さて、俳諧も発句も読んできたので、この辺でまた旅でもしようかと思う。
連歌師や俳諧師の旅ではなく、図書館から借りてきた『新日本古典文学大系98 東路記・己巳紀行・西遊記』(一九九一、岩波書店)から、まずは「東路記」で東海道をたどってみようと思う。貝原益軒の著で貞享二年三月に江戸を出発したというから、芭蕉の『野ざらし紀行』の半年後ということになる。ほぼ同時代といっていい。俳諧師の文章ではないので、客観的に書かれている。
「東海道 江戸より熱田迄の事を略記す
河崎、河崎の川に、昔大橋有。橋の北を六郷と云。南は河崎也。此川上を入間川と云。戸田の渡有。矢口の渡は、新田義興を殺せし所也。新田大明神有。其上に小手指原あり。又玉川の里、三吉野など云所も入間川のほとり。池上の法花寺、長栄山本門寺と云。大寺なり。」(『新日本古典文学大系98 東路記・己巳紀行・西遊記』一九九一、岩波書店p.5)
河崎は今の川崎で、当時も東海道の川崎宿があった。芭蕉が元禄七年、西への最後の旅に出る時には、門人がここまで見送ったというが、出典は『浪化集』で、
人々川さきまで送りて、餞別の
句を云、其かへり
麦の穂を便につかむ別かな 芭蕉
とある。
一方、路通編の『芭蕉翁行状記』には、
「深川の桃梨散過れば、卯の花雲立わたるききにかんこ鳥の一聲一聲そぞろに、ものなつかしき方もおほしとて、おもひ立旅心しきりにて、五月十一日江府そこそこにいとまごひして、川がやどせし京橋の家に腰かけ、いさとよふる里かへりの道づれせんなと、つねよりむつましくさそひたまへとも、一日二日さはり有とてやみぬ。名残惜げに見えてたちまとひ給。弟子ども追々にかけつけて、品川の驛にしたひなく
麥の穂を便につかむわかれかな 翁」
とあり、桃隣編の『陸奥鵆(むつちどり)』には、
「然ども老たるこのかみを、心もとなくてや思はれけむ、故郷ゆかしく、又戌五月八日、此度は四國にわたり長崎にしばし足をとめて、唐土舟の往来を見つ、聞馴ぬ人の詞も聞んなどと、遠き末をちかひ、首途せられけるを、各品川まで送り出、二時斗の余波、別るる時は互にうなづきて、聲をあげぬばかりなりけり、駕籠の内より離別とて扇を見れば、
麦の穂を力につかむ別哉」
とある。
ともに品川で別れたことになっている。日付も食い違っている。深川から品川まで何のかんのと名残を惜しんでいるうちに三日過ぎたのかもしれない。
新麦はわざとすすめぬ首途かな 山店
また相蚊屋の空はるか也 芭蕉
に始まる歌仙興行もこの頃のことであろう。
「昔大橋有」というのは、ウィキペディアに、
「六郷は東海道が多摩川を横切る要地で、慶長5年(1600年)に徳川家康が六郷大橋を架けさせた。慶長18年(1613年)、寛永20年(1643年)、寛文2年(1662年)、天和元年(1681年)、貞享元年(1684年)に架け直され、貞享元年のものが江戸時代最後の橋になった。1688年(貞享5年)の洪水以後、橋は再建されず、かわりに六郷の渡しが設けられた。」
とあり、貝原益軒がここを通った時にはまだ橋があり、その後「昔」の一字を加えたのであろう。
そうなると、元禄四年冬に江戸にもどってくるときには橋がなくなっていて、元禄七年の西国へ行く時も橋がなかったことになるから、六郷の川べりで別れた可能性もある。それなら送ってった門人は品川宿までと証言し、関西へ行った芭蕉さんは川崎へ渡る所まで送って行ってもらったと話していたのなら、辻褄があう。
