2021年5月23日日曜日

 安田峰俊さんの『八九六四 完全版 「天安門事件」から香港デモへ』(二〇二一、角川新書)を読み終わった。
 何となく思うんだが、もしあの時中国政府が学生に譲歩して段階的な民主主義路線に梶を切っていたなら、その後の開放政策による高度成長を追い風に選挙で中国共産党が安定的多数を得ていたんではないかと思う。ある意味で今の日本とよく似た状態になれたのではないかと思う。
 パクロッシで失敗したのは中国共産党の方ではないかと思う。あの時民主化できていれば、今の米中の対立も起こらず、香港や台湾も併合して、本当の中国の黄金時代を謳歌できたのではないかと思う。
 そして日韓中が同じ民主主義の価値観を共有して力を合わせれば、北朝鮮問題も解決し、アメリカやEUを凌ぐ巨大な経済圏になっていた。
 九十年代の中国の躍進は確かに目覚ましかったが、民主化していればそれをはるかに超える躍進が可能だった。
 パクロッシは参加した学生以上に中国共産党にとっての呪いとなったのではないかと思う。
 失敗の一番の原因は民衆への不信だ。仁に基づく先王の道を軽んじた結果だ。誰か死に戻って歴史をもう一度やり直してくれ。

 さて、夏は暑さのせいか、この時期の俳諧は少ない。そこで去年桃隣の『舞都遲登理』の足跡をたどったように、また気分だけでも旅に出てみようと思う。
 桃隣については許六が『俳諧問答』の中で、

 「風雅もかくのごとしとおもへるに寄て、算用十露盤の上にて損益を考へ、長崎の行脚よりハ、松島の方に徳ありとおもへるに似たり。」

などと言っているが、江戸に住んでいれば長崎は遠いし、そんなにお金もないなら松島の方に旅立つのは自然なことで、どこぞの家老にとやかく言われることではないと思う。
 まあ、それならばということで支考の『梟日記』を選んでみた。こちらの方は『舞都遲登理』の二年後の元禄十一年の長崎行脚の記録になる。
 まあ、どちらに向かおうが、こちとら所詮火燵記事の旅だけどね。火燵の季節でもなくエアコンにはまだ早いが。
 まず、序文を読んでみようか。テキストは『普及版俳書大系5 蕉門俳諧後集上巻』(一九二八、春秋社)による。

  「梟日記之序
 洛陽花ひらけてあらたに、武城鳥啼て静なる春も、きさらぎのはじめなるべし。いせの國に住なる法師、筑紫のたびねおもひたち侍りけるに、あまてるや此御神の御まへに詣して、この時の風雅のまことをぞ祈りたてまつりける。されば瘦藤に月をかゝげ、破笠に雲をつゝむといふ、むかしのひとのあとをまねびたるにはあらで、風雅は風雅のさびしかるべき、この法師の旅姿なりけり。
 月華の梟と申道心者
 むかし魯の孔丘は、麒麟を得て春秌をしるし給へりしに、をのづから世の人のためしともなれりけり。今又梟の一字に筆をはじむるに、褒貶はしばらくなきにしもあらず、一字の妙處にいたる事は誠に難からん。さるを此記の名になし侍らば、岸のからすの魚をうかゞひたるにやあらむ。西華坊みづから此一稿をなして、是を序のこゝろとはおもへるかし。」

 「洛陽」は京都、「武城」は江戸のことであろう。これは如月を導き出す序詞のようなもので、本題は如月の初めに伊勢の国の法師西華坊支考が筑紫の旅を思い立つところにある。伊勢なので伊勢神宮の天照大神に詣で、旅の風雅の誠を祈る。これは単に旅の無事というだけでなく、旅での俳諧の成功を祈る物であろう。
 「瘦藤に月をかゝげ、破笠に雲をつゝむ」は「自笑十年行脚事 痩藤破笠扣禅扉」という愚堂国師の投機偈によるものであろう。愚堂国師は愚堂東寔といい、ウィキペディアに、

