2022年6月24日金曜日

  写真は今年の三月十六日に南足柄へ春めき桜を見に行った時の、狩川の土手の柳で筆者の撮影。
 「笑う芭蕉」の表紙はこの写真の明暗とコントラストを調整しただけのもので、完全オリジナル、トレパクじゃないよーーーって、ただこれが言いたかっただけ。

 昔の日本とアメリカが戦った戦争、結局沖縄の人たちにとっては最初から当事者ではなかったし、どっちが勝とうが関係なく、ただ戦場にされたことだけが遺恨となった。 自分たちは無関係だ。降ってわいてきた戦争に何も悪いことしてないのに犠牲になった。それが今も沖縄の人たちの意識なんだと思う。
 これから中国が攻めてくることがあっても、やはりどっちが勝とうが関係ない。どっちに占領されようが結局一緒なんだ。ただ、戦場にならなければそれでいい。だから、米軍も自衛隊も来るな、なんだろうな。
 昔から他国に支配されるのが常態だった地域だ。その入れ替わりには慣れている。ただ、ここを戦場にするな。これが沖縄の心だということを、我々は理解する必要があるのだろう。
 独立を望むなら筆者は反対しないが、そこに人民解放軍が常駐するような事態になれば、敵基地攻撃を検討せざるを得なくなる。だから、独立する以上は完全に「基地のない沖縄」を貫いてほしい。日本人として望むのはそのことだけだ。

 さて、もう少し旅を続けよう。「東路記」の続き。
 ここから先は東海道ではなく美濃路になる。今のJR東海道線のルートに近い、関ケ原を越えて琵琶湖南岸を通るコースになる。

 「熱田、此所に熱田の宮有。故に世人、是を宮と云。本名は熱田也。」(『新日本古典文学大系98 東路記・己巳紀行・西遊記』一九九一、岩波書店p.19)

 熱田は東海道では宮宿になる。桑名との間は七里の渡しで結ばれている。

 「〇熱田より名護屋の北のはしまで、町つづき三里あり。」(『新日本古典文学大系98 東路記・己巳紀行・西遊記』一九九一、岩波書店p.19)

 熱田と名古屋はこの当時から町がくっついていた。それでも意識の上では熱田と名古屋は別というのがあったのだろう。福岡と博多に似ている。
 『笈の小文』の旅でも鳴海での「星崎の」の巻の興行では鳴海の如風に熱田の知足が参加していて、「笠寺や」の巻の興行でもだいたい同じ連衆が集まっているが、熱田の「磨なをす」の巻は桐葉との両吟になり、名古屋へ行くと荷兮、越人、野水、落梧などの『冬の日』『春の日』のメンバーに入れ替る。そこにはあたかも見えない国境があるかのようだ。
 名古屋の門人は岐阜の門人とは交流があったが、大垣はまた別になる。市街地が連続していながら、心理的な距離では熱田と名古屋は名古屋と岐阜よりも遠かったのかもしれない。
 後に支考が『梟日記』の旅で筑紫に行ったときも、福岡と博多でメンバーが完全に入れ替わっていた。

 「〇熱田より佐屋へ行て川舟にのり、桑名へも行也。熱田より岩塚へ二里、岩塚より万場へ半里、岩塚と万場の間に大河有。尾越川の下也。舟渡し也。
 万場より神守へ、一里半九町、神守より佐屋へ、二里半九町、佐屋より川舟にのり下る。此川は木曽川の下なり。
 桑名へ三里有。此間に、伊勢の長嶋と云所あり。佐屋川の中にあり。長き嶋なり。松平佐渡守殿領地なり。城はなし。田畠高、一万四千五百五十六石有。
 川下の方、たつみは海なり。信長公、秀吉公の時、合戦有し所也。」(『新日本古典文学大系98 東路記・己巳紀行・西遊記』一九九一、岩波書店p.19)

 佐屋は名鉄尾西線に佐屋駅がある。七里の渡し以外にも、陸路で佐屋を経由して桑名に行くルートもあった。佐屋街道と呼ばれている。
 昔の海岸線は熱田神宮より南にある今の堀川の「七里の渡し跡」の辺りから西に向かっていて、近鉄名古屋線の少し南側を沿うように伊勢長嶋の方に向かっていたのだろう。佐屋はそれより北へ一里といったところか。
 岩塚は今も名古屋地下鉄岩塚駅がある。その西には今の庄内川がある。上流は土岐川になる。川の向こうには今も名古屋市中川区万場の地名が残っている。神守は大分北の方に迂回するが、津島市神守町の地名が残っている。この南側は当時でも低地で、街道は北を迂回せざるを得なかったのだろう。
 佐屋へはここから南西に行くことになる。佐屋の西側は木曽川、長良川、揖斐川の三つの川が合わさる所で、ここから船で川を下って桑名へ向かうことになる。この三つの川はこれより七十年後の宝暦の頃に幕府の命令で薩摩藩が堤防を作り、木曾川、長良川、揖斐川は分離されることとなった。
 川の真ん中に伊勢長嶋がある。曾良の出身地で、木曾川の「曾」と長良川の「良」を取って俳号にしたという。
 伊勢長島には長島藩があった。ウィキペディアには、

