2022年6月30日木曜日

  人間は基本的にはこれまでの熾烈な生存競争の勝者の血を引いているからね。だから好戦的かどうかということに関しては男も女もそんなに変わんないと思う。
 ただ、子孫を残すことに関して、女性は自分が生まなくてはいけないが、男は基本的に消耗品だからね。だから戦うとなると男は一か八かの賭けに出る傾向があり、そのための色々奇想天外な戦略を考えるのが好きだ。
 それに比べると女は自ら矢面に立つのではなく、男をけしかけて自分を安全な所に置くことを好むものだ。女性が平和主義者だというのはそういうことだ。
 男は死んでも種を残すことはできる。女は最低でも十月十日、子供を自分が生き永らえなくては子も生き永らえない。
 そういうわけで女性の独裁者がいたからと言って、侵略戦争を起こさないという保証は何もない。ただ、先頭を切って戦うか、後ろから煽り立てるか程度の違いにすぎない。それでいくと自ら先頭に立とうとしないプーちんって、て感じはするけどね。
 ボリス・ジョンソンさんやゼレンスキーさんはいかにも男って感じがする。

 それでは「東路記」の続き。

 「南宮山の南、多岐山の北を通る道あり。南宮山と多岐山との間也。此谷は、関が原の谷あひより広しと云。上方より下る道筋は、今洲より関が原へゆかずして、関が原の西より南へわかれ、東へ行く。
 牧田と云宿、今洲より二里、牧田の東に高田といふ宿あり。其東に、唐末と云所有。是。大垣の南也。唐末より河船にのり、桑名へも宮へもゆく也。京都の商人などは荷物を江戸へ下すに、多くは此道をつかはすと云。今洲より唐末まで六里有。
 関が原軍の前の夜、石田、小西など、大垣の城より夜中に出て、ひそかに関が原の西へ退きしは、此道なりと云。」(『新日本古典文学大系98 東路記・己巳紀行・西遊記』一九九一、岩波書店p.24~25)

 南宮山と養老山地との間を通るルートは、今は中央自動車道西宮線が通っている。牧田川が流れていて、関が原から流れる藤古川と合流する辺りに今も牧田の集落がある。
 平野部に出た所に高田馬場町があり、その東には養老鉄道の美濃高田駅がある。、この辺りが高田宿であろう。
 養老鉄道はここで東に行き、次の駅が烏江(からすえ)駅になる。ここが唐末であろう。ここから船で揖斐川に出て、下って行けば伊勢湾に出る。桑名へも熱田へも行ける。
 この街道は九里半街道と呼ばれている。米原の朝妻湊と揖斐川とを結ぶ物流の要衝で、いわば産業道路だ。今洲から唐末が六里ということは、朝妻湊から今洲までが三里半ということか。
 石田・小西などの動向は、ウィキペディアに、

 「(1)9月14日に赤坂に着いた家康は15日の午前10時ごろ、関ヶ原に移動し合戦に及んだ。石田三成・島津義弘・小西行長・宇喜多秀家の各勢は前日14日の夜に大垣城の外曲輪を焼き払って関ヶ原へ出陣。」

とある。赤坂から移動した家康が桃配にいたため、そこを避けてこのルートから関が原に入ったという。

 「大関村は、関が原の町より三町ばかり西也。是、不破の関のありし所也。大関村の西のはづれに川あり。関の藤川と云。いづれも名所なり。俗に藤子川といふ。」(『新日本古典文学大系98 東路記・己巳紀行・西遊記』一九九一、岩波書店p.25)

 関が原の西の旧中山道沿いに今も「不破の関跡」がある。関の藤川(藤子川)は今は藤古川と表記されている。
 不破の関は言うまでもなく多くの古歌に詠まれている。

 あられもる不破の関屋に旅寝して
     夢をもえこそ通さざりけれ
              大中臣親守(千載集)
 人住まぬ不破の関屋の板庇
     荒れにしのちはただ秋の風
              藤原良経(新古今集)

