連休中は検査数が減って感染者数が一時的に減ってたが、今日は元に戻っていた。ピークアウトはまだ遠そうだ。このまま後二三か月ずるずるいくのかな。
とにかく一人一人が自覚しないと結局どうしようもない。コロナと戦わずに仲間割ればかりしている。
共同体が崩壊すれば万人の万人に対する戦いに陥るだけだ。コロナと戦う前に隣人との戦いに疲弊してゆく。
コロナは怪獣ではない。庶民が普通通り生活を続けていれば、いつかヒーローが現れて退治してくれるというわけではない。一人一人が自分の生活を変えなくてはならない。
さて、引き続き伊勢での芭蕉の俳諧を見てみよう。
発句は、
紙衣のぬるとも折む雨の花 芭蕉
で、元禄十三年刊乙孝編の『一幅半』に収録されているが、完全な形ではなく表六句と以下芭蕉の付け句だけ五句を収録している。
それから百二十七後の文政十年(一八二七年)刊の古学庵仏兮、幻窓湖中編『俳諧一葉集』には表六句に続けて十一句を並べ、そのあとに『一幅半』の付け句五句を並べている。この集は芭蕉の全集として編まれたものだが、疑わしいものも混ざっている。それを含めて読んでみようと思う。
発句は雨の花(桜)は紙衣(かみぎぬ)が濡れても折ろうと思う、という句だ。興行当日雨が降っていたのだろう、それでも負けずにこの興行を成功させよう、という寓意があったと思われる。
脇は、
紙衣のぬるとも折む雨の花
すみてまづ汲水のなまぬる 乙孝
「すみて」は「住て」であろう。前句の紙衣を旅姿として、花の宿にたどり着き、住んでまず汲んだ水は折から桜の季節でなまぬるかった、とする。
紙衣あるいは紙子は防寒性にすぐれいて小さくたためるということで、旅の必需品だった。『奥の細道』の草加のところにも「帋子一衣(かみこいちえ)は夜の防ぎ」とあるし、『冬の日』の「狂句こがらし」の巻の前書きにも「笠は長途の雨にほころび、紙衣はとまりとまりのあらしにもめたり」とある。
すっかるぬるんだ春の水を汲んで、どうか旅の疲れを癒してください、というもてなしの意味を込めた脇であろう。
第三は、
すみてまづ汲水のなまぬる
酒売が船さす棹に蝶飛て 一有
一有は元禄七年の芭蕉が出席した最後の俳諧、「白菊の」の巻にもその名がある。園女の夫だという。
前句の「すみて」はここでは「澄て」に取り成される。平仮名で表記されているときは取成しがある場合が多い。
酒売が船で水を汲みに行く。酒に使う良質な水を求めてのことだろう。当時の酒屋は原酒を店先で水で薄めて販売していた。その酒売の船の棹に蝶が寄ってくる。
四句目。
酒売が船さす棹に蝶飛て
板屋板屋のまじる山本 杜国
酒売が船で川を行く時の周りの景色を付ける。
「何の木の」の巻の時は「の人」名義だったが、ここでは元禄十三年刊の『一幅半』に収録されたテキストなので杜国の名前になる。
五句目。
板屋板屋のまじる山本
夕暮の月まで傘を干て置 應宇
山本の街道沿いの街であろう。山が迫る所だと天気が変わりやすいので、月夜の外出にも傘をもって行く必要があるので、夕暮れまでに乾くように干しておく。
六句目。
夕暮の月まで傘を干て置
馬に西瓜をつけて行なり 葛森
西瓜は瓜の一種ということで、初秋の季語になる。素麵とともに七夕の時に食べた。前句の月を七夕の夜の半月としたのだろう。馬で西瓜が運ばれてゆく。
さて、『一幅半』だとここで終わって、あとは芭蕉の付け句のみになるが、『一葉集』だと、次の句が続く。
初裏。
七句目。
馬に西瓜をつけて行なり
秋寒く米一升に雇れて 芭蕉
前句の馬で西瓜を運ぶ人は荷物を運ぶ専門の馬ではなく、たまたま馬を連れた百姓を見つけ、米一升で西瓜を運んでもらうとする。
まあ、七夕の特需ならありそうなことで、自然な展開なので、芭蕉の句であることを疑う理由はない。
八句目。
秋寒く米一升に雇れて
襦袢の糊のたらでさびしき 杜国
襦袢は下着で男女ともに用いる。貰った米を襦袢の糊に使おうというのか。
九句目。
襦袢の糊のたらでさびしき
吹付て雨はぬけたる未申 葛森
ひとしきり風雨が強くなり、びしょ濡れで襦袢も湿ってよれよれになった所で糊が欲しい、となる。未申は午後一時から日が沈む一時間前くらいまでの時間。
十句目。
吹付て雨はぬけたる未申
夕に駕をかる都人 杜国
未申と来て夕暮れの酉の刻に駕籠に乗って外出する都人がいる。夜の街に繰り出すのか。
十一句目。
夕に駕をかる都人
命ぞとけふの連歌を懐に 芭蕉
この句は『一幅半』にもある。
連歌興行は朝に始まり夕暮れに終わる。今日の連歌の出来が良かったので、それを大事に懐に仕舞い、駕籠に乗って帰る。連歌興行は寺社で行われることが多い。
十二句目。
命ぞとけふの連歌を懐に
寺に祭りし業平の宮 應宇
『伊勢物語』第六十九段に、
かち人のわたれどぬれぬえにしあれば
という女の差し出した盃に歌を書いたので、
又あふさかのせきはこえなむ
と続松の炭して歌の末を書き継いだ話が記されている。
これは後の土芳の『三冊子』で、連歌の起源を語る時でも、日本武尊の「かがなべて」の歌の次に古い連歌として記している。
前句の懐に仕舞った連歌をこの在原業平の連歌とし、それを貰った女が業平の霊を寺に祀ったとする。この「斎宮なりける人」は恬子内親王とされている。
そこでこの宮がどこにあるかだが、天理にある在原寺は、父の阿保親王が業平の誕生したときに光明寺をこの地に移して、本光明山補陀落院在原寺としたもので、死んで祀られた寺ではない。京都の十輪寺の方ではないかと思う。
ここまでの展開は特に問題はないし、本物ではないかと思う。
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