紫陽花の名所というと庭に固まって植えてあるところが多いが、ここは田んぼの脇にかなりの広い範囲に植えているのが特徴で、種類もいろいろあった。
写真は今日撮影。
大河ドラマは何であんな変な陰謀説にしちゃったんだろうね。それに十郎いないじゃん。虎御前どこへ行った。まあ、陰謀説の好きな人にはあれでいいのかな。
歴史は政府の工作でいくらでも改変することのできるものだ、というのがテーマだったら、それは間違っていると言おう。人のうわさというのを侮ってはいけない。政府はころころ変わるが民衆はいつでもそこにいる。最終的には民衆の間で語り継がれた物が残る。
それでは「東路記」の続き。
「〇吉原の町より七八町北、富士のすそ野に今泉といふ村あり。此村に五郎右衛門と云大百姓有。天性父母に孝あつく、他人にも慈愛ふかく、善行多き事、あげてかぞへがたし。其父先年死けるが、其所のならはしにて、父死すれば家富たるものはかならず葬のともに其家の馬をひかせ、すぐに寺につかはす。
五郎右衛門も其父の馬を葬礼の時ひかせけるが、父の平生乗たる馬を他人の手に渡さんも不便なりとて、其馬のあたひより多く金子を寺へつかはして馬を取返し、むま屋を別に新しく作りて其馬をたて置、数年の後、馬病死するまで、のらずつかはずして飼置し也。
吉原の町に津波上りし時、五郎右衛門が家に大釜を七ツあつめ、飯を多くたきて、吉原より海水をさけてのがれし家々につかはし、いづくよりともなく其飯を置て帰る。此時、吉原の町の者は、五郎右衛門が養ひにて命をたすかると云。」(『新日本古典文学大系98 東路記・己巳紀行・西遊記』一九九一、岩波書店p.9~10)
前半は「葬馬」の習慣で、コトバンクの「精選版 日本国語大辞典「葬馬」の解説」に、
「〘名〙 葬送の時、葬列につらなる引馬。
※太平記(14C後)三二「今まで秘蔵して乗られたる白瓦毛の馬白鞍置きて、葬馬(サウば)に引かせ」
※随筆・松屋筆記(1818‐45頃)九五「死たる時聖に布施する馬をば葬馬といへり」
とある。古代には馬を殉死させる習慣もあったようで、それが馬の埴輪に取って代わったとも言われている。いつからか、馬をお寺に寄進するふうに変わっていったのだろう。
お寺にお布施として馬を渡しても、お寺もそのまま飼うわけにもいかずに、大抵は売却されていたのだろう。それならば、ということで馬の代りにお金でお布施を渡し、馬を手元に留め天寿を全うさせたという美談になっている。
その五郎右衛門が大津波で多くの被害ができた時、今で言えば炊き出しだが、日本人は昔から善行をするときに自分の名を表に出すことを嫌って、いわば匿名で困っている人の所に飯を置いて行ったという。
今もタイガーマスク運動というのがあるが、寄付するときは決して売名にならないように匿名でやらなくてはならないという習慣は、日本では根強いものがある。一説には道教に由来するとも言う。
道教は日本では教団化されることがなく、明確な教義や戒律を持たない神道の中に溶け込んで習慣化されて行っている。
「又、其比海水あふれしゆへ近国の浜に塩なかりしを、五郎右衛門船に乗て上方へ行き塩を多く買来り。家人を多く塩商人のごとくして彼津波のあげし村々の家々につかはし塩をうらせ、其あたいをば重てとりに来るべしと云はせければ、久しく塩にうゑたる家々悦て是を取る。日久しけれ共、其塩のあたいをこひに来らざれば、みないぶかしくおもひける。後によく聞てこそ五郎右衛門がほどこしなりとはしりたりけれ。」(『新日本古典文学大系98 東路記・己巳紀行・西遊記』一九九一、岩波書店p.10)
塩を配るにも、ただで配るのではなく、商人がやって来て料金を後払いということにして塩を配り、結局取りに来ないという所で施しにしている。
「凡、人に物をほどこして其名をあらはす事をこのまず、陰徳多し。」(『新日本古典文学大系98 東路記・己巳紀行・西遊記』一九九一、岩波書店p.10)