などの歌があり、貞享元年にここを訪れた芭蕉も、

 秋風や薮も畠も不破の関     芭蕉

の句を詠んでいる。
 関の藤川も、

 美濃の国関のふち河たえずして
     君につかへむよろづよまでに
              陽成天皇(古今集)
 つかへこし世々の流れを思ふにも
     我が身にたのむ関の藤川
              京極為兼(続拾遺集)

の歌に詠まれている。

 「南宮山の西南に、多羅山有。其道を土岐多羅越と云。近江の日野山の方へ越す道なり。関が原陣敗れし時、嶋津氏退給ひし道なり。」(『新日本古典文学大系98 東路記・己巳紀行・西遊記』一九九一、岩波書店p.25)

 南宮山の西南は九里半街道牧田宿があり、そこから牧田川を遡って南西に行くと上石津町下多良という地名の残っている谷がある。その南の上多良という所には島津豊久の墓がある。伯父の義弘とともに関ケ原の合戦に西軍として参加したが、ウィキペディアには、

 「乱戦の最中、義弘を一度見失った豊久は、涙を流しながら義弘はどうしているかと心配し、義弘とその後合流できたと伝えられている。やがて、戦いが東軍優位となると島津隊は戦場で孤立する形となり、退路を断たれた義弘は切腹する覚悟を決めた。しかし豊久は戦後にやってくる難局に立ち向かうには伯父義弘が生きて帰る事が必要だと感じ、「島津家の存在は義弘公にかかっている。義弘公こそ生き残らねばならない」、「天運は既に窮まる。戦うというも負けは明らかなり。我もここに戦死しよう。義弘公は兵を率いて薩摩に帰られよ。国家の存亡は公(義弘)の一身にかかれり」と述べ撤兵を促した。これで意を決した義弘は、家康本陣を掠める形で伊勢街道方面に撤退することにした(島津の退き口)。豊久はこの戦闘において殿軍を務めたが、東軍の追撃は激しく島津隊も多数の犠牲を出した。井伊直政勢が迫り、鉄砲を一度放って、あとは乱戦。豊久は義弘の身代わり(捨て奸)となって、付き従う中村源助・上原貞右衛門・冨山庄太夫ら13騎と大軍の中へ駆け入って討死した。薩藩旧記雑録には、「鉄砲で井伊直政を落馬させ、東軍の追討を撃退。島津豊久、大量に出血」という内容が記されている。一説によると、豊久は重傷を負いながらも義弘を9km近く追いかけ、瑠璃光寺の住職たちや村長が介抱したが、上石津の樫原あたりで死亡し、荼毘に付されて近くの瑠璃光寺に埋葬されたという伝承もあり、同寺には墓が現存している。また、かなり早い段階で豊久の馬が、鞍に血溜まりがあり主を失った状態で見つかったとも伝えられている。いずれにせよこの豊久らの決死の活躍で、義弘は無事に薩摩に帰還する事ができたのであった。」

とある。どうやらここにある墓は伝承であって確証はないようだ。美少年だったとのうわさもあるようだ。
 今は国道365号線が通っていて、伊勢へと抜けられる。鞍掛峠を越えると近江の方へも抜けられる。かつての参宮街道だったようだ。今は国道306号線が通っている。

 「関が原と今洲の宿の間に、山中の里あり。関が原陣おはりて、其後、家康公、此所に御宿陣有しなり。源の義経の葉は、常盤が墓あり。道の北、森ある所なり。」(『新日本古典文学大系98 東路記・己巳紀行・西遊記』一九九一、岩波書店p.25)

 旧中山道は関が原を出ると南に向きを変える所があり、そこに山中という地名があり、今も常盤御前の墓というものがある。貞享元年にここを訪れた芭蕉は、『野ざらし紀行』に、

 「やまとより山城を経て、近江路に入りて美濃に至る。います・山中を過て、いにしへ常盤(ときは)の塚有り。伊勢の守武(もりたけ)が云ける、よし朝(とも)殿に似たる秋風とは、いづれの所か似たりけん。我も又、

 義朝の心に似たり秋の風」

と記している。

   月見てやときはの里へかかるらん
 よしとも殿ににたる秋風     守武

の句を思い起こしての吟になる。

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