それでは「東路記」の続き。
「〇奥津川のほとりより甲州身延山へ行道あり。清見寺の客殿に雪舟の絵あり。清見寺の堂の前、絶景なり。」(『新日本古典文学大系98 東路記・己巳紀行・西遊記』一九九一、岩波書店p.12)
興津を起点として身延山へ行く道は「身延道」と呼ばれていて、参詣者の道になっていた。江戸の方から行くと、興津川を渡った辺りから興津川に沿って遡って行く。今の国道52号線の元になった道でもある。途中に新東名の新清水インターがある。
清見寺はそれより先にある。昔は清見が関があり、この辺りの絶景は歌枕にもなっているが、今は埋め立てられて見る影もない。清見潟とも言われていたから、干潟だったのだろう。伝雪舟筆の『富士三保清見寺図』にはその昔の姿が留められている。
この絵に「伝」と付くのは、雪舟自筆のオリジナルではなく、それの精密な模写だとされているからだ。
そこには左手前に清見寺の大伽藍が描かれていて、その後ろに山があり、画面中央に興津川の河口が複雑に入り組んだ地形に描かれていて、その反対側には三保の松原が描かれている。清見潟はこの興津川の河口から対岸の三保の松原までを含んでいたのだろう。
そして遠景に富士山と愛鷹山が描かれている。三保の向こうには伊豆の山も描かれている。ネットで日本平からの富士山方面のパノラマ写真が見られるが、これを左右に大きく圧縮すれば、雪舟の絵に近いものになる。角度的に言えば清水船越堤公園の方が近いかもしれない。いまは清水市街地のビル群に遮られているが、おそらくこの辺りから見た景色が元になっているのだろう。
その雪舟だが、雪舟がここを訪れたという伝承はあり、『富士三保清見寺図』も雪舟筆のオリジナルがあったとされているが、清見寺に雪舟の絵は残っていない。貞享の頃にはまだあったのだろうか。
雪舟の『富士三保清見寺図』の富士山は中央に大きな三角の山を描き、その左右にやや山頂を低くした二つの山が描かれている。これがあたかも釈迦三尊のようで、投資家だったら株価のチャートが思い浮かぶところだ。
この筆法はその後の狩野派などにも受け継がれ、芭蕉自筆の『甲子吟行画巻』の富士山もこれを踏襲している。
実際静岡側から見た富士山は中央手前に最高峰の剣が峰(3776m)があり左に白山岳(3756m)、右側に三島岳(3734m)が見える。ただ、山頂をただリアルに描くのだったら、中央の剣が峰の裾野を山の下の方まで引っ張る必要はない。これは異なる視点から見た三つの富士山を合成したもので、どの角度から見ても美しい姿を見せることを表現したものと思われる。
日本の伝統絵画は近代の西洋画のような一つの固定した視点で描かれてはいない。多くは斜投象で描かれていて、それに複数の視点を追加するようなことは普通に行われていた。斜投象は決して線遠近法に劣った図法ではなく、むしろ物の形がより正確に描けるということで設計図などにも用いられている。
雪舟のこの富士山の筆法は、やがて北斎によって破られることになる。北斎は一枚の絵でどの角度から見ても美しい富士山を描くのではなく、三十六枚の絵を書くことでそれを打ち破ることとなった。
清見潟は薩埵峠の海岸線から興津川の河口域、それに対岸の三保の松原を含む、今の清水港一帯を含んだ入り江で、そこには干潟が形成され、美しい風景を形作っていた。
和歌にも、
清見かた関にとまらてゆく船は
嵐のさそふこのはなりけり
藤原実房(千載集)
清見潟月はつれなきあまの戸を
待たでもしらむ波の上かな
源通光(新古今集)
清見潟月すむ夜半の村雲は
富士の高嶺の煙なりけり
登蓮法師(続拾遺集)
など多くの歌に詠まれている。
「奥津、清見寺のあたりの浜、清見潟也。奥津と江尻の間に田子の浦有。菴原川有。此川上に廬原(いはら)と云村あり。頼朝の時、廬原左衛門が居たりし所なりと、云。此辺すべて庵原郡なり。」(『新日本古典文学大系98 東路記・己巳紀行・西遊記』一九九一、岩波書店p.13)
吉原宿の方にも田子の浦があったが、奥津と江尻(今の興津と清水)のほうも田子の浦と呼んでいたか。かつて古代東海道の時代に波の関守のいる道を嫌って、興津から船で沼津の方まで渡っていたとしたら、この全体が田子の浦だったのかもしれない。江戸時代も沼津と江尻の間に海上ルートがあったことは沼津の所に書いてあった。
「いはら」という地名は菴原、廬原、庵原と三つの表記がされている。この時代の人は音があっていれば文字はそれほど気にしなかった。どれが正解ということではない。今日も静岡市清水区庵原町という地名が残っている。東名高速の清水インターのある辺りになる。東海道の道からはやや内陸に外れる。
廬原左衛門はここを所領としていた庵原氏の者で、ウィキペディアに、
「663年中大兄皇子の外征「白村江の戦い」では、この一族の廬原君臣が一軍の将として戦った。天智紀二年條に「大日本の救将廬原君臣が健児万余を率い、正に海を越えて至る」との記述があり、常時かなりの勢力を誇っていた。後に菴原の字を用い、後世は多く庵原の字を用いた。室町時代になると今川氏傘下に入るものの、地方豪族としての勢力は衰えなかった。『今川仮名目録』には明応の頃、庵原周防守という人物が親族間の借金問題で今川氏親に仲裁を求め、今川は貸主の庵原左衛門に周防守の料所のうち焼津郷を引き渡して分家させこれを収めたという記述があり、駿河に複数の庵原家があって一族がこの地で栄えていたことが伺える。」
