2022年6月8日水曜日

 それでは「東路記」の続き。

 「大磯と小田原の間に小磯と云所あり。又、梅沢と云所に大なる藤あり。其さきに曽我の里、右に見ゆる。酒匂より少まへ、大磯の方に香津と云町有。」(『新日本古典文学大系98 東路記・己巳紀行・西遊記』一九九一、岩波書店p.6~7)

 大磯の今のJR大磯駅の西側に東小磯、西小磯という地名が残っている。この辺りが小磯だったのだろう。江戸時代だと大磯宿を上方方面に出た辺りになる。
 梅沢は今のJR二宮駅の西側で、梅沢海岸がある。浅井了意の万治二年(一六五九年)に成立したと推定される『東海道名所記』によると、茶屋があったという。
 大磯宿から小田原宿まで約四里で、かなり離れていたので、途中にこういう休憩場所があったのだろう。北には吾妻山公園があって、今は菜の花の名所になっている。
 この先JR国府津駅の辺りから北西へ行くと、今は曽我梅林があり、この辺りが昔の曽我の里になる。
 国府津は昔は香津とも表記されていた。『東海道名所記』には国府(こふ)とある。その先JR鴨宮駅を過ぎる所に酒匂川がある。
 
 「町の西のはづれに川あり。此川端より足柄越に行道有。足柄山は、富士のとをりより少北に、丸山あり。坂は箱根よりさがしけれども、山ひきくして坂みじかし。香津より関本へ五里ばかり。関本は箱根のごとく関所有。旅人の往来自由なる事、箱根のごとし。関本の西一里半許先に、竹の下と云宿あり。名所なり。竹の下より一里半西に、御くり屋と云町有。人家多し。御殿あり。富士のすそ野也。御くりやより吉原へ六里有。下りには吉原より道わかる。富士とあし高山の間を通る。木かげを通る所多し。馬次不自由なり。竹の下より吉原までは道平かなり。御くりやより沼津へも出る。是も六里有。此方は馬つぎ自由なり。足柄山は武蔵、相模へ通る道なる故、行人たえず。」(『新日本古典文学大系98 東路記・己巳紀行・西遊記』一九九一、岩波書店p.7)

 香津(国府津)の町の西はずれの川は、その酒匂川のことであろう。ここから足柄峠へ行く道があった。今の伊豆箱根鉄道大雄山線に添って行く形になる。終点の大雄山駅の先に今も関本という地名が残っている。古代東海道の坂本駅に比定されている。
 菅原孝標女『更級日記』の、

 「ふもとに宿りたるに、月もなく暗き夜の、闇に惑ふやうなるに、遊女(あそびめ)三人(みたり)、いづくよりともなくいで来たり。五十ばかりなるひとり、二十ばかりなる、十四、五なるとあり。五十ばかりなるひとり、二十ばかりなる、十四、五なるとあり。庵(いほ)の前にからかさをささせて据ゑたり。をのこども、火をともして見れば、昔、こはたと言ひけむが孫といふ。髪いと長く、額(ひたひ)いとよくかかりて、色白くきたなげなくて、さてもありぬべき下仕(しもづか)へなどにてもありぬべしなど、人々あはれがるに、声すべて似るものなく、空に澄みのぼりてめでたく歌を歌ふ。」

とあるのも、おそらくここであろう。
 江戸時代には関所があって、それで関本になったか、ただ箱根の関と同じようにスムーズに通ることができたようだ。
 足柄峠は箱根越えにくらべると標高も低く、急な坂はあっても距離は短い。静岡側に降りたところに駿東郡小山町竹之下という地名が残っている。かなり広い範囲だが、竹の下の宿は今のJR御殿場線の足柄駅がある辺りであろう。嶽之下宮があり、南北朝の頃に足利尊氏軍と新田義貞軍の戦った竹之下古戦場がある。
 「御くり屋と云町有。人家多し。御殿あり。」というのは御殿場であろう。ウィキペディアに、

 「平安時代後期、1100年頃伊勢神宮の荘園「大沼鮎沢御厨」があった。これ以降、御殿場市や小山町あたりを御厨(みくりや)と呼ぶ。」

とある。またウィキペディアに、

 「1616年に亡くなった徳川家康の遺体を久能山東照宮から日光東照宮へ移送する際に仮の御殿を建てて、遺体を安置したところから「御殿場」という地名は生まれた。御殿の位置は御殿場高校そばの吾妻神社付近だったとされている。御殿建設の際に各地から職人が集められ、御殿場市御殿場付近の町「御殿新村(御殿場村)」が形成された。」

