今日は雨。もうすぐ梅雨になるのかな。今年は梅雨入りが早そうだ。
うみさんの『打倒ローマのやり直し ―最強の将ハンニバル、二度目の包囲殲滅陣―』の一巻二巻を読み終えた。なるほど死に戻りネタで歴史小説とこの手があったか。基本的には内紛の起こらない排除なき共同体を作ればどんな強国にも勝てるということか。現実世界の中国包囲網の参考にしてほしい。 さて、このあと餅月望さんの『ティアムーン帝国物語』の七巻を読もうか。
それでは『三冊子』の続き。
「手爾葉留の發句の事、けり、や等の云結たるはつねにもすべし。覽、て、に、その外いひ殘たる留りは一代二三句は過分の事成べし。けり留りは至て詞强し。かりそめにいひ出すにあらず。ふりつみし高根のみゆきとけにけり、といふも至てつよくいひはなして、その響に應じてじて、清瀧川の鳴りあがる水のしら浪といひかけて、けしきを顯す也。
覽とはねべき所を、やといひ捨るもあり。也といふべきを覽といひてはゞを取事なども古哥などにも多し。皆句作の所なるべしと師の教也。」(『去来抄・三冊子・旅寝論』潁原退蔵校訂、一九三九、岩波文庫p.136)
発句の末尾を「らん」「て」「に」留めるというのは一生に二三句くらいのイレギュラーなことで、芭蕉の句で言えば
辛崎の松は花より朧にて 芭蕉
鰹売いかなる人を酔すらん 同
くらいであろう。
「けり」で止めも強い断定なので乱用しない方がいいという。芭蕉の句だとまず思い浮かぶのが、
道のべの木槿は馬にくはれけり 芭蕉
の句だ。これは「食われてしまった」という覆すことのできない事実が、この句に余韻を与えている。これが「くはれしや」だったら、「どっちなんだ」で、食われてないなら悲しむ理由もなくなってしまう。断定されてしまい、もうどうしようもないというところがこの句の生命になっている。
二人見し雪は今年も降けるか 芭蕉(笈日記)
二人見し雪はことしも降にけり 芭蕉(芭蕉句選)
このように芭蕉自身が揺れ動いて形跡のある句もある。越人に宛てた句で、前者は越人に一緒に旅したとこの事を覚えているか、という越人に直接問いかける私信の形になり、後者はあの時のことを思い出すよという独り言になる。句集に収めるなら後者の方であろう。
行春を近江の人とおしみける 芭蕉(猿蓑)
行春をあふみの人とおしみけり 芭蕉(蝶すがた)
後者は誤記の可能性もある。惜しむ心は惜しんでも惜しみ切れないものなので、「けり」と簡単に切ってしまうとその程度の惜しさかになってしまう。
ゑびす講酢売に袴着せにけり 芭蕉(続猿蓑)
ゑびす講酢売にはかまきせにける 芭蕉(芭蕉庵小文庫)
これは「けり」だと単純に酢売が袴着ていて面白い、という句になる。ただ、あまり単純に笑っては酢売に失礼かなという気持ちが働くなら、「ける」への改作も理解できる。
いずれにせよ「けり」留めの発句は少ない。
「ふりつみし」は、
降りつみし高ねのみ雪解けにけり
清滝川の水の白波
西行法師(新古今集)
の歌で、雪が解けたことを強く言い放つことで、聞く人に雪解けてどうなったんだ、と思わせて「清滝川の水の白波」でなるほどと思わせる。和歌ならではの盛り上げ方だ。
見渡せば花も紅葉もなかりけり
浦の苫屋の秋の夕暮れ
藤原定家(新古今集)
も同じだ。
「覽とはねべき所を、やといひ捨る」は「らむや」「らんや」で、
波の打つ瀬見れば玉ぞ亂れける
ひろはば袖にはかなからむや
在原滋春(古今集)
事のはにたえせぬつゆはおくらんや
昔おほゆるまとゐしたれは
七条后(後撰集)
のことか。
「也といふべきを覽といひてはゞを取」は「なるらん」で、
年ごとにもみぢ葉ながす龍田川
水門や秋のとまりなるらむ
紀貫之(古今集)
末の露もとの雫や世の中の
後れ先立つためしなるらむ
僧正遍昭(新古今集)
のような用法で、幅を取るというのは字数を合わせるということだろう。
「師のいはく、下句上句ともに二字三字の間にあり。またその二三字に甚ぬかり落る句あり。骨折べき所也。」(『去来抄・三冊子・旅寝論』潁原退蔵校訂、一九三九、岩波文庫p.136)
句の中の二字か三字直すだけでよくなる句が多いということだろう。元禄二年の山中三吟には北枝が記したとされる『山中三吟評語』が残されていて、それを見ると、二三字直すだけのものも多い。
第三
月はるゝ角力すまふに袴踏はかまふみぬぎて 翁
「月よしと」案じかへ給ふ。
四句目
鞘さやばしりしを友のとめけり 北枝
「とも」の字おもしとて、「やがて」と直る
六句目