とある。この庵原左衛門は明応(一四九二年から一五〇一年まで)の頃だから、頼朝の時代ではない。代々庵原左衛門を名乗っていたのかもしれない。
「江尻と府中の間に草薙村有。明神有。むかし景行天皇の御時、日本武尊東夷征伐の大将として東国へ下り給ひし時、此所にて夷ども火を放て尊を焼殺さんとす。尊、はき給へる宝剣を以て草を薙はらひ給ふ。其火、敵の方へもえて敵悉く焼殺さる。宝剣を草薙の剣と云は此いはれ也。」(『新日本古典文学大系98 東路記・己巳紀行・西遊記』一九九一、岩波書店p.13)
江尻は今の清水、府中は静岡になる。かつて駿河国の国府が今の静岡にあり、国府のあった場所はその後徳川家康の駿府城になった。国府のある所という意味で府中と呼ばれている。
この物語はウィキペディアには、
「その後、ヤマトタケルは相武国(『古事記』および『古語拾遺』)もしくは駿河国(『日本書紀』、熱田神宮伝聞)で、敵の放った野火に囲まれ窮地に陥るが、剣で草を刈り払い(記と拾遺のみ)、向い火を点け脱出する。 日本書紀の注では「一説には、天叢雲剣が自ら抜け出して草を薙ぎ払い、これにより難を逃れたためその剣を草薙剣と名付けた」とある。」
とあり、この部分は『古事記』(倉野憲司校注、岩波文庫)に、
「ここにその國造、火をその野に著けき。故、欺かえぬと知らして、その姨倭火賣命の給ひし嚢の口を解き開けて見たまへば、火打その裏にありき。ここにまづその御刀もちて草を刈り撥ひ、その火打もちて火を打ち出でて、向火を著けて焼き退けて、還り出でて皆その國造等を切り滅して、すなはち火を著けて焼きたまひき。故、今に焼道と謂ふ。」
とある。延宝七年秋の「須磨ぞ秋」の巻十一句目に、
火付の野守とらへられけり
草薙の風公儀より烈しくて 似春
の句がある。
「〇府中の方に狐崎あり。梶原景時が討れし所なり。」(『新日本古典文学大系98 東路記・己巳紀行・西遊記』一九九一、岩波書店p.13)
梶原景時の最期については、ウィキペディアに、
「正治2年(1200年)正月、景時は一族を率いて上洛すべく相模国一ノ宮より出立した。途中、駿河国清見関にて偶然居合わせた吉川友兼ら在地の武士たちと戦闘になり、同国狐崎にて嫡子・景季、次男・景高、三男・景茂が討たれ、景時は付近の西奈の山上にて自害。一族33人が討ち死にした。『吾妻鏡』は、景時が上洛して九州の軍兵を集め、武田有義を将軍に建てて反乱を企てたとしている。しかし土御門通親や徳大寺家といった京都政界と縁故を持つ景時は、都の武士として朝廷に仕えようとしていたとの説もある。梶原一族滅亡の地は梶原山と呼ばれている。なお、吉川友兼が景茂を打ち取った際、友兼が所持していた青江の太刀は、友兼の子孫である安芸国人吉川氏の家宝として伝授され、国宝「狐ヶ崎」として現在に伝わる。」
とある。最期については諸説あるようだ。
狐崎はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「狐崎」の解説」に、
「静岡市葵区柚木(ゆのき)と駿河区曲金(まがりかね)の間の道沿いにある地の俗称。梶原景時が一族とともに戦死した地と伝えられる。清水区大内付近ともいう。」
とある、これも諸説あるようだ。「府中の方」とあるから、ここでは柚木の方であろう。
柚木・曲金はJR東静岡駅の近くで、近くに古代東海道の遺跡(曲金北遺跡)もあり、古代東海道がこの辺りを通っていたことが分かっている。
清水区にJR狐ヶ崎駅があるが、ここは元々上原駅で、狐ヶ崎遊園地ができたことで狐ヶ崎駅になったという。ウィキペディアに、
「狐ヶ崎は本来、鎌倉幕府創設に貢献した梶原景時とその一族が鎌倉からの追手に殲滅された地である現在の葵区川合付近の名称であった(景時が討たれたのは葵区の谷津山南側の曲金地区という説もある)。鎌倉御家人の吉香友兼が景時の三男景茂を討ち取った備中青江為次の太刀は、名刀「狐ヶ崎」と呼ばれる。友兼は翌日に戦傷死したが、子孫の安芸国人吉川氏、さらにその家系を簒奪した毛利分家旧岩国藩主吉川氏のもとで、伝来の家宝として拵えともども管理され、岩国市の吉川史料館で保存されている。刀身、拵えとも国宝に指定である。刀身は、いかにも平安末から鎌倉前期らしい、ふんばりの付いた見事な元反りの刀姿と、古青江らしい澄んだ直刃と地肌が特徴で、美術的価値を高く評価されている。拵えは、源平期から鎌倉初期の武士の刀装のありかたを示す貴重な歴史的史料である。現在の駅名はこの静岡ゆかりの高名な刀剣にちなんだ「狐ヶ崎ヤングランド」に由来するものであり、駅周辺地域の本来の名称は「上原」である。」
とあり、梶原景時の最期とは直接の関係はない。
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