俳諧を読むということは、その時代の歴史を読むことでもある。
歴史(イストワール)を読むというのは、単に文字通り単に物語(イストワール)を読むことではなく、その物語の裏にある隠された基礎設定を理解しなくてはならない。つまりその時代の暗黙の約束事、その時代の習慣、世界観、それらをひっくるめて解明していかなくてはならない。
この基礎設定や世界観を理解することの必要性は、ラノベの読者なら理解できることであろう。
異世界の物語を読むには、その異世界が我々の世界とは異なる独自のルールで動いている世界であることを理解しなくてはならない。
歴史を現代人の価値観を一方的に当てはめて理解してはいけないということは、既に戦後の歴史学の流れで起こっていたことだ。いわゆる進歩史観から脱却して、その時代を構造的に理解することで、近代的偏見から解放されなくてはならない。
レビ・ストロースは未開社会をそれに適用し、ミシェル・フーコーは「知」の歴史にそれをあてはめた。筆者もまぎれもなく若い頃そうした著作を読んで、影響を受けた一人だった。
俳諧を読むことは、その時代を再構成することだ。そして、その時代に転生した気分になったとき、その作品の本当の面白さが理解できる。源氏物語でもそれは同じだ。
昔の人もそうしてきた。季吟の『源氏物語湖月抄』の最初の方の部分は、あたかも今の「設定資料集」のようだ。過去を理解するというのは昔からそういうものだったという証であろう。
今日は「東路記」の方はお休みします。
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