柴かりこかす峰のさゝ道 翁
「たどる」とも、「かよふ」とも案じ給ひしが、「こかす」にきはまる。
十九句目
長閑のどかさやしらゝ難波なにはの貝多し 枝
「貝づくし」と直る。
こういう手直しは各巻にあったのだろう。
「師のいはく、持て來る詞といふあり。ことに人の名などにある事也とぞ。」(『去来抄・三冊子・旅寝論』潁原退蔵校訂、一九三九、岩波文庫p.136)
これだけでは何のことかわからない。『去来抄・三冊子・旅寝論』の潁原注にはチ本という『猪來舊蔵本忘水』に、この下に、
「ことに程持て來るこそ其中より自然に位したるもの有を云他人の名‥‥」
とある。
おそらく本説というほどの明確な内容や物語を持つのではなく、俤のような仄めかすだけのものでもない言葉ではないかと思う。たとえば、『春の日』の「春めくや」の巻三十一句目、
朝熊おるる出家ぼくぼく
ほととぎす西行ならば哥よまん 荷兮
は西行について何らかのエピソードを引き出そうというのではないし、西行の俤を登場させているのでもない。どちらかといえば、
芋洗ふ女西行ならば歌よまむ 芭蕉
の句を詠んだ芭蕉を連想させようとしている。
また同じ『春の日』の「蛙のみ」の巻二十一句目の、
簀の子茸生ふる五月雨の中
紹鷗が瓢はありて米はなく 野水
の紹鷗はウィキペディアに、
「武野 紹鴎(たけの じょうおう、文亀2年(1502年) - 弘治元年閏10月29日(1555年12月12日))は、戦国時代の堺の豪商(武具商あるいは皮革商)、茶人。」
とある当時有名だった茶人だったが、何ら紹鴎のエピソードを匂わしているわけではない。ただ紹鷗が瓢(本当にそのようなものがあるかどうかは知らないが)を持っているのに米がない、というところに没落した家の困窮している姿が思い浮かぶ。
人名を出すことで、その本人ではない句の中に登場する人物の位を定める効果がある。
『ひさご』の「疇道や」の巻五句目の、
かまゑおかしき門口の文字
月影に利休の家を鼻に懸 正秀
にしても、利休を持ち出すことで、その家を鼻に掛ける人物の位を定める。
「師のいはく、夷狄の事、せぬ方先よろし。するに習ひなし、時によるべし。」(『去来抄・三冊子・旅寝論』潁原退蔵校訂、一九三九、岩波文庫p.137)
「せぬ方先よろし」というくらいだから、実際に夷狄が登場することはほとんどない。
『冬の日』の「狂句こがらし」の巻二十六句目の、
しらじらと砕けしは人の骨か何
烏賊はゑびすの国のうらかた 重五
の「ゑびすの国」はあくまで架空の物で、七福神の来る蓬莱山の白い生き物として烏賊を出している。
『虚栗』の「詩あきんど」の巻の第三、
冬-湖日暮て駕馬鯉
干(ほこ)鈍き夷(えびす)に関をゆるすらん 芭蕉
この句も想像上の異国で中国と西域との間の関のイメージであろう。
同じく「詩あきんど」の巻の三十二句目、
哀いかに宮城野のぼた吹凋るらん
みちのくの夷(えぞ)しらぬ石臼 其角
の句は「宮城野」に古代の「蝦夷」を付けている。
これらの句は現実の外国人を詠んではいない。
現実の外国人のイメージは延宝四年のかなり古い時代の「梅の風」の巻四十七句目に、
ぬるい若衆も夢の秋風
床は海朝鮮人のねやの月 桃青
の句が見られる。韓国人は葬式の時に大きな声で「アイゴー」と号泣する習慣がある。多分そのあたりから、後朝でも号泣して床が海になる、と付けたのだろう。
若い頃の奇をてらった句で、これは例外的と言えよう。
甲比丹もつくばはせけり君が春 桃青
の句も延宝六年という古い時代の発句になる。
外国人を詠むことがタブーだったというよりは、実際に外国人に接することがほとんどなかったことが、外国人を詠むことの稀な理由であろう。稀なことなので特にこうしなければならないという取り決めもなかった。
「同いはく、花によし野付ぬ事は、しゐて事もなし。たゞ法度のみ也。」(『去来抄・三冊子・旅寝論』潁原退蔵校訂、一九三九、岩波文庫p.137)
法度とはあるが式目にはなく、これも戦国末から江戸初期に定まった連歌の慣習に由来するのではないかと思う。理由も大方あまりにも月並みだからといったものだろう。
延宝四年の「梅の風の巻」七十八句目に、
衣屋もすでに弥勒の花待て
かねの御嶽を両替の春 桃青
の句がある。「かねの御嶽」は吉野金峰山の別名。別名ならいいというのは談林特有のマリーシアと言えよう。
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