六郷大橋は芭蕉が『野ざらし紀行』や『笈の小文』の旅に出る時にはまだあった。『笈の小文』の旅からの帰りは『更科紀行』の旅を経て長野善光寺から帰ったので、東海道は通っていない。
「此川上を入間川と云。戸田の渡有。」は益軒さんの勘違いであろう。実際に川を遡ったわけではないので、聞いた話をそのまま書いたのではないかと思う。
戸田の渡は中山道で、板橋区と戸田市の間の荒川にあった。
多摩川と入間川は青梅と飯能の上の方の高水三山の辺りで数キロ程度の距離にまで接近しているから、ごっちゃにする人も多かったのだろう。
「矢口の渡」は今の国道一号線の多摩川大橋の辺りで、コトバンクの「日本大百科全書(ニッポニカ)「矢口」の解説」には、
「東京都大田区南西部、多摩川左岸の地区。第二京浜国道の西側が矢口、東側が東矢口で、東急電鉄東急多摩川線(旧、目蒲(めかま)線)矢口渡(やぐちのわたし)駅は多摩川1丁目にある。かつての古奥州街道が通り、日本武尊(やまとたけるのみこと)東征のおり、矢合わせをしたことが地名の由来といい、横浜市鶴見(つるみ)区には矢向(やこう)の地名がある。南北朝のころ、鎌倉街道が通り、多摩川に矢口の渡しがあった。ここで新田義貞(にったよしさだ)の子義興(よしおき)が謀殺されたとする説があり、その霊を祀(まつ)る新田神社がある。その縁起を題材に平賀源内は福内鬼外(ふくうちきがい)の筆名で淨瑠璃(じょうるり)『神霊矢口渡』を書いている。沿岸は下丸子(しもまるこ)に続く工業地区である。[沢田 清]」
とある。
鎌倉街道というと上道(かみつみち)、中道(なかつみち)、下道(しもつみち)があり、神道は関戸、中道は二子で多摩川を渡り、下道は丸子の渡しで渡っていた。南北朝の頃には矢口の方を通るように変わっていたか。丸子の渡しは古代東海道の延喜式の道がここを通っていたが、品川の方に向かうにしてはかなり遠回りになる。
室町時代の『宗祇終焉記』で太田道灌の江戸城から神奈川区の権現山城へ向かったルートはよくわからないが、この頃はまだ矢口の渡しを渡っていたのかもしれない。慶長五年(一六〇〇年)に徳川家康が六郷大橋を架けてから、東海道が今のルートになったか。
「新田大明神」は今も新田神社として残っている。
「其上に小手指原あり。又玉川の里、三吉野など云所も入間川のほとり。」は先ほどの入間川と同様、勘違いと思われる。
小手指原は今の所沢の近くで、小手指原の戦いがあった古戦場になる。鎌倉街道上道が通っていた。
玉川の里は六玉川の一つの調布(たづくり)の玉川で、今の調布の辺りになる。これは多摩川で間違いない。三吉野は『宗祇終焉記』では河越城から江戸城へ行く時に通っている。今の川越街道の前身にあたる道であろう。今の三芳町の方になる。鎌倉街道上道の小手指原から北東の方へ行った方にある。
小手指原と三吉野は入間川の方になるが、玉川の里は多摩川で間違いない。
「池上の法花寺、長栄山本門寺と云。大寺なり。」は今も池上の本門寺と呼ばれている寺で、「法花寺」というのは法華寺で、ここでは日蓮宗の寺という意味か。山号は長栄山という。
「新町、昔はかたびら、程が谷などとて宿有しを、慶安二年、此町に一所にうつせり。故に新町と云。是より金沢、鎌倉へ行道、左に在。金沢に能見堂、筆すての松有。昔金岡、此所の景をうつさんとせしに、筆にも及難しとて筆を此野に捨しといへり。金沢に八景有と云。此所に入海あり。遠き故大河なり。」(『新日本古典文学大系98 東路記・己巳紀行・西遊記』一九九一、岩波書店p.5)
新町は保土ヶ谷宿のことだが、ここから分岐したはるか遠くにある金沢の記述がメインになる。