陰徳はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「陰徳」の解説」に、
「① 人に知られない善行。ひそかに施す恩徳。かくれた功績。陰騭(いんしつ)。
※本朝文粋(1060頃)七・奉左丞相書〈三善清行〉「紛乱之間。授攘之会。宜下立二其陰徳一、塞中怨門上」
※太平記(14C後)一四「陰徳(イントク)遂に露れて、今天下の武将に備はり給ひければ」 〔史記‐韓世家賛〕」
とあり、古くからある言葉だが、別に道教起源でなくても、人類に普遍的にあるのではないかと思う。少なくとも、西洋人は寄付すると大々的にアピールするが、それに比べて日本人は遅れている、という主張は正しくない。
寄付しているのをアピールすることは、宣伝した方がより多くの寄付が集まるというメリットがあるからにすぎない。自分の持っている私財を越えた多くの寄付金を集めるのには有効だが、私財の範囲内で寄付する分には、西洋人だってそれを吹聴するようなことは恥じると思う。
基本的に贈与は只ではない。よく「只ほど高いものはない」というが、贈り物は一般に返礼をとセットになるもので、これは贈り物をするというのが同時に「恩を売る」ことになるからだ。
贈与は相互依存的に生活せざるを得ない人間の社会にあっては、少なからず返済の義務を生じる。恩を受けたからには何かお返しをしなくてはいけないというのは、原始の頃からの人間の普遍的な感情だ。
だから、善行は「恩を売ってない」ということを明白にする必要がある。返済を要求しない一方的な贈与であることがわかるようにしないなら、貰う方もうかつに貰うことができない。匿名の贈与というのはそういう意味を持っている。
モースの『贈与論』には、ポトラッチと呼ばれる競覇型贈与が多くの民族に見られることを指摘しているが、相手が返済できないほどの贈与は、いわば返済不能な借金を負わせるようなもので、そのまま債務奴隷に転落させる。それを防ぐには、贈与には贈与で対抗しなくてはならない。
今でもヤクザにうっかりものを貰ってしまったら、即座に同額の品を返す、いわゆる「全返し」を行い、貸し借りをチャラになくてはならない。
当たり前のことだが、人に物を施しても、それでもって恩を着せて相手を債務奴隷に転落させるようなことは、善行どころか悪徳以外の何でもない。善行が基本的に陰徳でなくてはならないのは、普遍的なことだと思う。ただ、仲間に寄付を促すために、自分もこれだけ出したから、と言うのは正しい。
「飢饉の時は人をすくふ事尤多し。伊勢に参宮せんとするもの財乏しくて行く事かなはざれば、路銀をかして、重て其つぐのいを求めず。
或時、五郎右衛門が家に盗人来て、蔵をうがちて米を二俵取て出けるを、五郎右衛門が下女見付て五郎右衛門に告ぐ。五郎右衛門は父母死してより以来、父母のためとてあかつきごとに看経おこたらず。此おりふしも看経して居たりしが、是をきき其まま経よみていらへもせず。下女こらへかねて家のおのこ共につげしかば、盗人入たりとてひしめくを聞て、村中のもの多くおどろき出て盗人を追ければ、ぬす人米をすててにげたり。
後に五郎右衛門ん聞て腹をたて下人をしかりけるは『我が身上にて米二俵を取られし事、何程の事にかある。其ため村中の大勢を動かしけん事、有まじきひがことなり。其盗人は定めて粮つきて、せんかたなきままに、五郎右衛門が蔵には米も多くありなんとおもひてこそ来りて取つらめ。それをおひおとしてとらんも本意にあらず』とて、盗人のすて置たりし米を下人にもたせてぬす人のかたへぞおくりける。」(『新日本古典文学大系98 東路記・己巳紀行・西遊記』一九九一、岩波書店p.10~11)
基本的にこういう善行と言うのは、それだけの財産があるからできることで、自分も貧しかったら分け与えるものもない。いわばそれだけ稼ぐ力があるからできることだというのは、きちんと見ておく必要があるだろう。
富の再配分というのは、基本的に富める者の善意であるのは言うまでもない。「我が身上にて米二俵を取られし事、何程の事にかある」←ここ大事、というところだ。