 「愚堂東寔(ぐどうとうしょく、天正5年4月8日(1577年4月25日)- 寛文元年10月1日(1661年11月22日))は、禅宗の臨済宗の高僧。大本山妙心寺第百三十七世住持。父は伊藤紀内、母は斎藤氏家臣の娘とされる。諡号は大円宝鑑国師。」

とある。また、

 「後水尾天皇や徳川家光、保科正之、中院通村、春日局など多くの公家・武家から帰依を受けている。また、宮本武蔵も青年時に妙心寺にいた愚堂の元へ参禅している。弟子に至道無難がいる。」

とある。
 ただ、支考の旅はこの禅師の修行の旅をまねたものではなく、あくまで風雅の旅に出る。
 ここで一句。

 月華の梟と申道心者       支考

 月華を友として旅立つ「梟(ふくろう)」という道心者、だという自己紹介の句だ。
 梟は蓑笠を着て着膨れた姿を自嘲して言ったもので、似たような句に、

   けうがる我が旅すがた
 木兎の独わらひや秋の暮     其角(いつを昔)
   旅思 二句
 みゝつくの独笑ひや秋の昏    其角(五元集)
 みゝつくの頭巾は人にぬはせけり 同

の句がある。こちらはミミズクだが。
 「むかし魯の孔丘は」の話はウィキペディアに「獲麟」という見出しで載っている。それによると、

 「魯の国の西方にある大野沢(だいやたく)というところで狩りが行われた際、魯の重臣である叔孫氏に仕える御者の鉏商(しょしょう)という人物が、見たことのない気味の悪い生物を捕えた。人々はそれを狩場の管理人に押しつけ、自分たちは先に帰ったのである。
 たまたまその気味の悪い生物を見る機会があった孔子は、それが太平の世に現れるという聖獣「麒麟」であるということに気付いて衝撃を受けた。太平とは縁遠い時代に本来出てきてはならない麒麟が現れた上、捕まえた人々がその神聖なはずの姿を不気味だとして恐れをなすという異常事態に、孔子は自分が今までやってきたことは何だったのかというやり切れなさから、自分が整理を続けてきた魯の歴史記録の最後にこの記事を書いて打ち切ったのである。したがって、『春秋』はこの記事をもって終わるとされている。」

とのこと。
 梟もまた「福来郎」や「不苦労」に通じる吉兆であり、麒麟のような聖獣ではなくありふれた鳥だが、この憂き世の中に梟の一字からこの旅行記を書くことで、何かしらこの世を和ませ、より良いものにしたいという願いが込められている。
 「褒貶はしばらくなきにしもあらず」と賛否両論あるだろうけど、考えた末に選んだ一字で、「岸のからすの魚をうかゞひたる」ことのないようにと釘を刺して、この旅が始まることになる。


1,四月廿日、旅立ち

 「元祿戊寅之夏四月廿日、津の國や此難波津に首途して、人もしらぬひの名にし逢ふ筑紫のかたにおもむく。道遠く山はるかにして、たゞ雲水に身をまかせたれば、世にいふ山姥にはあらねど、みづからくるしび、みづからたのしむ。さるは世の人のありさまにぞ有ける。
 卯の華に難波を出たる無分別
 今宵は西の宮に宿す。難波の舍羅、此處におくり來る。このおのこは、かねてこの行脚にくみすべかりしが、さる事侍りてならずなりぬるを、ことにほゐなき事におもひて、一夜の名殘をおしむべきと也。
 みじか世の名ごりや鼾十ばかり」

 四月二十日に支考は難波津を出発する。だたしこの頃は古代の港だった「難波津」は既になかった。安土桃山時代には淀川左岸の渡辺津が用いられていた。
 江戸時代に入るとどうやら特定の港はなかったようだ。ウィキペディアによると、

 「茅渟の海と呼ばれていた大阪湾から大坂市街へは、淀川水系の河川を数km遡上する必要があり、北前船や菱垣廻船といった大型船は市内まで入らず淀川や木津川などの下流部や河口に停泊し、そこから小型船で貨物を運搬していた。船が市内へ上れるよう、また洪水を防ぐため、河川の改修や浚渫は江戸時代を通じて行われた。1683年(天和3年)には河村瑞賢が、曲がりくねって浅い淀川の水運と治水のため、九条島を二つに割いて安治川を開削。次いで1699年(元禄12年)には木津川の流路も難波島を二つに割いて航行をスムーズにさせ、安治川と木津川は二大水路として繁栄した。」