『宗祇終焉記』の宗祇らのルートは神奈川区の権現山城が江戸時代の神奈川宿の辺りなので、ここから箱根へ向かうルートは明記されてないが、既に近世東海道の道筋ができていたのではないかと思われる、そうなると、保土ヶ谷宿も室町時代からあった可能性がある。ここにも「昔はかたびら、程が谷などとて宿有しを」とある。
ウィキペディアには、
「1648年(慶安元年)までは元町付近に宿場があり、東海道も西北の位置にあったが、新町(下岩間町 - 程ヶ谷茶屋町)が起立して道筋も変更になった。新町起立の経緯や道筋変更の由来は現在も明らかになっていない。」
とある。元町は今の狩場インターの方にあり、保土ヶ谷宿上方見附跡より先で、セブン-イレブン保土ヶ谷元町橋店の所で道が直角に近く曲がっているのがその名残であろう。
新町はそれより手前の帷子川にかかる新町橋から先のエリアになる。
新町橋は今の相鉄天王町駅の近くにある帷子川にかかる橋で、渡る手前には松原商店街がある。JRの踏切の手前に金沢横町道標があり、ここに金沢道への分岐点があった。
能見堂跡は今の能見台にある。ウィキペディアには、
「能見堂跡(のうけんどうあと)は、神奈川県横浜市金沢区能見台森の山の上にある地蔵堂跡。古くから景勝地として親しまれ、明の僧・心越禅師が漢詩に詠んだ、ここからの眺望こそが「金沢八景」の由来といい、現代の町名・能見台の由来にもなった。」
とある。
また、
「文明18年(1486年)の『梅花無儘蔵』に「濃見堂」とあって、少なくとも室町時代には存在したと考えられる。
寛文(1661年-1673年)のころに芝増上寺の地蔵院が当地に移り、擲筆山地蔵院が建てられた。」
とあり、この頃はこの地蔵院があった。「金沢に能見堂、筆すての松有。」はこのことを言っているのだろう。
「金沢に八景有と云」とあるが、ウィキペディアには、
「江戸時代に入り、もと後北条氏の家臣であった三浦浄心が『名所和歌物語』(1641年-1644年頃刊)の中で瀟湘八景に倣って金沢の地名を名指したことが金沢八景の最も古い例である。その後も現地比定は流動的であったが、水戸藩主徳川光圀が招いた明の禅僧・東皐心越が、光圀の編纂した『新編鎌倉志』に基づき、元禄7年(1694年)に山の上(現在の金沢区能見台森)にある能見堂から見た景色を、故郷の瀟湘八景になぞらえた七言絶句の漢詩に詠んだことで現地比定が方向づけられ、心越禅師の権威と能見堂や金龍院の八景絵図が版を重ねることで普及した。」
とある。心越禅師の八景の詩が金沢八景の始まりとされているが、金沢に八景があるということはそれ以前からも言われていた。
「此所に入海あり。遠き故大河なり」というのは、金沢八景の辺りが入江になっていて、能見堂から見ると大河のように見える、という意味であろう。
「坂東第一の好景也と云、民家のほとりに寺有、称名寺と云。昔の文庫の跡有。北条義時五代の孫、金沢越後守顕時、金沢に居住し称名寺の内に文庫を立て和漢の群書をあつむ。巻ごとに「金沢文庫」と云印をおしたり。儒書、日本の記録などには黒印、仏書には朱印を用ゆ。今に其時の書、世間に稀に残れり。新町と戸塚の間に武蔵、相模のさかひあり。」(『新日本古典文学大系98 東路記・己巳紀行・西遊記』一九九一、岩波書店p.5~6)
金沢八景から金沢文庫の説明になる。称名寺の金沢文庫はウィキペディアには、