 「慶安2年(1649年)、久松松平家の松平康尚が下野那須藩より1万石で入ることで再び立藩する。しかし貞享2年(1685年)に康尚の跡を継いだ次男・松平忠充が元禄15年(1702年)に乱心により重臣を殺害したため、改易された。代わって常陸下館藩から増山正弥が2万石で入る。」

とある。この時はまだ初代藩主松平康尚の時代で、従五位下佐渡守だった。
 伊勢長島の辰巳(南東)は海にまでつながっていて、そこはかつて一向一揆衆と信長秀吉の戦った合戦場だった。ウィキペディアには、

 「長島一向一揆(ながしまいっこういっき)は、1570年ごろから1574年にかけての石山合戦に伴い、伊勢長島(現在の三重県桑名市、伊勢国と尾張国の境界付近)を中心とした地域で本願寺門徒らが蜂起した一向一揆。織田信長との間で大きく分けて三度に渡る激しい合戦が起こった。」

とある。
 安土桃山時代は中世の顕密仏教から町人経済への移行期で、信長の楽市楽座は町人の側に立つ者で、従来の顕密仏教の権威とは真っ向から対立することになった。
 人口学的に見るなら、中世までの家督を継ぐことのできなかった余剰人口は、基本的に寺社へ預けられ、寺社が管理していた。寺社がこうした余剰人口を預かるにはそれだけ多くの寄進が必要で、それが武家の負担となり、その負担の付けは農民の負担にもなった。
 しかし一方で商工業が発達し、余剰人口がそうした所に流れ込むようになり、商工業の発達が生産性の向上をもたらすようになると、寺社の役割は縮小されてゆくことになる。
 早かれ遅かれ寺社は衰退して、信仰は社会的救済のシステムから個人のものへと転落する運命にあった。西洋ではそれはプロテスタントの台頭で宗教改革という形で起きたが、日本では武家による一方的な殺戮と破壊という結果になった。ある意味、日本人の無宗教化はこの頃始まったと言って良いのかもしれない。
 日本には仏教改革の指導者が現れなかった。その代りを果たしたのは、神仏儒道をその貫道するものは一つということで相対化する、俳諧の風流だったのかもしれない。世界中のすべての宗教も、結局元は一つという宗教観は、今も日本文化の根底の根強いものとなっている。

 「又、神守より佐屋へ行かずして、津嶋へ一里行て、川舟に乗る。津嶋は佐屋より半里上なり。津嶋へ行たるが、佐屋へ行たるより桑名へ行にははやし。いかんとなれば、陸路半里ちかくして、船路半里遠けれど、舟路は下る故、はやし。
 津嶋の渡、古歌あり。名所也。津島に祇園の社、川西にあり。六月十五日に山をつくり、通り物など夥しくて、遠近の人、多く来り集ひて是を見る。日本第一の大なる祭といふ。」(『新日本古典文学大系98 東路記・己巳紀行・西遊記』一九九一、岩波書店p.19)

 津島は名鉄線で二駅北になる。古歌に詠まれる名所ということで、かつてここを古代東海道が通っていて、馬津駅があったところではないかと思う。
 津島の渡しは、

 久方の月をはるけみ見つるかな
     つしまの渡わたなかにして
              藤原定嗣(宝治百首)
 舟人の津島の渡り波たかみ
     すきわづらふやこの世なるらむ
              宗尊親王(夫木抄)

などの歌がある。
 陸路は佐屋よりも長くなるが、川を下る舟のスピードを考えると、津島回りの方が早く着く。
 「津島に祇園の社」とあるのは今の津島神社であろう。ウィキペディアに、

 「中世・近世を通じて「津島牛頭天王社」(津島天王社)と称し、牛頭天王を祭神としていた。」

とある。牛頭天王は祇園の神だった。かつては京都の祇園社(八坂神社)と同様、六月十五日に大祭が行われていたようだ。

 「熱田より佐屋へゆく道の右に、豊臣秀吉の出給ふ在所有。いてうの木と云。加藤清正の在所、中村も此あたり也。蜂須賀、浅野など此辺にあり。」(『新日本古典文学大系98 東路記・己巳紀行・西遊記』一九九一、岩波書店p.19~20)

