓である。[沢 史生]」
とある。米でなくても「おこし米」だったようだ。
ぬかり道で足もとに気を取られて、おこし売りも言葉少なになる。
五句目。
ものしづかなるおこし米うり
門の石月待闇のやすらひに 野水
街の入口の木戸の所まで来たが、日が暮れてまだ月も登らなくて真っ暗だったので、月が昇るのを待ってからおこし米を売りに行こうと門の前で待機する。
六句目。
門の石月待闇のやすらひに
風の目利を初秋の雲 荷兮
前句の「月待闇」を雲が晴れるのを待つとして、月が出るのかどうか「風の目利き」を呼べという。初秋だからお盆の頃になる。
0 件のコメント:
コメントを投稿