「北条氏の一族である金沢(かねさわ)北条氏の祖、北条実時(1224年 - 1276年)が開基した。創建時期については確実なことはわかっていないが、1258年(正嘉2年)実時が六浦荘金沢の居館内に建てた持仏堂(阿弥陀堂)がその起源とされる。のち1267年(文永4年)、鎌倉の極楽寺忍性の推薦により下野薬師寺の僧・審海を開山に招いて真言律宗の寺となった。金沢北条氏一族の菩提寺として鎌倉時代を通じて発展し、2代顕時、3代貞顕の代に伽藍や庭園が整備された。
称名寺と縁の深い金沢文庫(かねさわぶんこ)は、実時が病で没する直前の1275年(建治元年)ころ、居館内に文庫を設けたのが起源とされる。文庫には、実時が収集した政治、歴史、文学、仏教などに関わる書籍が収められていた。」
とある。
「北条義時五代の孫」の北条義時は鎌倉北条氏の二代執権で、今の大河ドラマ『鎌倉殿の13人』でもお馴染みだ。
その北条義時の息子の一人の北条実泰が金沢流北条氏の祖となり、金沢実泰の息子が金沢実時、孫が金沢顕時になる。実際は義時の曽孫になる。ただ、ウィキペディアには、
「始祖は実泰であるが、実泰は若くして出家しているため、家勢の基礎を形成した2代実時が実質的初代ともされる。」
とある。金沢北条氏の二代目という意味で北条義時の孫としたのだろう。
実質初代の実時が称名寺を開き、その息子の顕時が実時が収集した書籍を分類整理して金沢文庫になった。
ただ、このことには今日諸説あるようだ。ウィキペディアには、
「江戸時代の地誌類の多くは貞顕が金沢文庫を創建したとしている。関靖(県立金沢文庫初代館長)は、前記の湛睿書状などをふまえて鎌倉時代中期(おそらく実時の在世中)の創建とした。関説がおおむね定説化しており、実時が金沢に隠退した建治元年(1275年)頃の創建と言われているが、1302年前後(貞顕の代)とする異論もある。貞顕が文庫の荒廃を嘆いていたとされる文書が残り、また貞時?を金沢文庫創建者とする文書も見られることから、貞顕が文庫の再建を行っている可能性も指摘される。」
とあるように、金沢文庫は実時、顕時、その息子の貞顕の三代で作られたと考えた方がいいのだろう。
また、「金沢文庫」の印についても、ウィキペディアには、
「「金沢文庫本」は金沢実時、貞顕らが収集した典籍で、「金沢文庫」という蔵書印のある書物は古くから有名であった。かつての蔵書はほとんどが散逸しており、一部が各所に所蔵されている。文化財指定されているものも多い。
文庫印が金沢氏の代に押された確証はなく、いつ、何の目的で押されたかも不明であるが、室町時代に文庫の流出を危惧した称名寺の僧らが押したのではないかとも言われている。室町時代にも金沢氏の旧蔵書は称名寺の蔵書と一応区別して保管されていたと見られる。」
と諸説あるようだ。
「新町と戸塚の間に武蔵、相模のさかひあり。」とあるのは、保土ヶ谷宿を出て権太坂を登り、品濃坂の下りに入る所の峠に武蔵国と相模国の境界があったことを言う。今は武相国境モニュメントが立っている。
「戸塚、是より鎌倉に行道あり。二里あり。」(『新日本古典文学大系98 東路記・己巳紀行・西遊記』一九九一、岩波書店p.6)
戸塚宿に関しては鎌倉への分岐点があるというだけの簡単な記述しかない。もっとも、品川宿と神奈川宿に関しては何も記されてないから、それよりはましと言えよう。
かつては柏尾川に架かる吉田大橋の所に「左かまくら道」の道標があって、広重五十三次「戸塚」にも描かれている。
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