2022年6月17日金曜日

 我々から平和を奪ったのは誰なのか。食糧危機を引き起こしているのは誰なのか。石油や食品価格の高騰を引き起こしたのは誰なのか。間違ってはいけない。
 ロシアのウクライナ侵略が実は夢であって、明日朝目覚めたら世界は平和に戻っている、そんなことはあるわけない。
 とにかく、話を横にそらそうとしている奴らに騙されてはいけない。日本国民が正しい判断をすることを信じている。
 鈴呂屋は平和に賛成します。

 それでは「東路記」の続き。

 「岡部と藤枝との間に朝比奈川有。川上に朝比奈と云所あり。」(『新日本古典文学大系98 東路記・己巳紀行・西遊記』一九九一、岩波書店p.14)

 朝比奈川は今の新東名の藤枝岡部インターの辺りを流れている。河口近くの焼津市街地でで瀬戸川に合流し、海に出る。
 上流の「道の駅 玉露の里」の辺りが朝比奈で、朝比奈城跡がある。ウィキペディアには、

 「朝比奈城(あさひなじょう)は、日本の静岡県藤枝市岡部町殿地区にある戦国時代の山城。この地域の豪族朝比奈氏の居城。藤枝市指定史跡 。殿山城とも。」

とある。

 「大井川、ふかき時は藤枝より嶋田にゆかず、川下の方にすぐに行て川を渡り、むかへの色尾と云所にあがる。川はば広き故、水あさし。色尾は川より東にあり。金谷より色尾へは一里有。川下なり。
 大井川は甲斐の国のおくより流れ出る。海道第一の難所也。川ごしを多くやとふて、又、此里の馬にのるべし。他所より通りたる馬にのるべからず。あやうし。」(『新日本古典文学大系98 東路記・己巳紀行・西遊記』一九九一、岩波書店p.14)

 この道は色尾道と呼ばれるもので、古代東海道の名残と思われる。
 古代東海道は静岡を出て安倍川を渡ると、手越から南へ向かい日本坂を越え、焼津を南西に向かい、大井川を今の新幹線の鉄橋のやや川下のあたりで渡り、島田市阪本の色尾道から金谷の諏訪原のほうに一直線に進んだと思われる。
 色尾という地名は島田市坂本に残っている。
 近世の東海道よりも川下を渡るため、川幅が広い分川が浅くなる。
 大井川は南アルプスの赤石岳・荒川だけの東側で東俣と西俣に分かれ、西俣は塩見岳を水源とし、東俣は間ノ岳を水源とする。言わずと知れた東海道の難所で、橋がなく、川越人足を雇って手引、肩車、蓮台などで渡った。
 馬では越せないので、ここで馬を乗り換えることになったのだろう。その時に他所から来た怪しげな馬がいたようだ。

 「金谷の上に諏訪の原とて、長き野有り。武田勝頼ここに城をきづき、信州の蘆田などと云士を籠めおかる。東照宮の軍士、これをせむ。城中後攻なくして持こたゆる事かなはず。芦田以下城をあけ渡してのがれぬ。其城あと、金谷の町の上の方にあり。道の南に在。」(『新日本古典文学大系98 東路記・己巳紀行・西遊記』一九九一、岩波書店p.14~15)

 諏訪原城はウィキペディアに、

 「諏訪原城(すわはらじょう)は、遠江国榛原郡金谷(現在の静岡県島田市金谷)にあった戦国時代の日本の城(山城)である。諏訪之原城とも書く。甲斐の武田氏が築城。城内に諏訪大明神を祀ったことからこの名が付いたとされる。」

とある。築城についてはウィキペディアに、

 「翌元亀4年4月(1573年5月)、信玄は病死するものの、跡目を継いだ武田勝頼も遠江の獲得を目論んだ。天正元年(1573年)の諏訪原城の築城もその一環であり、普請奉行馬場信春、その補佐を武田信豊に命じ、東海道沿いの牧之原台地上に城を築かせたという。ただし、このことを記す史料が『甲陽軍鑑』など後代に成立した史料のため、築城者については確定できないものの、この時期の築城は間違いないと考えられている」

とある。天正十八年(一五九〇年)に廃城になったという。
 ただ、場所は金谷の町の上にあるのは間違いないが、江戸時代の東海道の道筋だと北側になる。

 「此上より横須賀まで原の長さ六里有。横須賀は海に近し。金谷と西坂の間、菊川あり。名所なり。古歌有。又、昔、後鳥羽院の御時、承久の乱に光親卿と云し人、咎により関東へ下られしが、此宿にて、詩を作らる。」(『新日本古典文学大系98 東路記・己巳紀行・西遊記』一九九一、岩波書店p.15)