とのことで、大阪の運河沿いがどこでも港だったようだ。
 芭蕉は貞享五年夏の『笈の小文』の旅で明石に行った時は、尼崎から船に乗って兵庫に夜泊したことが記されている。支考が西宮まで陸路を行ったのか海路を行ったのかは記されてない。西宮は山陽道の起点になるから、陸路を行ったのかもしれない。尼崎よりも先になるが兵庫よりは手前になる。
 大阪から西宮までは一日の行程としてはかなり短いし、歩いてもそれほどかからない。「難波津」は形の上だけの出発点で、もう少し手前から歩いてきたのかもしれない。
 山姥の喩えは謡曲『山姥』に、

 「よし足引の山姥が、山めぐりすると作られたり。」(野上豊一郎. 解註謡曲全集 全六巻合冊(補訂版) (Kindle の位置No.89714-89716). Yamatouta e books. Kindle 版. )

とあるように、山廻りするものとされていた。また、

 「よし足引の山姥が、よし足引の山姥が・山廻りするぞ・苦しき。」(野上豊一郎. 解註謡曲全集 全六巻合冊(補訂版) (Kindle の位置No.89858-89860). Yamatouta e books. Kindle 版.)

と山廻りは「苦しき」ものでもあり、最後には、

 地 春は梢に咲くかと待ちし、
 シテ「花を尋ねて、山廻り。
 地 秋はさやけき影を尋ねて、
 シテ「月見る方にと山廻り。
 地 冬は冴え行く時雨の雲の、
 シテ「雪を誘ひて山廻り。
 (野上豊一郎. 解註謡曲全集 全六巻合冊(補訂版) (Kindle の位置No.89949-89955). Yamatouta e books. Kindle 版. )

と、この旅はどこか風流の旅にも通じる。
 ここで一句。

 卯の華に難波を出たる無分別   支考

 「無分別」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「無分別」の解説」に、

 「① 仏語。誤って、自己にとらわれ、ものを対立的・相対的に見る分別・妄想を離れること。物事の平等性をさとった状態。
  ※梵舜本沙石集(1283)四「正智は必ず無念無分別也。是の故に大智無分別とも云ひ」
  ② 分別のないこと。あとさきを考えないこと。思慮のないこと。また、そのさま。
  ※日葡辞書(1603‐04)「チカゴロ mufũbetno(ムフンベツノ) ヒトヂャ」

とある。無分別にはいい意味も悪い意味も両方ある。
 舎羅はウィキペディアに、

 「大坂生まれ。後に剃髪した。空草庵、桃々坊、百々斎、その他の号がある。俳諧は之道諷竹の手引きによる。貧困と風雅とに名を得たと言われた。妻と娘と暮らしていた。ある日、盗賊に入られ、しかし盗むべき物さえなく、盃をひとつ盗まれた時の句に、

 ぬす人も酒がなるやら朧月

 松尾芭蕉が、大坂で最期の床に就いた時、看護師代わりになって汚れ物の始末までした。」

とある。芭蕉の最期の床だが、支考も門人らが住吉詣でに行った時に舎羅の句がなく、支考の句も、

 起さるる声も嬉しき湯婆哉    支考

という住吉で詠んだ祈願の句ではないところから、支考もこの住吉詣でには参加せず、舎羅とともに芭蕉の介護のために残ったのではないかと思われる。
 また、芭蕉の最期の俳諧興行となった園女亭での「白菊の」の巻では支考とともに参加して、

   改まる秤に銀をためて見る
 袖ふさぐより親の名代      舎羅

の句を付けている。
 この旅の同行する予定だった舎羅だが、ここ西宮までの同行となった。そこで一句。

 みじか世の名ごりや鼾十ばかり  支考

 ともに一夜を過ごした鼾だけが名残となる。鼾というと芭蕉の「万菊丸いびきの図」が思い出される。

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