 豊臣秀吉の出自ははっきりしない。ウィキペディアには、

 「秀吉の出自に関しては、通俗的に広く知られているが、史学としては諸説から確定的な史実を示すことはできていない。生母である大政所は秀吉の晩年まで生存しているが、父親については同時代史料に素性を示すものがない。また大政所の実名は「仲(なか)」であると伝えられているが、明確なものではない。」

とある。出生地については、

 「江戸初期に成立した『太閤素性記』によれば、秀吉は尾張国愛知郡中村郷中中村(現在の名古屋市中村区)で、足軽と伝えられる木下弥右衛門・なかの子として生まれたとされる。通俗説で父とされる木下弥右衛門や竹阿弥は、足軽または農民、同朋衆、さらにはその下の階層ともいわれてはっきりしない。竹中重門の『豊鑑』では、中村郷の下層民の子であり父母の名も不明としている。江戸中期の武士天野信景の随筆『塩尻』には「秀吉系図」があり、国吉―吉高―昌吉―秀吉と続く名前を載せて、国吉を近江国浅井郡の還俗僧とし、尾張愛知郡中村に移住したとしている。」

とあり、概ね中村とされている。中村は今は名古屋市中村区という区の名前にもなっている。岩塚の北に豊国神社(中村公園)がある。そこへ行く道は豊国通りになっている。昔は「いてうの木」と呼ばれる場所があったのだろう。
 加藤清正はウィキペディアに、

 「永禄5年(1562年)6月24日、刀鍛冶・加藤清忠の子として尾張国愛知郡中村(現在の名古屋市中村区)に生まれた。母は鍛冶屋清兵衛の娘・伊都。」

とある。
 蜂須賀は尾張国海東郡蜂須賀郷で現在のあま市蜂須賀だという。津島市の北東にある。名鉄津島線の青塚駅の北側にその地名が残っている。
 浅野は尾張国丹羽郡浅野荘で一の宮の方にあり、浅野公園が屋敷跡として残っている。

 「万場の少北、馬嶋と云所に薬師寺有。其坊主、世にかくれなき目医者の家也。」(『新日本古典文学大系98 東路記・己巳紀行・西遊記』一九九一、岩波書店p.20)

 馬島は今の海部郡大治町に地名が残っている。万場の少し北西になる。薬師寺は今の明眼院で、ウィキペディアに、

 「南北朝時代に入ると、建武以後の争いの戦火で寺の大半が焼失して荒廃状態にあった。そこへ訪れた清眼(「馬嶋清眼」とも呼ばれている、永和5年3月19日没)が付属の白山社(現馬島社)とともに再興して、本尊である薬師如来にちなんで「医王山薬師寺(いおうさんやくしじ)」と改名した。
 延文2年/正平12年(1357年)のある日、清眼が自房である蔵南房(同寺首座)で睡眠をとっていると、夢の中に異国人が現れて、眼病治療の秘伝と眼病に効く霊水の在り処を告げた。目を覚ますと、その傍らに眼科専門の漢方医学の書が置かれており、夢で示された場所に行くと、霊水が湧いていた。これを薬師如来の化身によるものだと考えた清眼は、その書を精読したところ、異国人が伝えた秘伝の意味が理解できるようになった。そこで自房を眼病患者のために開放して、眼科治療を始めることになったのだという。
 当時の眼科の治療法としては、内服薬・薬液による洗眼・軟膏貼付・粉末撒布の他に鍼や烙法による簡単な手術などであった。それでも内障(当時は白内障や緑内障に限らず、硝子体や網膜の異常も含んだ)や結膜炎などの広範な治療に、効果を発揮していた。」

とある。

 「又、此間より天気よければ、加賀の白山、北の方に遠く見ゆる。飛騨国の山の谷あひより見ゆ。麓まで春も雪白し。熱田より佐屋の間、田畠平均にして草むらもなく、くろもなし。田の間に水道多して旱と大水にそなふる也。田の畔の間ひろし。」(『新日本古典文学大系98 東路記・己巳紀行・西遊記』一九九一、岩波書店p.20)

 名古屋から加賀白山の御前岳(2,702m)はぎりぎりで頭だけが見えるらしい。郡上八幡のある谷の向こう側になる。
 熱田から佐屋は低地で山がなく、田んぼばかりで水路が廻らされている。今日ではこの一帯はすべてゼロメートル地帯になっている。

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