 横須賀は今の掛川市横須賀であろう。原というのは牧之原になる。横須賀城跡がある。ウィキペディアに、

 「天正6年(1578年)、武田家の高天神城を締め付ける付城群の中核として、徳川家康が大須賀康高に命じて築いた城郭である。大須賀家2代の後、渡瀬家1代、有馬家1代、その後、再び大須賀家2代となるが除封され、能見(松平)家2代、井上家2代、本多家1代とめまぐるしく藩主が代わり、西尾忠成が2万5千石で入封し、以後7代をもって明治維新を迎える。」

とある。
 菊川は東海道の間宿がある。芭蕉は『野ざらし紀行』の旅で小夜のなか山を越える時、朝早く宿を出て、

 馬に寝て残夢月遠し茶のけぶり  芭蕉

の句を詠んでいる。杜牧の「早行」の詩なども引用していて、その前に大井川の川留めに逢って、急いでいたと思われるが、朝未明の内に小夜の中山を越えたとすれば、菊川に宿泊した可能性がある。
 菊川は歌枕で、

 波に今映してみばや菊川の
     名も便りある星あひの影
              冷泉為相(夫木抄)
 神無月またうつろはぬ菊川に
     里をばかれず秋ぞ残れる
              藤原為家(夫木抄)

などの歌がある。
 光親卿は葉室光親、あるいは藤原光親と呼ばれる人で、ウィキペディアに、

 「承久3年(1221年)に承久の乱が起こると、光親は北条義時討伐の院宣を後鳥羽院の院司として執筆するなど、後鳥羽上皇方の中心人物として活動。しかし実際は上皇の倒幕計画の無謀さを憂いて幾度も諫言していたが、後鳥羽上皇に聞き入れられることはなかった。
 光親は清廉で純潔な心の持ち主で、同じく捕らえられた同僚の坊門忠信の助命が叶ったと知った時、心から喜んだといわれるほど清廉で心の美しい人物だったという。『吾妻鏡』によれば、光親は戦後に君側の奸として捕らえられ、甲斐源氏の一族・武田信光によって鎌倉へ護送される途中・駿河国車返の付近で鎌倉からの使の命を受け、甲斐の加古坂(現在の籠坂峠、山梨県南都留郡山中湖村)において処刑された。」

とある。
 この時捕らえられた藤原宗行・藤原光親・源有雅・藤原範茂・藤原信能の五人は承久殉難の五忠臣と呼ばれている。
 島田市のホームページには、藤原宗行の、

 昔南陽県菊水 汲下流而延齢
 今東海道菊河 宿西岸而失命

 昔は南陽県の菊水の
 下を流れる水を汲んで寿命が延びたという。
 今は東海道の菊川の
 西岸の宿で命を失う。

の詩が掲載されている。詩碑も立っているという。

 「又、此間に小夜の中山有。東西と中と三山あり。其中なる山也。此辺に事の任と云所有。小夜の中山の道の口也。社有。」(『新日本古典文学大系98 東路記・己巳紀行・西遊記』一九九一、岩波書店p.15)

 小夜の中山だけでなく、小夜の東山も小夜の西山もあったということか。確かに小夜の中山の北の方に「掛川市東山」という地名がある。「掛川市西山」という地名もあるが、かなり離れていて、天竜浜名湖鉄道の原谷駅の西側になる。
 「事の任」は事任八幡宮であろう。日坂にある。ウィキペディアに、

 「事任八幡宮(ことのままはちまんぐう)は、静岡県掛川市八坂にある神社。式内社で、遠江国一宮。」

とある。
 小夜の中山が名所なのは言うまでもない。ここで多くの和歌が詠まれていて、今日の小夜の中山の道の脇にも沢山の歌碑がある。

 雲のかかるさやの中山越えぬとは 
     都に告げよ有明の月 
              阿仏尼(十六夜日記)
 年たけてまた越ゆべしとおもひきや 
     命なりけりさやの中山 
              西行法師 (新古今集)
 甲斐が嶺ははや雪しろし神無月 
    しぐれてこゆる小夜の中山 
              蓮生法師(続後撰集)
 東路のさやの中山なかなかに 
    なにしか人を思ひそめけむ 
              紀友則(古今集)

など。

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