要するに真面目に働いて、ひと財産を作り、余裕ができて初めて善行というのは成り立つ。貧しい人を救いたいと思ったら、まず自分が裕福にならなくてはいけない。裕福になって初めて貧しい人に施しができる。これは基本だ。芭蕉の句にも、
薬手づから人にほどこす
田を買ふて侘しうもなき桑門 芭蕉
とある。
世の中は「一寸先は闇」というように、どんな裕福な人でも冤罪かなんか着せられて一日にして没落することもあるかもしれない。そうなったときにかつて施してやった人たちが恩返しをしてくれる。そう思うと善行は結局は保険でもある。「情けは人の為ならず」だ。
「又或時、五郎右衛門が野に在し畠に盗人来て牛蒡をほる。五郎右衛門折節通りけるが、是を見て、『そこは牛蒡のほそくてあしき所なり。こなたこそ大なる所なり』とおしへて、よき所をほらせける。其天性の厚き事、みな此類ひなりとぞ。」(『新日本古典文学大系98 東路記・己巳紀行・西遊記』一九九一、岩波書店p.11)
これも「さもありなん」という話だ。
畑仕事にしても日々工夫し、少しでも生産力を上げるように努力すれば、それだけ他人に多くの者を施せるようになる。生産性の向上ということが根底にあれば、それでけ多くの善行もできるようになる。
盗人も畑の生産物の余剰を掠め取っているにすぎない。それであればたとえ盗人がたくさんいても社会秩序は維持できる。これがひとたび、こうした篤農家の生産手段である畑そのものを奪ってしまったのでは、これまでの高い生産力が損なわれ、畑が荒れ果ててしまう。そうなると結局盗人も餓えることになる。
盗人にもそこの加減が大事なのは言うまでもない。二十世紀の社会主義の過ちはそこにあったのではないかと思う。
多分この盗人も遠慮して、わざと細い牛蒡を盗もうとしていたのだろう。
「此御代に生れ太平のたのしみをうくる事、ひとへに東照宮より以来、世々の君、上の御恩わすれ難しとて時々拝し奉る。あやまりなれ共、其忠厚の志はまことに感ずべき事なり。
凡五郎右衛門が善行、世に人のかたり伝るは、只其かたはし也。平生の実行は猶あげてかぞへがたし。
天和元年の夏、諸国へ巡検使をつかはされし時、五郎右衛門が善行を巡検使聞て江戸へ申上給ひしかば、江戸へ召出され、五郎右衛門がもてる今泉村の田高九十石の地を永代年貢を御免ありて御朱印を賜はる。
其後、家弥富て財多ければ、貧民をすくひ善行を行ふ事はいよいよやまずといへども、身に奉ずる事はもとのごとく甚倹約にしておごらず。人にへりくだる事むかしのごとし。
貞享元年其歳四十二、其家に奴婢三四十人、牛馬十五疋ばかり有。」(『新日本古典文学大系98 東路記・己巳紀行・西遊記』一九九一、岩波書店p.11~12)
こうした善行ができるのも、徳川幕府の元に戦乱もなく、天下泰平だからなのは言うまでもない。
戦国時代であれば、いつ屋敷が焼き払われ田畑が戦場になるとも限らない。平和という前提があってこそ善行は成り立つ。戦争はこうした善行を根こそぎ破壊してゆく。
善行を成すには平和が一番の大前提であり、次に生産力の向上ということになる。
五郎右衛門の善行は幕府も知る所となり、永代年貢免除の恩恵にあずかることになる。これは現代でも応用できるのではないかと思う。たとえばESG・SDGsの取り組みで高く評価できる企業に関しては法人税を減額するとか。
最後に「奴婢三四十人」だが、これは本来は下人を表す言葉だった。下人は古い時代にはいわゆる奴隷だったが、江戸時代には普通に年季奉公人のことを表すようになっていた。
下人ではなく下男・下女と呼ぶのが普通になる中で、貝原益軒さんはついつい「奴婢」という古い言葉を使ってしまったのではないかと思う。
まあ、奴隷を使っていた罪で銅像を引きずり倒す必要はなさそうだ。
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