とあり、それが今の御殿場の地名の由来になっている。
 ここから富士山と愛鷹山の間を越えて東海道吉原宿へ行く道があったようだ。今の富士サファリパークの方を通り抜ける道だ。国道496号線がその名残と思われる。あるいはより直線的な、今の演習場の中にある道の方に近かったのかもしれない。
 「富士とあし高山の間を通る。木かげを通る所多し。馬次不自由なり。竹の下より吉原までは道平かなり。」とあるように、道はなだらかだったが途中に宿場もなく、乗掛馬とかもなかったのだろう。距離的には箱根八里よりも長いくらいだが、朝早く発てばその日の内に何とか越えられたのだろう。
 「御くりやより沼津へも出る」というのは矢倉沢往還の道で、古代東海道もこれに近いルートを通っていたと思われる。こちらの方は馬次も良く、人通りも多かった。

 「〇大磯と小田原の間の海辺より、真名鶴が崎、土肥など見ゆる。石橋山有り。頼朝合戦の所なり。相州の内也。東鑑に見えたり。ねぶ河越、そこ倉の湯、此辺にあり。伊豆の御山も土肥のさきにあり。名所なり。沖に伊豆の大嶋見ゆる。大嶋は南北五里、東西三里。江戸へ四十里あり。伊豆の海、名所也。」(『新日本古典文学大系98 東路記・己巳紀行・西遊記』一九九一、岩波書店p.7)

 大磯と小田原の間の東海道は海岸線に沿って通るので、至る所から伊豆半島や伊豆大島を見ることができる。
 伊豆方面で目に付くのは真鶴岬でこの辺りが土肥郷と呼ばれていた。今も湯河原に足柄下郡湯河原町土肥という地名が残っている。相模土肥氏の土肥実平は源頼朝挙兵に同調し、石橋山の戦いに参加している。石橋山の古戦場はJR早川駅と根府川駅の中間あたりにある。
 「ねぶ河越、そこ倉の湯、此辺にあり」は場所的には熱海温泉のことと思われる。底倉温泉は箱根宮ノ下の方にある。熱海温泉はウィキペディアに、

 「江戸時代初期の慶長9年(1604年)、徳川家康が7日間湯治で逗留した記録がある(『徳川実紀』)。以来、徳川将軍家御用達の名湯として名を馳せ、徳川家光以降に、熱海の湯を江戸城に献上させる「御汲湯」を行わせた。」

とある。
 「伊豆の御山も土肥のさきにあり。名所なり。」とあるのは伊豆山で、熱海に北にあり、伊豆山神社がある。

 思ふこと開くる方を頼むには
     伊豆のみやまの花をこそ見め
              相模(相模集)

の歌に詠まれていて、名所になる。
 熱海の沖に伊豆大島が見える。

 「小田原と湯本の間、左に石垣山有。天正十七年、秀吉公小田原の北条氏政をせめ給ひし時の御陣所なり。又、早川と云川有。名所なり。古歌多し。小田原に早雲寺と云寺あり。北条五代の墓所也。」(『新日本古典文学大系98 東路記・己巳紀行・西遊記』一九九一、岩波書店p.7)

 東海道の小田原宿から箱根湯本の箱根宿との間、左側に石垣山城址がある。ウィキペディアに、

 「豊臣秀吉が天正18年(1590年)の小田原征伐の際に小田原城の西3kmにある笠懸山の山頂に構築した。秀吉は北条氏の本拠であった小田原城を攻略するために、大軍を動員して包囲中であったが、小田原城を見下ろす山上に城を、構築中は小田原城から見えないように築き、完成後に周囲の木を伐採したため、北条氏側にまるで一夜にして築城されたかのように見せて驚かせ、戦闘意欲を失わせる効果を果たした、とする話が残る。一夜城の名もこれに由来する。」

とある。
 早川は、

 うきことを早川の瀬に流すてふ
     名越の原へ誰かせざらむ
              永縁(堀河百首)
 早川の岩瀬の玉のかずかずに
     思ひくだけて恋ふとしらずや
              二条為氏(宝治百首)

他、多くの歌に詠まれているが、ここの早川かどうかはよくわからない。

 東路の湯坂を越えて見渡せば
     塩木流るる早川の水
              阿仏(夫木抄)

の歌は『十六夜日記』にもある歌で、箱根の早川なのは間違いない。
 早雲寺は箱根湯本にある。ウィキペディアに、

 「天正18年(1590年)、小田原征伐において一時的に豊臣秀吉軍の本営が置かれるが、石垣山城が完成すると当寺を含む一帯は焼き払われた。北条氏の庇護を失って荒廃したが、焼失後の寛永4年(1627年)、僧・菊径宗存により再建。慶安元年(1648年)、3代将軍徳川家光から朱印状を与えられ復興した。」

とある。

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